第九章 遠い街の光 近い街の温度
年が明けると、朝の三番ホームには白い霜が降りた。
中心駅で電車を降りた美紀は、手袋をしたまま、バッグの中で定期券を探した。最近は、涼に会わない日もある。彼はこの駅から二十分ほど離れた家の一室を借り、午前中は弁当の配達を手伝っていた。
初めて制服姿を見た時、美紀は笑いそうになった。涼が先に笑った。
「全然似合わないでしょう」
「ううん。ポケットが多くて便利そう」
「伝票、どこに入れたか分からなくなるんです」
涼は胸と腰を順に叩いた。
その手つきを思い出しながら、美紀は定期券を見つけた。
配達の仕事は、思っていたより体力を使うらしい。年末、涼が肩を回しながら「絵を描く筋肉と、配達する筋肉は別なんですね」とぼやいていたのを、美紀は思い出して小さく笑った。
正月の三が日は、実家に親戚が集まった。美紀の従兄弟の子供たちが、居間を走り回っていた。
「美紀ちゃん、彼氏いないの」
叔母に無邪気に聞かれ、美紀は答えに詰まった。
「今度、紹介できる人がいたら」
そう濁しながらも、頭の中には涼の顔が浮かんでいた。それを誰にも悟られないよう、美紀はお雑煮のお替りをよそった。
夜、皆が帰ったあと、和子が台所の片づけをしながら、ぽつりと言った。
「あの絵を描く人、最近見かけないけど、元気にしてるの」
「涼さん? うん、元気だよ」
「そう。......大事にしなさいよ、そういう人」
和子は洗い物の手を止めずに言った。美紀は驚いて母の横顔を見た。
「お母さん、知ってたの」
「知らないふりくらい、できるわよ。あなたがこの数ヶ月、あんなに楽しそうにしてるの、見てれば分かる」
美紀は何も言えず、ただ布巾を受け取って皿を拭いた。母の優しさが、今はただありがたかった。
一月の半ば、涼は東京へ行くことになったと話した。
黒澤に教えてもらった相談先で、手元の書類を整理した。画廊に預けた作品を確認し、途中になっている仕事の扱いを話し合う必要があった。
「全部、すぐに終わるわけではないそうです。僕が連絡しなかったせいで、分からなくなったこともあって」
美紀は、駅舎のベンチで彼の話を聞いていた。外のホームは風が強く、長く座れなかった。
「いつ行くの」
「来月の第二月曜から。金曜日に戻るつもりです」
「二月の?」
「はい。向こうの予定が、その週しか合わなくて」
閉会まで二週間ほどの時期だった。美紀は手帳を開いてから閉じた。
「帰りが延びることもある?」
「あるかもしれません」
「分かったら、教えてね。飾る絵のこと、健太さんたちにも伝えないといけないから」
「はい」
美紀は自分の言い方が仕事の連絡に寄りすぎたと感じたが、そのままにした。
涼は、別の封筒も来たと話した。小さな合同展への誘いだった。以前の担当者とは違う人からで、今の絵を見たいと書いてあった。
「出すの?」
「まだ分かりません。会って話すだけでも、と」
「そう」
美紀は駅の時計を見た。時間には余裕があった。
「東京で描きたくなることも、あるんでしょうね」
涼は少し考えた。
「あると思います」
美紀は頷いた。頷いてから、息が浅くなっていることに気づいた。ホームに吹く風が、二人の間を通り抜けていく。
「美紀さんは、ここにいてほしいですか」
あっさり尋ねられたので、用意していた言葉が役に立たなかった。
「いてほしい」
声が思ったより大きく出た。
「......でも、行ってきて。私が平気な顔をするかどうかで、決めないで」
涼は膝の上の手を握り合わせた。
「はい」
二人の前を、学校帰りの高校生が弁当袋を揺らして通り過ぎた。美紀はその子たちが改札を出るまで、次の言葉を探していた。
その夜、美紀は自室で、東京の街並みを思い浮かべた。人混み、ネオン、終電を争う人々。かつて自分が選ばなかった場所。涼が数日そこへ戻るだけで、こんなにも心が波立つのはなぜだろう。理由は分かっていたが、認めるのがわずかに怖かった。
二月第二月曜の朝、美紀はいつもの列車の一本前に乗り、中心駅で涼と合流した。そのまま上り電車で県庁所在地まで行き、東京方面の列車に乗り換える彼を見送った。
