第八章 波紋を広げる一歩
写真館の奥を使う案の見積もりが届いたのは、十一月の半ばだった。
封筒を開けた美紀は、一度数字を読み違えた。小さくすれば安くなると思っていたが、表を取り壊したあとの壁と屋根を作り直す費用が大きかった。床の補強も必要だった。
全部を残す案は、さらに高かった。見積書の余白には、業者の走り書きで「要相談」とだけ記されていた。その三文字が、やけに大きく見えた。
放課後の子供たちの足音が窓の外を通り過ぎた。美紀は二つの金額を並べて書いた。引き算をしても、用意できる額にはならなかった。
電卓を何度も叩き直した。国や県の補助金が使えないか、商工会の助成制度はないか、思いつく限りの窓口を調べたが、いずれも対象外か、申請の締め切りをとうに過ぎていた。美紀は資料の余白に、使えなかった制度の名前を線で消しながら書き並べた。消した名前のほうが、残った名前より多かった。窓口の担当者に電話をかけるたび、同じ説明を一から繰り返すことになった。相手の声が事務的であるほど、美紀の胸の奥はわずかに冷えていった。
窓の外はすでに暗くなっていた。庁舎の外壁を照らす投光器の灯りだけが、白く浮かび上がっている。美紀は伸びをして、固まった肩を回した。今夜の集まりで、この数字をどう伝えるか、まだ決めかねていた。廊下の自動販売機が低く唸り、誰もいない庁舎の静けさを際立たせていた。美紀は資料を鞄にしまい、もう一度だけ見積もりの数字を確かめた。
その夜、集まった六人の前に見積もりを置くと、誰もすぐには触らなかった。丸テーブルの上で、紙の端がわずかに浮いて揺れていた。
健太が最初に言った。
「僕、毎週は来られなくなります。年末、印刷の仕事が詰まるので」
佐藤さんも頷いた。
「私は日曜日、月に一回かな。受験生がいるから」
蛍光灯の光が、丸テーブルを囲む六人の顔を白っぽく照らしていた。誰の表情にも、疲れと戸惑いが浮かんでいる。
駄菓子屋のおばあちゃんは、帳面の数字を見て眼鏡を外した。
「飴を売ったお金じゃ、足りないね」
「皆さんのお金で埋める話ではないです」
美紀は急いで言った。急いだせいで、つい強い声になった。
「でも、誰かが払うんだろう」と黒澤が言った。
美紀は返事ができなかった。
涼が机に両肘をついた。
「僕の絵を売って、その分を」
「涼さん」
美紀が呼ぶと、彼は口を閉じた。
窓の下に置いたバケツへ、水が一滴落ちた。
美紀はノートを閉じた。
「今日、決めるのはやめましょう。写真館を残すことだけで考えてしまっているので」
「じゃあ、何を残したいんですか」
健太の問いに、美紀はすぐ答えようとした。「記憶」と言いかけ、口をつぐんだ。
おばあちゃんが持ってきた写真の缶は、まだ机の端にあった。二回目の集まりで、裏の名前が三人分増えていた。
「これを、また開けられる場所」
美紀は缶に触れた。
「それと、座っていていい場所がほしいです。絵を見に来なくても」
佐藤さんが壁を見上げた。
「場所なら、ここじゃなくても?」
美紀は頷くまでに少し時間がかかった。
「......はい」
解散のあと、黒澤が一人残り、椅子を片づける美紀の手伝いをした。
「さっきは、悪いことを言いました」
「いえ......本当のことですし」
「本当のことでも、言い方があった。僕は、誰かに払ってほしかったわけじゃない。......ただ、昔の自分に、腹が立っただけです」
黒澤は椅子を積み重ねながら、視線を落とした。
「映画館を閉めるとき、僕は誰にも相談しなかった。相談したら、誰かが『続けてほしい』って言うかもしれない。それを聞くのが、怖かったんです。だから、黙って閉めて、黙って謝った」
積み重なった椅子の脚が、かすかに軋んだ音を立てた。
「今、こうして手伝ってくださるのは」
「償いのつもりかもしれません。......いや、格好つけすぎですね。単純に、若い人たちがやってることを、見ていたいだけです」
美紀はその言葉に、静かに頷いた。黒澤の悔いは、今も形を変えて続いている。それでも、彼は今、目の前のことに手を貸そうとしている。そのことが、美紀には十分すぎるほど伝わっていた。
