第七章 雨降る駅の告白
十月末の打ち合わせに、美紀は二十七という数字を書いて持っていった。
コンサルタントの渡辺は、その欄に目を止めた。
「これは、通行人も含めてですか」
「中へ入らなかった方は含めていません。付き添いのご家族は含んでいます」
「駅前全体の計画を変える根拠には、弱いですね」
「はい」
自分が素直に返事をしたことに、美紀は少し驚いた。
「今日は、全面保存のお願いではありません。保存できる場所と、改修が必要な場所を、一緒に確認していただきたくて」
美紀は写真館の敷居の写真を出した。節子の夫は写っていない。空の入口だけだった。
「今回、中へ入れない方がいました。展示を続けるなら、ここを直す必要があります。でも所有者の方は、建物の維持を負担に感じていらっしゃいます」
渡辺は椅子を引き寄せた。
「その建物を取得して、直すと?」
「そこまでできるか、まだ分かりません。費用を確認したいんです」
「図面はありますか」
「所有者の方に探していただいています」
渡辺は配置図を広げた。
「道路はここを通す必要があります。駅前の交差点で車が詰まるので。ただ、写真館の敷地全体が必要なわけではない」
赤い鉛筆の先が、建物の奥を指した。
「構造を見ないと何とも言えませんが、残すなら、この部分でしょう」
美紀は涼が描いた正面の窓を見た。それは道路の側にあった。
「表は、残りませんか」
「佐伯さん。建物も歩道も、同じ場所には置けません」
課長が横から口を挟んだ。
「今、結論を出さなくていい。見積もりと、持ち主の意向を。住民が使うなら、運営する人も必要だ」
渡辺は資料を鞄にしまいながら、ふと美紀に尋ねた。
「佐伯さんは、どうしてここまでするんですか。担当を外れかけたと聞きましたが」
「うまく説明できないんです。ただ、このまま黙って見ているのが、できなくて」
「珍しいタイプですね、行政の中では」
渡辺はそう言って、微かに笑った。皮肉なのか、感心なのか、美紀には判断がつかなかった。会議室の窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。ガラスを伝う雫が、外の景色を歪めて見せている。蛍光灯の唸る音だけが、しばらく部屋を満たしていた。誰も口を開かない数秒のあいだ、美紀は自分の書いたノートの角を指でなぞっていた。
「次回までに、写真館の構造調査の見積もりと、運営体制の案を。......急がせて悪いですが、予算の会議が年明けにあるので」
「分かりました」
打ち合わせは三十分で終わった。計画は変わらなかったが、美紀のノートには、次に電話をする相手が三人増えていた。会議室を出ると、廊下の窓から見える駐車場に、雨脚がまだ強く打ちつけていた。美紀は傘を開く前に、しばらくその音を聞いていた。
その夜、涼は写真館の絵を美紀の手から取るように受け取った。
「この窓、なくすんですか」
「決まったわけじゃない。今のまま残す費用と、奥だけ残す費用を比べて」
「これが、この写真館なのに」
雨の粒がホームの屋根の端から落ちていた。美紀は濡れないようにバッグを膝へ上げた。
「うん。だから、私も聞いた」
「もう少し待ってもらえないんですか」
「待ってる人もいるの。バスの屋根とか、歩道とか」
涼が顔を上げた。
「分かっています」
「この前、節子さんのご主人、中に入れなかったでしょう」
「分かってますよ」
声が屋根に跳ね返った。
美紀は口を閉じた。涼は絵をバッグに戻し、紙の角が折れたことに気づいて取り出した。
「......すみません」
指で折れ目を伸ばしていた。その右手が震えていた。
美紀は、雨の夜に涼が東京での仕事について話してくれたことを思い出した。「うまくいかなくなって」。聞いたのは、それだけだった。それなのに、自分はもう分かったつもりになっていた。
「何か、あった?」
涼は長く黙ってから、スマートフォンを出した。
展示会の写真に、知らないアカウントからコメントがついていた。
『藤代涼介さんですか。新作を見られるとは思いませんでした』
「本名です」
美紀は画面から目を離した。
「隠していたの?」
