喧嘩するほど仲がいい
俺は、避けることができずに、有馬くんの攻撃を受けてしまう。
左肩を負傷したが、アドレナリンが出ていて痛みがほとんど感じられず、体格差で勝る俺はそのまま有馬くんの顎を狙った。彼は自分の攻撃に夢中だったので(おそらく刃物を使ったからだと思うが)、守備なんてガラ空きだった。
容易に有馬くんは2発くらい俺の拳を受けたので、大きな音を立てて食器棚に頭を打ったのち、ずるずると破片の散らばる床に崩れ落ちた。幸い食器棚は扉がきちんと閉めてあったので有馬くんにさらなる追い打ちをかけることはなかったが、有馬くんは口を開けて、切れた口内からだらだらと血を流していた。大きく肩を上下させて呼吸をしている。彼の右手にはまだ破片が固く握られていた。
俺はそのことに腹が立った。まだこいつは握りしめてるのか。ふつふつと沸いた更なる怒りが、ついに決壊した。
「ほんっと、てめーは卑怯者だな! 騙し討ちみたいなことばっかりしやがって! 卑怯なんだよずっと、ずっと、ずっとずっとずっと!」
有馬くんは俺を睨みながら、体に力が入らないのか黙って聞いていた。
「カフェのときもゴミみたいにグラス押し付けやがって。クソ寒い持論展開して上から目線で言ってたくせに、律樹に脈なさそうってだけでこれかよ。結局女に人生振り回されてんのお前じゃねえか。なあにが『律樹、律樹』だよ。そんで格下認定してた俺に逆襲されてブチ切れて、鍋の破片で傷つけやがって!」
これを聞いた有馬くんはわなわなと肩を震わせ、血を流しながら無様にゆっくりと俺に破片を突き立て、声を荒げた。
「お前に! 一番言われたくねえんだよ! センスもない、陰キャでチー牛、俺の金魚の糞のくせに歯向かってんじゃねえよ! 一生日陰者でいろよ! なんでてめえの方が律樹と仲良くしてんだよ!」
また、律樹か…。こいつが妙に最近俺に突っかかってくる理由が、ここで露わになった気がした。やっぱり律樹のことで思い通りにいかないから俺に当たってたんだな。
「やっぱ見下してたんだ、俺のこと。実はな、俺もお前を見下してたよ! お前が誰かのお下がりの至言を我が物顔で話してるとき面白かった! 生きてりゃ誰でも得られるような知見を、まるでお前には分からねえだろうなみたいなしたり顔で展開してきたときも、あれほんっと笑ったな~! 律樹に構ってもらえないストレスを俺にぶつけて、俺をどうにか傷つけようと必死だったんだよなお前は!」
俺は、思っていない言葉も勢いに任せ、有馬くんにぶつけた。有馬くんは俺の言葉に、頭を殴られたような表情で、しばらく動かなかった。
しんとした静寂の中、キッチンには荒い呼吸音だけが響く。
有馬くんの目にはだんだんと影を落とし、悔しさと屈辱に顔を歪ませた。
切れて血がこびりついた唇を震わせ、うわずった声でぽつりぽつりと呟いた。
「お前も……俺の父親と同じだ……。俺のこと馬鹿にしやがって……おちょくりやがって……」
「は?」
耳を疑ってしまう。彼の口から零れた言葉は、俺の予想外の言葉だった。
「お前は幸せな家庭で育ったんだろうな。順風満帆で。俺は違う。俺はずっと馬鹿にされて、認めてもらえなかった。泣いたら怒られて、『男は泣くな』って、『情けない』って…」
有馬くんは俺に向けていた鍋の破片を徐々に下げていった。そして床に破片を落とし、ぶらんと垂らしていた手足をぐっと縮こませ、その場にうずくまる。
喉の奥を押し潰したような声で、絞り出すように続けた。
「だから……お前に励まされてたまるか。幸せなやつのそれは、ほんとに惨めったらしく感じるから大っ嫌いなんだよ! 幸せな奴から分けられるそれが、ほんとに嫌いだ! 分けるくらいなら全部俺にくれ! 自分だけ安全な場所から、自己満のためにヒーローぶんなよ!」
こいつのことを理想化していた自分が恥ずかしい。本当に見てくれだけの、中身がスカスカの偽物。
