呪いのにおい
「絶対に、振ったりしないよね」――そんな目だった。
私と有馬くんが同じ気持ち…?そんなわけがない。衝撃で硬直する私に、有馬くんは両手を差し出し、こう言った。
「好きです。付き合ってください」
ここで、もう私は完全に断りを入れるほかないと思った。きっと話題を変えようとしても、彼は強引に話を戻すだろう。相手がどんな顔をしているのかなんて微塵も考えていない。ただ、”俺を受け入れてほしい”、彼の頭の中にはそれしかなかった。さっきまで「絶対に選ばない」と思っていた選択を、私は結局、選ぶことになった。
「ありがとう。でもごめんね、友達でいたい。これからも、友達でいよう」
……沈黙。
長らく続いた沈黙。先ほどまで私の言葉を遮るほど饒舌だった彼が、まるで命を抜かれた人形のように生気を失い、ただじっと私を見つめていた。先ほどまでの瞳に宿っていた強い支配欲や独占欲、執着といった感情は消え失せ、今の彼の瞳から伺えるのは、何もない底なしの空虚だった。瞳の奥の感情を読み取ろうとしても、どこまでも真っ黒で薄暗い、まるで井戸の底を覗き込んでいるような恐怖を覚えた。
およそ3分だろうか。この緊張の中、3分はあまりにも長かった。彼の瞳に徐々に熱が戻り、人間らしい光を取り戻していく。それから熱は柔らかな温もりを通り越し、急激に加速して、やがて強烈な怒りへと変貌した。彼は相変わらず黙って突っ立ったままだったが、その瞳は怒気で爛々と輝いていた。
ふいに、きつく結ばれていた彼の唇が微かに開いた。
「……だよね、そうだよね。急に、ホント、ごめん…明日、”友達として”、会おうね」
有馬くんは「ははは」と乾いた笑い声を漏らしながら、差し出したままの両手を引っ込めた。言葉こそ穏やかだが、到底納得のいっていない不満げな表情で、私を上から見下ろしている。気味が悪くて一刻も早くその場を離れたかったが、彼はわざと私を帰らせまいと黙り込んでいるようにも感じられた。
「じゃ、じゃあこれで、私は帰るね、また明日ね!」
私は強引にその場を終わらせ、さっさと歩き出そうとした。
有馬くんは何も言わなかった。私は引きつった笑みを貼り付けたまま、彼に背を向けて歩き出す。数メートル進んだところで、怖さに耐えかねて思わず振り返った。
彼は私の背中をじっと凝視していた。街灯の光が作り出す逆光で表情まではよく見えないが、半身をこちらに向けたままでいるため、私を見つめているのは確実だった。ただの友達である彼を警戒の対象にするのは、罪悪感で胸が締め付けられる。どうか、お願いだから、私にとって悪い人にならないで。友達でいさせて。私はそう祈りながら、再び駅へ向かって歩き出した。
☆
駅にようやく辿り着いた。たった徒歩7分の直線なのに、極度の緊張が重くのしかかり、酷く消耗していた。
身の安全を確認したくて、なんとなくもう一度背後を振り返る。彼はすでに私に背を向けて歩き始めていた。
だが、家系ラーメンのある対岸の歩道まで伸びる横断歩道が、数メートル先にあるにもかかわらず、彼はその横断歩道を利用するどころか、左右の確認すら一切せず、まっすぐ車道を横断すると、そのまま闇に呑まれるように角へと消えていった。
……。彼の不用意な車道の横断は気になるが、一応は納得してくれたっていう判断で、いいのかな。ほっと胸をなでおろす。ふと気がつくと、駅周辺にはたくさんの人が集まっていた。先ほどまでの通りはあんなに閑散としていたのに、今はあらゆる方面から人が流れ込んできている。
カップルやサラリーマン、サークル飲みの帰りでどんちゃん騒ぎをしていたであろう大学生の集団、何か感極まる出来事があったのか、お互いの背中を労うようにさすり合いながら涙ぐむおじいさん2人組。なんて平和な光景なのだろう。さっきまでの緊迫した空気とは一変し、この和やかな賑わいに、強ばっていた私の心はじんわりと解きほぐされていった。
それはまるで、この2年の、いつかのあの雪深い街で暮らしていたときの小さな家の、心地よい暖炉の炎に包まれているような温かさを思い出す。 しかし、心のどこかに拭えない違和感が残っていた。その正体を探ると、