「誰かが払うんだろう、っていう言葉、私、ちゃんと考えます」
「考えすぎなくていい。ただ、佐伯さん一人で背負わないように」
黒澤はそう言うと、最後の椅子を壁際に寄せた。
「黒澤さんは、映画館を閉めたあと、何をされてたんですか」
「しばらくは、何も。家内の看病をして、それが終わってからは、ぼんやり過ごしてました。......この駅に来たのも、実を言うと、当てがあったわけじゃないんです。ただ、懐かしい場所を歩きたくなって」
「それで、私たちの展示に」
「偶然です。でも、悪くない偶然でした」
黒澤は鞄を持ち上げ、コートの襟を正した。
「佐伯さん。人に何かを残そうとするのは、疲れる仕事です。それでも、続けてください。僕にはできなかったことだから」
その言葉を背に、黒澤は夜道へ出ていった。美紀はしばらく、閉まった扉を見つめていた。冷えた空気が、頬にじんわりと染みてくる。黒澤の言葉は、これまでの疲れを、わずかながら意味のあるものに変えてくれた気がした。
市役所では、美紀は通常業務の前に計画の資料を開かなくなった。
窓口で受けた案件を片づけ、昼休みに図面を見た。仕事として確認する必要があることは課長に時間を取り、市民の活動として行うことは勤務時間の外に分けた。混ざりそうになるたび、佐藤さんが「今どっち」と聞いた。
「今は、こっちです」
美紀は未処理の書類を持ち上げた。
ある午後、課長が駅前の新しい広場の図面を持ってきた。
「渡辺さんから。集会室の予定だった区画を、君たちの活動と共用にできないかと」
それは新築する平屋の建物だった。屋根つきのバス乗り場に面し、隣に小さな食品店を誘致する予定になっている。
「新しい建物ですか」
「嫌か」
「いえ。......見せてください」
入口からトイレまで段差がなかった。窓は大きいが、写真館の窓とは似ていない。美紀はその窓の内側に、節子の夫が座っているところを考えた。
「棚を置けますか。写真をしまう、鍵のかかる棚を」
「それは使い方の話だろう。自分たちで詰めてくれ」
課長は図面を置き、電話へ戻った。
その晩、三番ホームで涼にその図面を見せた。
「新しい建物、ですか」
「うん。......正直、複雑な気持ち」
「でも、悪い話じゃないですよね。段差もない。屋根もある」
涼の声は、いつもより落ち着いていた。あの雨の夜の口論から、彼は少しずつ、言葉を選ぶようになっていた。
「悪い話じゃない。ただ、写真館とは違うものになる」
「違うものになるのは、悲しいことですか」
美紀は少し考えて、首を振った。
「悲しくは、ないと思う。ただ、まだ慣れないだけ」
「慣れなくていいと思います。慣れないまま、少しずつ好きになればいい」
涼がそう言うと、美紀は思わず笑った。
「涼さんの言葉、時々、詩みたいだね」
「褒めてます?」
「褒めてる」
二人は顔を見合わせて笑った。窓の外を、夜の貨物列車がゆっくりと通り過ぎていった。長い車両が途切れるまで、二人はしばらく黙ってその音を聞いていた。
次の打ち合わせで、渡辺は予定表を先に出した。
「建設そのものは来年度です。それまでの場所と、できたあとの使い方は、別に考えてください」
美紀は頷いた。
写真館は、所有者の意向も踏まえて取り壊す。ただし、窓枠と背丈の印のある柱の一部を、新しい共用室へ移せないか検討する。駅の古いベンチは、鉄道会社と相談し、修繕できるものを残す。商店街を一度に解体する工程は見直し、営業中の店へ歩いて行ける道を確保する。
美紀が読み上げると、渡辺は途中で手を上げた。
「柱は構造材として使えませんよ」
「展示するだけで構いません」
「処理も必要です。保管料もかかります」
美紀は、その欄に印をつけた。
「費用を確認して、持ち主の方と相談します。全部を運べるとは、お約束していません」
渡辺は鉛筆を置いた。
「当初の案より、調整は増えます」
「はい」
「賛成の人にも、反対の人にも、同じ説明をしてください。こっちにはできると言って、向こうにはできないと言うと、工事が始まってから困ります」