「ここでは、言う必要がないと思ってた。そう思いたかった」
広告の仕事をしながら、自分の作品を画廊にも預けていた。若手向けの賞を一度取り、雑誌に小さく紹介された。そのあとから、同じ色を使った絵ばかり注文されるようになった。
「最初は、嬉しかったんです。あれがいいと言われたら、次も描けますって。少し違うものを出すと、前のほうがよかったって。それで、戻した」
涼は画面を暗くした。
「誰かに命令されていた、って言えば簡単なんですけど。僕も断らなかった。お金も必要だったし、期待されなくなるのが怖かった」
「それで、倒れたの」
「はい。......ある朝、起き上がれなくなって。病院で、しばらく休むようにって言われました」
涼は自分の手のひらを見つめた。
「休んでいる間、何も描けなかった。描かなきゃと思うほど、描けなくなって。それで、逃げるように、電車に乗ったんです」
「それが、この町」
「はい。......偶然のふりをしてますけど、たぶん、どこでもよかったわけじゃない。誰も自分を知らない場所に、行きたかったんだと思います」
美紀はバッグからハンカチを出し、濡れたベンチを拭いた。涼の手に触れようとして、やめた。
「それで、連絡が来たの」
「預けた絵と、受けたままの仕事のことで。倒れたあと、途中までは返事をしたんです。でも、だんだん開けなくなって」
線路の向こうに、列車の灯りが見えた。涼はそれを避けるように俯いた。
「ここまで変わったら、また描けなくなる気がして。窓まで残してくれって言うのは、おかしいですよね」
「残したいとは、言っていいと思う」
美紀は言葉を選ぶように黙った。
「でも、私が残せるって約束はできない」
列車が止まった。二人は口をつぐみ、降りる人たちが通り過ぎるのを待った。
「私、あなたに描いてほしくて始めたところもあるの。でも、それだけで決めるのは、違うと思った」
涼は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。やがて、絞り出すような声で言った。
「怖いんです。また、誰かの都合で、描けなくなるのが」
「今回は、誰かの都合じゃなくて、みんなの都合だよ。......涼さんも、その中の一人」
「僕は、蚊帳の外にいたいわけじゃないんです。ただ、大事なものが、また簡単に、誰かの計算で消されるんじゃないかって」
「消させないために、私は数字を並べてるの。悔しいけど、それでしか、誰かを動かせないから」
美紀の声は、思ったよりも硬くなった。涼はその強さに、初めて気づいたような顔をした。ホームの屋根を打つ雨音が、二人の間の沈黙をいっそう際立たせていた。
発車の笛が鳴った。
「......はい」
美紀は立ち上がった。涼も立とうとしたが、美紀は手で制した。
「今日は乗るね」
扉の前で振り向くと、涼はまだ折れ目を伸ばしていた。発車のベルが鳴り終わるまで、その姿は動かなかった。
翌日の昼、短いメッセージが来た。
『昨日は、声を荒らげてすみません。窓のこと、僕も別の方法を考えます』
美紀は返事を打ってから、消した。「気にしていません」は嘘だった。
『驚きました。でも、話してくれてよかった。明日は六時までなら、話せます』
送信してから、窓口の札を開けた。
翌日の六時、涼は約束通り三番ホームで待っていた。手には、コンビニの袋を提げている。
「これ、温かいうちに」
差し出されたのは、まだ湯気の立つ肉まんだった。
「お詫びのつもりです。......安上がりですけど」
美紀は思わず笑ってしまった。
「十分。ありがとう」
二人でベンチに座り、肉まんを頬張る。冷たい夜気の中で、その温かさが、じんわりと指先から伝わってきた。湯気が白く立ちのぼり、二人の間でゆっくりとほどけて消えていった。
「昨日は、ごめんなさい」
「私も、少し強く言いすぎた」
「いえ。......美紀さんの言葉、ちゃんと届きました。ただ、すぐには飲み込めなかっただけで」
涼は肉まんの包み紙を丁寧に畳んだ。
「僕、これからも、時々怖くなると思います。でも、それを美紀さんにぶつけるのは、違いますよね」
「ぶつけてもいいよ。ちゃんと言ってくれたほうが、私は分かるから」