自信も、ただ失敗体験が少ないからってだけ。乗り越えた回数が多い人から滲み出る「確たる自分を見つけた人の自信」と、単純に失敗体験をしないように逃げてきたやつの「ハリボテの自信」を、この前までの俺は見抜けなかった。
現にこいつは俺の表面だけの“幸せそう”な印象だけで俺を判断していた。想像力が微塵もない。
「お前、俺のことなんも知らねえくせによくそんなこと言えるな。加害者のくせに被害者になろうとすんなよ。逃げてばっかり。人のせいばっかり。こんな面倒くさいお前を見捨てずにそばにいてくれた子に感謝すらなし。そのくせ差し伸べる手も振り払って『誰にも理解されない』て悲劇の主人公って感じ?俺はお前がそこにいる限り、一生お前を見下して生きるよ」
喧嘩して仲直り…、なんて簡単にいくわけがなかった。まあ、最初っからそうなる予感はしてたけど。だって喧嘩の原因はただのすれ違いじゃないから。有馬くんの人間性の根幹、その軸についてだったからだ。
まあ、まさかここまでの大喧嘩になるとは思わなかったが。ただただ、どっと疲労が押し寄せる。俺は、うずくまる有馬くんを冷めた目で見ながら、帰宅しようと玄関へ向かった。
今の有馬くんとまともに話し合いなんてできるはずが無いからだ。
俺は散らばった自分の持ち物を拾い上げ、せっかく綺麗に片付けてやった部屋が血やら破片やらで汚れてしまったことに寂しさを覚えながら玄関のドアノブに手を掛けた。
ピンポーーン。
インターホンが鳴る。有馬くんを振り返って確認するが、とても来客に対応できそうな様子ではなかったので、仕方なく俺が対応することにした。
「隣の部屋の勝俣ですけど」
おばあさんは70代くらいに見えた。薄桃色の寝巻きを身にまとい、左手でしっかり握りしめたスマホの画面には「110」の番号が既に入力してある。
あとは親指をすべらせて通話ボタンを押すだけの、通報待ったなしの状態だ。
彼女は開いたドアの隙間から、中の様子をジロジロと見て、何か事件でも起きたのでは無いかとぐいぐい中に入るような勢いで体を押し込むように覗き込んできた。
「あ、あれ……うるさかったですか。すみません」
おばあさんは俺の肩から血が滲んでいるのを見て、修羅場の雰囲気を察したのか、サッと険しい表情を和らげた。
「いやあ、何でもないのよ。ただここ最近ずっとドタバタうるさいもんだから、ペットでも飼ってるのかと思って。飼ってたら私、動物好きだから触らせてもらえないかななんて思ったのよ。ごめんなさいね」
俺はできるだけ110番を押す決心をさせないように、引き攣る頬を必死に動かし、大げさに良い人を装った。
「いやあ、すみません。ペットは飼ってないんです。今、部屋をリフォームしてて……ほ、ほらこの傷、上からいろんなものが落ちてきて、もうボロボロで。これから病院に行こうとしてたんですよ」
おばあさんはそんな子供だましのような言い訳に疑いの目を向けつつも、これ以上深入りは危険と踏んだのか、ふっと目を逸らした。
「あら、そう。大変そうね。でも毎晩毎晩、深夜にバタバタされると私眠れなくなっちゃうから、なるべく静かにお願いね」
そう言って踵を返し、その場を離れた。俺がドアの外に出ると、彼女はまだ自室に入っておらず、
俺と廊下ですれ違い、かなり離れたところまで見送った後にようやく自室に戻り、素早く鍵を閉めた。
おそらく襲われるのではと警戒したのだろう。当たり前だ。身長180センチ近くある男が肩から血を流し、顔を大きく腫れさせて立っていたら、警戒しない方がおかしい。
おばあさん、怖い思いさせてごめん……。
心の中で謝りつつ、有馬くんの部屋を何度か振り返り、やはり戻って謝るべきかと考えを巡らせる。しかしどう考えても元凶は有馬くんだし、騙し討ちしてくるし、自分のためにも帰宅することにした。