彼は黒いスケッチブックを、ファスナーのない古いバッグに入れていた。
「また落とさないでね」
「今度は、拾ってくれる人がいないかもしれないから」
美紀は笑えなかった。涼がすぐに「すみません」と言い、二人とも小さく笑った。
「着いたら連絡します」
月曜日の昼過ぎに、駅の写真が一枚届いた。火曜日には、預けていた絵を四枚確認できた、と来た。水曜日の夜、美紀が展示の配置図を送ると、翌朝になっても返事がなかった。
木曜日の午後、もう一度送った。
『明日、予定どおりですか』
夕方、既読になった。返事は来なかった。
金曜日の夜、美紀は涼の帰りの時間を知らないまま、中心駅の三番ホームの端に立っていた。県庁所在地から戻る下り列車は、ここに着く。
乗客が降り終わるたび、涼の姿がないことを確かめた。三本目の列車を待つ前に、母へ夕食はいらないと送った。
待合室の椅子へ座り、電話をかけた。呼出音が長く鳴った。
怒りより先に、倒れているのではないかと思った。少し前に聞いた、描けなくなった時の話が繰り返し浮かんだ。
もう一度かけ直しても、結果は同じだった。美紀は画面を見つめたまま、指先が冷たくなっていくのを感じた。待合室の蛍光灯が、一定の間隔でジジ、と微かな音を立てている。壁の時計は、七時四十分を指していた。
スマートフォンのメッセージ履歴を、何度も遡った。最後のやり取りは、火曜日の「絵を四枚確認できた」という一文だった。それから三日、何も届いていない。既読の表示だけが、彼が確かにどこかで生きていることを示す、唯一の手がかりだった。
黒澤へ電話すると、彼は用件を聞くまで誰からの電話か分からない様子だった。
「東京へ行くとは聞きましたが、日程までは。私からも、一度連絡してみます」
「すみません。何か、ご存じかと思って」
「いえ。心配ですね」
それ以上、二人とも言わなかった。
美紀は一人でホームから跨線橋へ上がった。いったん待合室へ戻ろうと駅舎側の階段を下りている途中で、涼から返信が来た。
『無事です。連絡できずすみません。戻るのが延びます』
膝の力が抜け、踊り場に立ち止まった。腹が立ったのは、それからだった。
『無事でよかった。いつ戻るか、明日の昼までに教えてください。連絡がないのは困ります』
文字を読み返し、「困ります」を「心配でした」に変えようとして、やめた。
土曜日、写真館へ来た健太が、美紀の顔を見て作業を止めた。
「今日、やめますか」
「大丈夫。展示板、こっちへ」
美紀は大きな板を持ち上げた。右の端が窓枠に当たり、乾いた音がした。
健太は板を押さえたまま言った。
「大丈夫じゃない時は、そう言ってもらえませんか。僕、分からないので」
美紀は手を離した。
「......ごめんなさい。今日は、少し駄目かも」
佐藤さんが床の紙を拾った。
「じゃあ、ここは私たちで決める。配置、変わっても怒らないでよ」
美紀は、図面を渡すのをためらった。自分がいないところで違うものになってしまう気がした。
「お願いします」
言って渡すと、手持ち無沙汰になった。
家に帰る途中、買い物に出た母と会った。何も聞かれないまま、重いほうの袋を持った。
「大根、半分でよかったんだけど、一本のほうが安かったのよ」
「うち、食べるじゃない」
「あなたがご飯を食べるならね」
美紀は袋を持ち替えた。
「今日は食べる」
昼前、涼から連絡があった。
『月曜の夕方に戻ります。日程を変えた時に連絡するべきでした。帰ったら話をさせてください』
美紀は、受け取ったとだけ返した。
午後、少し眠ってから台所へ行くと、母が大根を厚く切っていた。美紀は鍋を出し、米のとぎ汁が残っているか聞いた。
夕食には父もいた。テレビの音が大きく、母が同じ話を二度した。美紀は一度目を聞いていなかったことを謝った。
食べ終えても、心配がすっかり消えたわけではなかった。涼が戻らない暮らしを、何度も考えた。食器を洗う時、力を入れすぎて、茶碗の縁に爪が当たった。
