騙し討ち
「俺、律樹と付き合えなかったら、律樹が俺のものにならなかったらどうしよう」
有馬くんは情けなく丸めた背中をもっと丸めて、頭を抱えていた。恋とはすごい。あんなに自信満々で、人生になんの悩みもない「すべて俺次第」みたいなやつが、簡単にこんな状態になる。
「どうするもなにも、吹っ切れるしかないよ。俺もいるじゃん。話だって聞くし」
「お前にはわかんねえよ! 振られてばっかのお前には! 俺は振られた経験なんてゼロに等しいんだ。お前なんかに励まされてたまるか……!」
くるっとこちらを向いて噛みついてきたかと思うと、言いながら涙を目に浮かべ、その大きな目からじわじわと涙がこぼれていった。俺は内心、本当に心地良かった。いつも俺を見下しているこいつが、まさかなっさけない顔で泣くなんて。恋って最高だ。恋ってありがとう。恋って復讐だ。俺は心の中で律樹に何度も感謝した。
「俺、自分から行って、もう失敗したくない。プライド折られたくない」
「恋にプライド持ち込んだら終わりだろ。恋なんてダサくてなんぼじゃないの?」
俺はわずかな優しさで励ますつもりで言ったつもりだったが、有馬くんのプライドをさらに傷つけるような発言をしてしまったようで、彼はその綺麗な顔を歪ませて俺に精一杯の怒りをぶつけてきた。
「お前は生まれてこの方ずっとダッセーから、失うもんなくていいよな! 俺はこんなにプライド傷つけられたのは初めてなんだよ!」
「……ハア? お前調子乗んなよ」
さすがにカチンときたので、ついこいつの煽りに乗ってしまった。しかし、一度乗ってしまうともうセーブが利かなくなってしまう。このテンションで全て言いたくなってしまったのだ。有馬くんも俺に「調子乗んな」と言われたことがよほど衝撃的かつ腹が立ったようで、酔いなんて冷めてしまったみたいに目を充血させながら、
「おい、今なんつった。お前に『調子乗んな』って言われる筋合いはないんだよ」
「いや、あっさいなーって思って」
「浅い?」
「ちょっと脈なしっぽいってだけで大泣きして、そのくせカフェでは俺様ぶってたやん。なあんか女について得意げに語ってたけど、実際その程度ってことじゃん」
「お前……!」
有馬くんは見たことのない形相で俺に掴みかかってきた。すかさず俺は、
「あれ、論破されて苦しくなって暴力に走る下等生物とは違うんじゃなかったっけ」
と煽り返す。有馬くんは充血した赤い目で、その瞳孔を大きく開いて、構わず俺をグーで殴ってきた。
そこから俺は完全にスイッチが入ってしまい、俺は、それを合図のように勢いよく有馬くんに飛びかかり、酔っ払って動きが鈍くなっている有馬くんに馬乗りになって、憎たらしい顔を、そして鍛え始めの彼の腹を何発も殴った。肉の柔らかさの奥に若干の筋肉を感じながら、それでも止めることはできなかった。有馬くんは何度も「ごめん、俺が悪かった」と謝ったが、今まで馬鹿にされてきた分アドレナリンが噴出して止められなくなっていた。
――咲さんだって「殴り合いで解決しろ」って言ってたし、いいよね。
有馬サトルのおびえ切った表情を見て、俺は支配欲が刺激され、思わず笑ってしまった。
もっとこの男を痛めつけたい。怖がらせて服従させて、過去の自分を救いたい。そんな気分で頭が満たされそうになった時、ふと思い出す。
一方的な暴力は、喧嘩でもなんでもない。
うっせーな。今までのこいつの行いに比べたらプラマイゼロだろ。俺が裁いてやったんだ。
力が同じくらいの者同士の殴り合いじゃないと喧嘩じゃなくて暴力だなんて、相殺できないなら罪だなんてわかってる。
でもうるさい。うるさいうるさい。
目の前の、ぐったりと頬に内出血を作る有馬くんを見下ろす。有馬くんはもう抵抗もしていなかった。俺とお前、2センチしか身長変わんないんだから、殴り返して来いよ……これじゃ俺が一方的に殴ったみたいじゃんか。有馬くんは苦しそうに呼吸をしている。俺はしばらく馬乗りになったまま放心していた。