美紀はノートを開いた。節子の名前の横には「屋根、近い乗り場」と書いてある。その下に「全員に同じ図面」と書き加えた。
十二月最初の土曜日、説明の集まりに来たのは十四人だった。
写真館の娘は、新しい案を見て長く息を吐いた。
「壊すのに、私が賛成してもいいんですね」
その言葉が、美紀にはいちばん堪えた。
「私たちの活動で、断りにくくしてしまいましたか」
「ほんの一瞬」
「すみませんでした」
娘は図面を畳まず、窓枠の写真をしばらく見ていた。
「これだけ、持っていけるなら嬉しいです。無理なら、写真で。うちにも置けないので」
節子は乗り場から店までの道を指で辿った。
「ここ、屋根は続かないの」
「ここまでは、今の予算では難しいそうです」
「そう。じゃあ、途中に腰掛けられるもの、ひとつ」
隣に座った男性が、ベンチを増やすと若者が夜に溜まると言った。健太が何か言い返しかけ、美紀は手を上げた。
「夜の使い方も、決めましょう。昼の椅子をやめる前に」
全員が同意したわけではなかった。最後まで、全面的に新しくすべきだという人もいた。美紀は反対の理由も記録し、用紙を回して、言ったことと違わないか読んでもらった。
「私は、正直、新しい店ができるほうが嬉しいですよ」
後方に座っていた中年の男性が言った。介護施設で働いていると、以前健太が教えてくれた人だった。
「古いものを残す気持ちは分かるけど、それで生活が便利にならないなら、意味がない気がして」
「ごもっともです」
美紀はその場で頷いた。反論するのではなく、まず受け止めることを、この数ヶ月で覚えていた。
「便利さと、記録を残すことは、両立できると思っています。今日の図面も、その両方を諦めない形を目指したものです。至らない点があれば、教えてください」
男性はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「まあ、頑張ってるのは分かるよ」
その一言だけでも、美紀には十分だった。
片づける時、黒澤が湯呑みを重ねながら言った。
「昔、こういう話をしたかったんでしょうね、僕も」
「しなかったんですか」
「残したい人だけ集めて、話した気になっていました」
美紀は、書き直しだらけの記録を鞄に入れた。
計画の一部を修正する方向で調整が進む、と課長から伝えられたのは、年末の仕事納めの数日前だった。
決定までにはまだ手続きがあり、予算次第で変わる箇所もある。美紀はそれをノートのいちばん上に書いた。
写真館を使えるのは二月末までになった。取り壊しは三月に入ってから。美紀たちは二月最後の日曜日に、もう一度だけ展示をすることにした。
「そのあとも、月に一回、写真を見せ合うのはできますね」と健太が言った。
場所は近くの公民館の小会議室を借りる。空き状況を確認すると、毎月同じ日には取れなかった。
「四月は第三日曜、五月は第二土曜」
美紀が読み上げると、佐藤さんが手帳を開いた。
「五月は学校があるわ」
「じゃあ、無理に入れません。来られる人で」
涼が二月の予定を見ていた。
「窓の絵、間に合わせます」
「描けたものを、持ってきてくれたら」
美紀が言うと、涼は一度頷き、もう一度予定表へ目を落とした。
帰り道、美紀は涼と二人で駅までの短い道を歩いた。師走の商店街は、いつもより少しだけ賑やかだった。数少ない店の軒先に、小さなイルミネーションが灯っている。
「今年も、もうすぐ終わりですね」
「そうだね。......今年ほど、いろんなことがあった年はなかった気がする」
「僕にとっても、そうです」
涼は電飾を見上げながら、静かに言った。
「来年は、どんな年になるんでしょうね」
「分からない。......でも、悪い年にはならない気がする」
美紀の言葉に、涼は小さく笑った。
「僕も、そう思います」
二人の吐く息が、白く夜空に溶けていった。商店街のイルミネーションが、二人の足元を淡く照らしている。どこかの店先から、小さく音楽が流れていた。聞き覚えのある旋律だったが、曲名は思い出せなかった。美紀は、この何でもない帰り道が、いつまでも続けばいいと思った。