……それは有馬くんの歩いていく後ろ姿にあった。一見すると、別に不自然な点などないはずなのに…。 もう一度、彼の去り際の後姿を脳裏で再生してみる。
あ。彼、あの後も途中まで私についてきていたのか。
違和感の正体は「距離」だった。彼が私に背を向けて、とぼとぼと最寄り駅とは反対方向に遠ざかっていったはずなのに、先ほど会話していた街灯の場所から、あろうことか2つ手前の街灯の位置まで迫ってきていたのだ。普通に歩いていれば、どんどん奥へ遠ざかっているはずなのに。彼は途中まで私の後をつけてきており、どこかのタイミングで踏みとどまって踵を返したということだ。もしもあの時、彼が歩みを止めずにそのまま私を追い続けていたら……。有馬くんは、私についてきていったい何をしようとしていたのだろう。彼の丸まった背中を思い出しながら、私はゾッとした。 そういえば、彼からはあの日のデートのときのような異臭はしなかった。変な獣のような生臭さも、ガソリンの臭いも、部屋干しの生乾きのような不快な臭いもなかった。だから、いかにも怪しげな「呪い」が彼の直接的な行動を引き起こしたとは考えにくい。
それに、やはり引っかかるのは彼の足元だ。彼はサンダル履きで、バイト先の対岸の歩道に立っていた。
会話をした時のふと見た彼の足の爪にはびっちりと泥が詰まり、乾いた土が足の甲にまでこびりついていたのを覚えている。もし電車で来たのだとしたら、いったいどこでそんな泥だらけになるような場所を通ってきたのだろう。今日は雲ひとつない晴天で、ここ一週間雨など一滴も降っていない。それに、帰りにわざわざ対岸の歩道の角に消えていったのも不自然だ。有馬くんは私とは反対方向、深雪ちゃんと同じ地下鉄の利用者のはずだ。地下鉄の入り口はバイト先の通りの並びにあるのだから、わざわざ対岸の歩道に回る理由なんてない。彼は一体、どこへいくつもりだったのか。
考えれば考えるほど合理的な理由が見つからず、私は明日のデートへの恐怖と不安を募らせていた。これ、本当に大丈夫?何か、とてつもなく良くないことが起きる気がする。私にも、有馬くんにも。いや、考えすぎだ。今日はとりあえず帰ろう。そして明日、有馬くんと直接言葉を交わした時に、改めて答えを出せばいい。
(――この時、私が自分の予感を無視せず、有馬くんの異変に真摯に向き合っていれば。あれほど彼の身なりに疑問を抱いていたのに、なぜ思考に蓋をして見過ごしてしまったのか。私は後々、この選択を骨身にしみて後悔することになる。)
☆
自宅のアパートにたどり着くと、私は結局、有馬くんとの間で起きた一連の不気味な出来事を、隣……の、隣に住む木星のかけらの魔法使い・千草に相談することにした。もちろんグループチャットで文字として共有する手もあったが、なんだか千草の持つあののびやかであっけらかんとした空気を浴びたくて、わざわざ彼の部屋の扉を叩いたのだ。
彼には、何か厄介な悩み事が持ち上がるたびにすぐこうして訪ねていた。ただ、彼は地球の魔法使いを捜索する担当として奔走しているため、留守にしていることも多い。彼は担当地域を見て回るついでに、街のトレンドや街の変化、どこにどんな店があった、なども細かく観察して話してくれるので、その道中の話を聞き出すのも僕の密かな楽しみだった。
僕がそんなふうにしていつもの調子で悩みを打ち明けると、千草は大きく背伸びをして、それからパチパチとゆっくりまぶたを開いた。
「なるほどねえ。まあでも、律樹にできることはもう全部やり尽くしたんじゃないかな?」
千草はきょとんと首をかしげる。彼は185センチもの長身でがっしりとした肉体を持っているため、目の前に立たれるとかなりの迫力がある。まるで生きた壁と喋っているような気分だ。もっとも、彼は気分や都合に合わせて子どもの姿に変身することも多いため、そのギャップで時々脳の処理が追いつかなくなる。見慣れたはずの姿形であっても、ふとした瞬間に強い違和感を覚えてしまうのだ。僕自身がだんだん人間の感性に染まってきているせいか、なおさら彼が異質に感じられる。彼のかわいらしい癖毛と、ビー玉のように丸くてクリクリとした瞳はまるで人懐っこい子犬のようなのに、体格だけは熊のようにごつい。何度見上げても、そのアンバランスさに圧倒されてしまう。僕は首を痛めそうになりながら会話を続けた。