美紀の言葉に、涼は少し驚いたように顔を上げた。それから、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、今度は、ちゃんと言います」
二人の間に流れる沈黙は、もう気まずいものではなかった。
十一月の初め、黒澤が展示板を届けに来た。
健太が運転する軽バンから下ろすと、一枚の裏に古い映画の題名が残っていた。剥がしたポスターの糊に、埃が細かくついている。
「これ、使わせてもらってよいんですか」と美紀が聞いた。
「捨てるつもりで、何年も置いてあったので」
黒澤は軍手を外した。映画館を閉めた理由を尋ねると、彼は「いろいろです」と答えた。
「再開発があったんですよね」
「それもあります。雨漏りもしたし、暖房もよく止まった。最後の冬は、お客さんに上着を着たまま観てもらってた」
黒澤は展示板の釘を一本抜いた。
「僕は、味があるだろうなんて言ってたけどね。家内は毎晩、毛布を洗っていた」
美紀は、写真館の所有者の娘が言ったことを思い出した。
「残せばよかったとは、思いませんか」
「思いますよ。なくてよかったと思う日もある。それは、あまり人には言えないけど」
黒澤は釘を空き缶に入れた。手を止め、しばらく倉庫の壁の一点を見つめていた。
「家内はね、閉めるとき、一番喜んでたんです。もう毛布を洗わなくて済む、寒い思いをしなくて済むって。僕だけが、未練を引きずってた」
「奥様は、今」
「六年前に、亡くなりました。......閉めてから、五年目でしたかね。あと少し長く続けていたら、最後まで一緒に映写室に立てたかもしれない。そう思う日もあれば、無理に続けなくてよかったと思う日もある。両方、本当なんです」
美紀はその言葉を、すぐには受け止めきれなかった。守ることと、手放すこと。そのどちらにも、後悔と安堵が同時にあるということを、黒澤は静かに教えてくれていた。
「すみません、こんな話」
「いえ......聞かせてくださって、ありがとうございます」
黒澤は少し照れたように咳払いをし、次の展示板を運び始めた。板を持ち上げる背中は、年齢を感じさせないほどしっかりしていた。
「佐伯さん」
「はい」
「この活動、続けなさい。......迷惑でなければ、僕もまた来ます」
「迷惑なんかじゃ」
「僕みたいな年寄りが混ざると、若い人はやりにくいかもしれないがね」
黒澤はそう言って、初めて口元を緩めた。冗談めかした言い方の奥に、確かな本音が透けて見えた。
美紀は、その言葉を大切にノートへ書き留めた。「黒澤さん、また来る」。それだけの一文が、なぜか胸に重く残った。
奥で作業をしていた涼が近づいてきた。展示板を押さえる手を止めず、東京に残してきた仕事の相談先を知っているかと聞いた。
「私には分かりません。商店街の相談会で世話になった人なら紹介できます。まず、何を頼んだらいいか聞いてみたら」
涼は頷いた。
黒澤は携帯電話を取り出したが、その場では電話をかけなかった。
「先に、連絡先を渡していいか確認します。あなたから連絡してください」
「はい」
美紀は二人からふと離れ、展示板の長さを測った。
帰りに、涼は写真館の窓の前に立った。
「外して残すなら、どこに置けるでしょう」
「置き場所も、まだ決まってない」
「ですよね」
涼は窓枠の鉛筆の線を見た。
「持ち主の方に、これを写した絵を渡したいんです。残せても、残せなくても」
その言葉に、美紀は黒澤の話を思い出した。守ることと手放すことの間で、涼もまた、自分なりの落としどころを探そうとしているのかもしれない。
美紀は頷いた。ガラスに映った二人の間を、バスがゆっくり通り過ぎていった。
「涼さん」
「はい」
「今日、いろいろ話してくれて、ありがとう」
「美紀さんこそ。......聞いてくれて」
二人はしばらく、窓に映る互いの姿を見つめていた。言葉にしなくても、通じるものがあるような気がした。
バスの通り過ぎた道路に、街灯の光が一列に並んで揺れている。乾いたアスファルトに落ちた光の輪が、風もないのにかすかに揺れて見えた。美紀は、この静かな時間が、もう少し続けばいいと思った。




