俺にはもうなにもない
頭が痛い、頬が痛い、手が痛い、口の中が痛い、鉄の味がする。
足も痛い、立てない、疲れた、何もしたくない。
片付けないと、面倒くさい、疲れた、何もしたくない。
梅サワー、あんなに飲むんじゃなかった。気持ち悪い、吐きそう。いや、吐かないか。いや、やっぱり気持ち悪い……。いや、1歩たりとも動きたくない。
死にたい、死にたい。 脳裏にその言葉が反響する。
死にたい、死にたい、死にたい、死ぬのすら面倒くさい、でも死にたい、消えたい。もう終わりだ、何もかも、何もかも終わりだ…。
俺は……俺はずっと可哀想だった。
父親に馬鹿にされ、決して認めてもらえず、俺はずっとずーっと何かが欲しかった。でも、自分が本当は何を求めているのか考えようとしなかった。今もそうだ。考えたくないから、思考に蓋をする。
以前の俺ならストックの女を呼んで部屋を片付けさせたり、何かをしてもらうことで考える隙をなくし、その場しのぎの快楽で埋めていたはず。
でも律樹に出会ってから、なんだかそんな気も起きなくなった。
俺は、律樹という本物の理想に出逢ってしまったのだ。
だから機種変更と同時に、自然とLINEの引き継ぎもしなくなっていた。
もしも、過去のだらしない自分がいたら、清廉潔白の律樹と対等に向き合えない気がしたから…。
それほどでに律樹は俺にとって欲しいものであり、手に入れるためなら……。
…うっ、気持ちが悪い。
俺は口元を手で押さえ、トイレに駆け込んだ。間一髪で便器に滑り込み、胃の中の物を全て吐き出した。そういえばあいつ、思いっきり俺の腹も殴っていったよな。あの時よく吐かなかったな、などと、動いたことで、思考が徐々に戻ってきた。
戻ってきたかと思うとまた次の吐き気が襲いかかり、胃酸を絞り出すように嘔吐く。結局そこからしばらくは便器から離れることはできなかった。
全身の至るところが痛む。それに口の中の惨状は最悪である。俺は仕方がないので、どうにか壁をつたい、シャワーを浴びることに決めた。
替えの服を取りにトイレからリビングに戻る。
事件があったのかと疑うほどの惨状だった。グレーのカーペットだから、幸い血痕は目立ちにくいが、クリーニングで落ちるだろうか。いや、いっそ買い替えてしまおうか。
キッチンは……ひどいな。買ったばかりの鍋が粉々だ。まあ安かったからいいか。
片付け面倒くせえな。丸山に片付け頼むか…
…あ、丸山と喧嘩したから無理か。こういう時、親ともっとまともな関係だったら、親父が駆けつけてくれて、「お前ばかだなあ、俺とそっくりだなあ」なんて言って片付けてくれただろうか。
チッ、丸山のやつ、あいつ何にも片付けずにさっさと帰りやがって…薄情な奴。
ひでえ、ほんとに……それで友達かよ……。
俺は右手のひらの痛々しい切り傷をかばいながら、クローゼットから適当に下着とシャツを引きずり出し、風呂場へ向かった。
足の裏も時折ピリッと痛む。おそらくあの時散らばった鍋の破片が刺さっているのだろう。
足を引きずりながら廊下を進む。両足の負傷のせいで、たったこれだけの距離が途方もないように感じられた。
1歩踏み出す度に激痛が走る。ようやく辿り着いた風呂場で、汗と血と、色々なもので汚れた服を脱ぎ、洗濯機に放り込む。浴室の扉を開け、備え付けの全身鏡に俺が映った。
そこにあったのは、全身あざだらけになり、顔は泣き腫らした目と丸山に殴られた痛々しい痕で腫れ上がった顔の男だった。
あちこちに血が飛び散り、腹部にはうっすらと紫がかる内出血が広がっている。
顔、ほんとひどい有り様だな。俺は鏡に顔を近づけ、自分の状態を確認した。あちこちに乾いた血がこびりつていて、どこからどこまでが傷なのか判別がつかない。
目は充血していて、腫れ上がり、ぶよぶよしている。とりあえずお湯が出るまで待つ気力もなく、冷たいシャワーを顔に当てた。固まった血を、優しく擦りながら流していく。
一通り流し終えて鏡を見る。唇をめくってみれば、奥歯の近くの内頬も、唇の裏側もざっくりと切れていた。これじゃしばらくまともに喋ることも、食うこともできなさそうだ。