日曜日の夜、美紀はなかなか寝つけなかった。天井を見上げながら、この数ヶ月のことを振り返った。拾ったスケッチブック、雨の日の傘、跨線橋からの光。どれも確かにあったはずなのに、今は遠い出来事のように感じられた。
(もし、このまま戻らなかったら)
考えたくなかった仮定が、何度も頭をよぎった。それでも、朝になれば、いつも通り六時三十分に起きなければならない。
スマートフォンの画面を、何度も確かめた。新しい通知はなかった。美紀は電源を切ろうとして、結局やめた。もし夜中に連絡が来たら、すぐに気づきたかった。
枕元の目覚まし時計の秒針の音が、いつもよりずっと大きく聞こえる。美紀は目を閉じ、涼と初めて言葉を交わした日のことを思い出そうとした。黒い布張りのスケッチブック。夕闇に染まる三番ホーム。あの日の高揚を、もう一度、自分の中に呼び戻したかった。布団の中で丸めた膝が、いつまでも冷たいままだった。何度寝返りを打っても、眠気はやってこなかった。
月曜日の夕方、涼は三番ホームに現れた。
美紀は約束の時間ちょうどに来た。彼はベンチから立ち上がり、頭を下げた。
「すみませんでした」
「うん」
美紀はベンチに座らず、手袋を外した。
「怪我とか、病気とかは、なかったのね」
「はい」
「だったら、返事はできたでしょう」
涼は俯いた。
画廊との話は予定より長引いた。昔の知人に会い、合同展の会場も見た。そこで、東京に部屋を借り直せないかと誘われた。
「戻りたいと思いました。少し。ここでは描けないものもあるって、思ってしまって」
「それで?」
「美紀さんに、言えなかった」
美紀は手袋を片方ずつ重ねた。
「戻りたくなったって、言っていいよ」
「でも」
「寂しいし、嫌だとは思う。でも、行かせないとは言ってない。私がどうなるか、あなた一人で決めないで」
涼は顔を上げた。美紀は続けようとして、声が詰まった。
「何かあったと思ったの。電話が鳴ってる間、ずっと」
「......はい」
「帰ってきたから、なかったことにはできない」
涼は頷いた。
美紀は座った。立ったままだと、これ以上話せなかった。
「残っていた仕事を、二つ断りました。一つは、違う内容で引き受けることになりました。預けた絵も、一度に全部は戻せないので、また行きます」
涼は自分の靴を見ながら話した。
「合同展にも、二点出します。この町の絵を。......住むのは、今はここにしたいです。配達の仕事もあるし、途中の絵もあるから」
「私のため、とは言わないんだ」
言った瞬間、美紀は意地の悪い質問だと思った。
涼はしばらく困った顔をしていた。
「美紀さんにも、会いたいです」
美紀は手袋を膝に置いた。
「私も、会いたかった」
二人の間を風が抜けた。涼がベンチの空いているところを見て、美紀は身体を横へずらした。冷たい木の感触が、コートの上からでも伝わってくる。それでも、隣に彼がいるというだけで、体温が戻ってくるような気がした。
「次に延びる時は、延びるって言って。理由をうまく説明できなくても」
「はい。分からないことは、分からないまま連絡します」
美紀はすぐには頷かなかった。
夕暮れの光が、二人の座るベンチにも、線路にも、平等に降り注いでいた。少し前まで張り詰めていた空気が、今は少しずつ緩んでいくのを、美紀は感じていた。
ホームへ列車が入ってきた。二人で話していた時間は、十分にもなっていなかった。
「今日は帰るね」
「はい」
涼が立つと、美紀は初めて彼の顔をまっすぐ見た。痩せたようにも、ただ疲れているだけのようにも見えた。
「ちゃんと食べて」
「美紀さんも」
美紀は頷いて、電車に乗った。
翌日の夜、七時を少し過ぎたころにメッセージが来た。
『今日は配達のあと、窓の絵を直しました。ご飯は食べました』
美紀は画面を見て、小さく笑った。
『こちらも食べました。明日は残業です』
送信してから、洗い物の残りを片づけた。窓の外では、隣家の梅の木が、まだ固い蕾をつけていた。夜の冷え込みは相変わらず厳しかったが、その蕾の先だけは、心なしか膨らみかけているようにも見えた。春は、まだ少し先だった。