俺は一発左頬に有馬くんから泥酔パンチをくらった程度で、有馬くんは自分で始めたとはいえ起き上がれる気力もないのか、腕を体に沿わせるようにだらんと床に伸ばしている。まったく大げさだ。たかが2センチしか変わらないのに、そんな体格差なんてないのに、まるで大男に一方的に暴力を振るわれました、というような……まったく大げさな……大げさな……。
俺は徐々に不安になっていき、有馬くんの胸がしっかりと上下しているかの確認をしたくなった。そっと有馬くんの胸に手を当てる。大丈夫……大丈夫だ、一応呼吸はしている。いや、見ればわかることなのだが、あまりにも急になんのアクションも起こさなくなったので、不安になったのだ。俺が有馬くんの胸に当てていた手をすっと離そうとしたその時、腕をがっしりと有馬くんに掴まれ、そのまま片方の腕で頬に一発決められた。有馬くんは「してやったり」という表情で、血まみれの顔で、アドレナリンで目がギラギラしたまま、もう一発俺に殴りかかってくる。俺は黙って暴れることなく受け止めた。なんせパンチがあまりにも軽かったから、というのも理由の一つである。
☆
俺はひとしきりボコボコに殴られた後、気の済んだ有馬くんが再び床にごろんと寝転がったのを横目で確認してから、口の中の血の味をしっかりと味わった。うん。俺は分かっていた。彼が煽りに乗ってくること。わざと殴らせたところも正直ある。それで、俺はそれを理由に有馬くんをボコボコに殴りたかったのだ。免罪符が欲しかった。それにまんまと乗ってきた有馬くんは、やはり俺よりも馬鹿だなあと思う。自分の思い通りにならないとすぐにヒスって殴ってくるこの男。ずいぶん許されてきたもんだ。俺は横たわる血まみれの有馬くんに聞いた。
「気済んだ?」
有馬くんは答えなかった。まあ、当たり前だ。自分で仕掛けたとはいえ、格下認定していた俺にボコボコにされるなんて夢にも思わなかっただろうし、相当プライドは粉々にされただろう。俺はその雰囲気を察してしばらく黙っていた。口の中を切ったようでずっと血の味がするのが気持ち悪く、俺は勝手に有馬くんのキッチンで口の中を洗った。有馬くんはまだ寝そべっている。俺はその様子を確認しつつ、左頬が熱を持って脈打つように痛むのを感じながら、勝手に有馬くんの部屋の冷凍庫からアイスノンを取り出し、頬に当てた。ふと彼を見ると、肩を小刻みに揺らして泣いていた。
それから涙を隠しながら、
「勝手にアイスノン使ってんじゃねえよ。俺によこせ」
と言った。俺はすぐに有馬くんの方へアイスノンを投げた。ぼすっ、と有馬くんの額にアイスノンが乗っかった。そのアイスノンの下で隠すように有馬くんは泣いている。どうすることもできないので、俺はそのまま居座っていた。時刻は20時だった。
☆
有馬くんはアイスノンで少しの間頬を冷やすと、俺のいるキッチンの方へ向かってきた。「痛ってえ…」と言いながら俺を睨み、「そこ退け」と手で合図してきた。俺はある程度顔を洗うことができたので、その場を譲ろうとした。その時
拳。
目の前に拳が見えた。しかし瞬発力では反応できず、もろに拳を喰らってしまった。彼はシンプルに、一番ダメージを与えようとかそんなことなど考えず、鼻っ柱に渾身の騙し討ちパンチをしてきた。こいつ騙し討ちばっかりだ。軟弱軟弱。
俺は殴られ、さっき片付けたばかりのキッチンの鍋に手がかかり、思い切り床へ叩き落としてしまった。有馬くんは床に散らばった鍋の破片を掴み、俺に向かって突き刺そうとした。俺も死ぬかと思ったので、手元に当たった鍋の破片を掴み、手に血をにじませながら有馬くんに飛びかかる。しかし俺は本気で彼を破片で傷つけようとは思っていなかったので、その破片は切りつける寸前で拳に握り込み、有馬くんの左頬にそのまま殴りかかった。有馬くんは何の躊躇もなく俺の方に切り付けてきた。一瞬視線が宙を泳いだので、おそらく致命傷にならないがどこかしら傷をつけたい、引き下がれない、そんな感情が目から読み取れた。
今の彼になら、もしかしたら殺されてしまうかもしれない。そんな恐怖を感じるほど、空気はピンと張っていて、避けるか受けるか、すぐに判断しなくてはならない状況にまでなっていた。