舌先で傷口をそっと触る。これ口内炎になったりすんのかな。
口の中だから治り悪いよな、はあ面倒くせえ。
俺はそんな風に考えながらシャワーヘッドを握り直す。
瞬間、ズキっとした痛みが俺を襲った。「いってえ」
……そうだ、右手、怪我してるんだった。
クソ。怒りを感じつつも、今はボロボロすぎるので物に当たったところで痛いのは俺だ。何かに当たりたい衝動を抑え、シャワーヘッドを左手に持ち替えてお湯が出るのを待った。
ふと、じわじわと口の中が生温かくなるのを感じて鏡を見ると、まだ傷が塞がっていなかったようで、唇の裏から滲み出た血が、下の歯を赤く染め上げていた。
その惨めな俺の姿を見た瞬間、プツリ、と脳内の何かが、音を立ててはち切れた。
もう、情けなくも、大声で泣いた。
今日は、ずっと泣いてばかりだ。
もう、何に対して泣いているかもわからない。いつの間にか涙腺が壊れたかのように涙が溢れ、あまりの惨めさにたまらずうずくまった。
シャワーのお湯と涙の温度が混ざり合い、どれが涙なのか分からない。
ただただ、声を殺さずに泣いた。ひたすら泣いた。
泣きながら、脳裏に真っ先に浮かんだのは、「お父さんにこんな情けない姿を見られたら、軽蔑されるだろうな」だった。
家では、泣くことなど許されなかった。
泣いたら家から追い出されていたし、男が泣いていいのは親が死んだときだけ。
転んで怪我した時も、学校でいじめ紛いのことをされた時も、お父さんは味方にはなってくれなかった。
むしろ、めそめそ泣く俺を「情けない」と一蹴し、なぜその場でやり返さなかったのかと、冷たい言葉で何時間も詰問し続けた。
勉強も「分からない」と言ってしまうと、その問題集を取り上げ、内容を確認した後、俺を見て、それから馬鹿にしたように笑うのだ。「こんなこともできないのか。俺の息子なのに」
それから小学生以来、泣くのをやめた。「分からない」と言うのもやめた。
泣きたいときはこっそり自分の部屋の押し入れで泣いたり、お父さんがいない間に、お母さんのベッドに潜り込み、頭の上から毛布をすっぽり被って静かに泣いた。
俺は、お母さんにも泣きつけなかった。お母さんは優しかったけれど、前に俺が転んで泣かなかった時、嬉しそうに「サトルは強いね。偉いね」と言ってくれた。俺はその時、お父さんとお母さんは同じ意見なんだと確信した。違うと言われても、幼い時に感じたものは、大人になって理屈が理解できても、感情では納得できずに固くなってしまうものだ。俺が泣いたら弱くて偉くなくなっちゃうから、泣いたらいけない。
それからずーっと泣くのを我慢していたから、久しぶりにこんなに泣いた気がする。
だからこそ、決壊したら、止められなくなってしまう。小中学校の頃から溜め込み続けた全てを流す勢いで、泣き濡れる。
血の混ざった赤黒い唾液が、足元の排水口へ渦を巻いて吸い込まれていく。
情けない、情けない。友達と喧嘩したくらいで、好意の有無くらいでこんなに泣いて、何をしてんだ、俺は。
誰かに抱きしめてほしい。友達は数え切れないくらいいる。でもあいつらはきっと、俺が泣いたら「うわー」って顔するし、適当に話題を逸らされて終わるんだろうな。丸山は少し、いや、全く違ったが、その丸山すらも俺は自分の手で突き放してしまったな。
俺に構う女も大勢いた。あいつら、馬鹿だと思ってたけど、俺が泣いた後に呼んだ時も、あえて見ないフリをしてやり過ごしてくれたのかな。
てかこんな泣き腫らした顔、泣いてたことくらい一目で分かるはず。なのにあの時も、あの時も、触れられたくない俺の領域に踏み込まずにいてくれたのか。でも俺、突き放しちゃったな。女の連絡先、消さなきゃよかった。
律樹が現れなければ…消してなかったのに。
律樹が現れなければ、数少ない本音をさらけ出せる友達も失うことはなかったのに。
でも、
「律樹……、好きだ。俺のものになって」
ごぼごぼと激しく音を立てながら、排水口へ流れ落ちるシャワーの流水音に掻き消されるほどの、小さな声で呟いた。呟いたというよりは、
勝手に零れ落ちてしまった。