「うーん、僕としてはやれる限りのことはやったつもりなんだけどさ……あまりにも”つもり”すぎないかなって。彼らにとって、何のプラスの働きかけもできていないような気がするんだよね」
「ふうん。まあでもさ、どんな成功のプロセスだって途中には失敗がつきものだし、今の律樹のアプローチだまだ過程じゃん?なら、失敗なんて想定内だよ。そもそもその2人はいずれ衝突する宿命にあったと思うよ、きっかけがなかっただけでさ。まーまー、今考えても仕方ないことは、いったん置いてお〜いて――」
千草がずいっと顔を近づけて、にやりと笑う。
「俺さ、最近この街のお稲荷さんと仲良しになったんだけど、面白いこと、聞いちゃった♫」
----彼の話では、事の起こりはこうらしい。彼の見回り担当エリアには古い稲荷神社があるらしい。その稲荷神社の境内は、いつ行っても雑然としていて、人間の神主が常駐しているのかも怪しい寂れた神社だった。千草は毎回、見回りのついでに冷やかし半分でお邪魔していたのだという。そこの主であるお稲荷さんたちには、姿さえ見えないものの、最初はまるで値踏みするかのようにじーっと冷ややかに観察されているような気配を感じ、さすがの千草も緊張をしたようだ。しかし、千草にとってその「緊張感」というスパイス自体が極めて興味深く、彼は見回りのたびに足繁く通うようになった。
そうして顔を合わせるうちに、お稲荷さんたちともっと深く言葉を交わしたくなり、まずは仲良くなるために境内の掃除をする事にした。(もっとも、千草はもともと家事が苦手なので、まともに綺麗にできていたのかは怪しいが)。さらに、お稲荷さんが好みそうないなり寿司や日本酒を毎度巡回の往路にそっと供え、復路にそれらを回収して帰るという、千草にしてはかなりマメなルーティンを重ねていたらしい。
はじめのうちは、お稲荷さんもその千草の姿を無言のまま、ただじいっと観察しているだけだった。だが、ある日いつものように回収しようとすると、突如として足元の地面から巨大な耳がにょきりと生えてきて、その直後、目尻がきゅっとつり上がった息をのむほど美しいお稲荷さんが、ぬっと顔だけを地中から突き出してこう言ったのだ。
「いなり寿司は飽きた!甘いものを持ってくるべし」
……いや、言ったのではなく、脳に直接、千草の声を借りてこのメッセージを送ってきた、らしい。
そして、大きく開いた口の端をペロリと赤い舌でなで回し、悪戯っぽくニヤリと笑ったのだそう。僕ならそんな姿を見たら腰を抜かして気絶しているところだが、千草はその反応に「よし、食いついた!」とやる気がみなぎってきた。すご……。次の日、彼は卵ボーロにきなこ大豆、ガトーショコラ、そしてほろよいの桃サワーまで買い揃えてお供えした。その日の復路に回収しに戻ると、お稲荷さんの数はすっかり増えており、ミニサイズのものから足元しか見えないほど巨大なもの、女の姿をしたもの、さらにはヒトの面影がほとんどない野生の獣のようにモフモフした小動物が、境内をコロコロと所狭しと駆けずり回っていたらしい。____もしかしたら、増えた、のではなく、ようやく他のお稲荷さんの姿も見せてもらえた、のが正しいのかもしれない。
そこから一気に距離が縮まったようで、世間話から千草がこの街にやって来る前の昔話まで、ありとあらゆるディープな情報を仕入れてきたという。その雑談の中で、「最近、私たち(お稲荷さん)の偽物が稲荷のふりをしてこの街をうろちょろしているらしい」という不穏な話を聞いたのだ。千草はもしかして新しい呪いの類いかな?と直感し、独自の調査を広げた結果、ある一人の人間に辿り着いたという。
「その偽物にぴったりマークされて標的にされてるのが、律樹の言ってた『有馬サトル』って子っぽいんだよねえ」
「うそ……!」
「まあまあ、ほんとに合致するかどうかは、特徴を照らし合わせてみよ〜よ。ちなみに、あそこのお稲荷さんもその件はしっかり把握してたよ」
「ええっ!?」
「今度、一緒に顔出しに行ってみる? もしかしたら、いい子にしてたら力を貸してくれるかも、ね」
千草はそう言うと、にかっと爽やかに笑った。




