第六章 錆びたシャッターの向こう側
火曜日、美紀は午前の時間休を取り、十一時二十分に駄菓子屋の前に立った。
節子が来たのは十一時四十分だった。美紀を見ると、「待たせたね」と言い、いきなり歩き始めた。籠には買い物帰りらしい包みが二つ、輪ゴムで留められている。
「歩いて話すよ。座ると、帰るのが遅くなる」
美紀はノートをしまった。
駅前の道は、地図で見るより起伏があった。自転車を押す節子は、写真館の角で車道へ下りた。歩道に電柱があるためだった。その先の横断歩道には、青になっても曲がってくる車が途切れない。
「前は夫が運転してたんだけどね」
節子は籠を押さえて車をやり過ごした。
「私の脚も、いつまでこれに乗れるか。ここに店ができれば、遠回りしないで帰れる。バスの乗り場も屋根がつくんでしょう」
節子はハンドルを握る手を、少しだけ持ち直した。
「その予定です」
「なくさないでよ、そこは」
美紀が考えていた案では、古い荷捌き場を保存するために、新しい乗降場所を駅から離していた。
「......はい。考え直します」
節子は美紀の顔を見た。
「駅は好きだよ。娘を送り出したのも、あそこだから。好きだから、来られなくなるのは嫌なの」
「娘さんは、今どちらに」
「県庁所在地の病院で、看護師をしてる。月に一度くらいしか帰ってこない。忙しいんでしょうね」
節子はそう言うと、少しだけ寂しそうに笑った。
「あの子が高校を出る日、この駅のホームで、私、随分泣いたのよ。今思えば、大袈裟だったけど」
「大袈裟じゃないと思います」
美紀の言葉に、節子はちらりとこちらを見て、それ以上は何も言わなかった。
しばらく無言で歩いたあと、節子がぽつりと言った。
「佐伯さんは、まだ若いのに、こんな面倒なことに首を突っ込んで。誰かに頼まれたわけでもないんでしょう」
「頼まれたわけじゃ、ないです」
「じゃあ、なんで」
美紀はほんの一瞬考えてから答えた。
「自分でも、うまく説明できないんです。ただ、このまま何も知らないまま、なくなっていくのが、嫌だったんだと思います」
節子はふっと笑った。
「若いのに、年寄りみたいなこと言うね」
「そうですか」
「うん。でも、悪い意味じゃないよ」
節子はそう言うと、自転車のペダルに足をかけた。その背中は、思ったよりもまっすぐだった。
川の手前で二人は別れた。帰り道、美紀は電柱の横に立ち、傘を差した人がすれ違う幅を目で測った。自分一人なら、何も考えずに通っていたところだった。川面を渡る風が、対岸のススキを一斉に揺らしていく。秋はもう、隅々まで町に染み込んでいた。
十月に入ってから、美紀のノートには、人の名前と時刻が増えた。
午前九時、通院のバス。午後四時、学童保育の迎え。火曜と金曜、移動販売。絵を展示したいという希望と、段差で転んだという話は、同じページに書いた。
その週末、印刷店の青年が、店の奥から折り畳み机を一つ持ってきた。
「健太です。この前、写真を刷った」
「覚えています。ありがとうございます」
「店長には日曜日だけって言ってあります。あと、チラシは百枚までなら安くできます。それ以上は普通の値段になります」
美紀は見積もりをノートに挟んだ。
「健太さんは、この店、継ぐ予定なんですか」
「まだ分かりません。親は継げとは言わないけど、他にやることもないし。県庁所在地の専門学校、一応出たんですけど」
「デザインの勉強を」
「はい。印刷屋の跡取りが、印刷の勉強しに行くのも変な話ですけど」
健太は照れたように笑い、机の脚を折りたたんだ。
涼が出した案は、ホームに絵を並べる一日だけの展示会だった。駅の管理を手伝っている山崎に相談すると、彼は首を振った。
「おれの一存で人を集められるわけないだろう。電車に乗る人が先だ」
「邪魔にならない場所なら」
「その場所を決めるのがおれじゃないって話だ」
美紀は涼の袖を軽く引いた。
「駅を管理している窓口を、教えていただけますか」
山崎は事務室から電話番号の書かれた紙を持ってきた。美紀はその場で電話をかけず、曜日と受付時間を確かめた。
数日後の返事は、ホーム上の展示は難しい、というものだった。美紀は電話を切り、候補から線を引いて消した。
その日の夕方、三番ホームで涼にそのことを話すと、彼はしばらく黙ってから、意外なほど軽い声で言った。
「じゃあ、ホームじゃなくていいですね」
「悔しくないの」
「悔しいですよ。でも、場所にこだわりすぎると、動けなくなる気がして」
美紀はベンチに座り込み、小さくため息をついた。
「私、こういうとき、すぐ諦めが悪くなるみたいで」
「諦めが悪いの、悪いことじゃないと思います。ただ、諦めが悪いのと、意固地になるのは違う気がします」
涼はそう言うと、隣に腰を下ろした。ベンチの剥げたペンキが、夕日を受けて赤く光っている。
「美紀さんは、意固地になってるわけじゃないですよ。ちゃんと、次を探してる」
その言葉に、美紀は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。悔しさは消えなかったが、一人で抱え込んでいたものを、半分だけ誰かに預けられたような気がした。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないです」
涼は照れくさそうに視線を逸らし、スケッチブックのページをめくった。夕暮れの光に染まる線路の絵が、そこにあった。
代わりに、写真館の所有者へ手紙を出した。市役所の封筒は使わなかった。
隣市で暮らしている所有者の娘は、日曜の朝、鍵を持って来た。
「一日だけなら。でも、奥へは入らないでください。床、怖いので」
シャッターを持ち上げると、途中で右側が止まった。健太が力を入れようとして、娘に制された。
「無理に上げると、閉まらなくなるんです」
半分ほど開いた入口から、四人はかがんで中へ入った。
ガラスケースの内側に、小さな虫の死骸が溜まっていた。美紀は借りてきた掃除機のコードを伸ばした。コンセントは使えず、結局、箒で掃いた。
涼は窓枠を布で拭いていたが、あるところで手を止めた。
「これ、残してもいいですか」
木枠に鉛筆で何本も線が引かれていた。横に、小さな日付がある。
娘は近寄り、指を当てた。
「私の背。ここで毎年撮ってもらって」
窓の外を、下校中の小学生の声が通り過ぎていく。店の中には、埃と古い木材の匂いが染みついていた。美紀は掃く手を休めた。
「建物を残すこと、考えていらっしゃいますか」
「売りたいんです」
娘はすぐに答えた。
「思い出がないわけじゃないけど、雨漏りのたびに来るのは、もう。父の物も、まだ片づかなくて」
美紀は、箒の柄を両手で握り直した。
「すみません。言いにくいことを聞いて」
「皆さんに使ってもらうのは嬉しいですよ。でも、嬉しいだけでは持てないから」
涼が布を畳んだ。
「この線のところ、写真に撮ってもいいですか」
「ええ。それなら、私にもください」
展示会は十月の第三日曜日、午前十時から午後三時までと決まった。
会場は写真館の道路側の一室だけ。ホームには案内を出さず、許可を得た駅舎の掲示板に小さな紙を一枚貼った。「三番ホームの遺失物」。涼が題を読み、ふっと笑った。
「ちゃんと返してもらったんですけどね」
「写真も持ってきてもらうから。持ち主が分からないものも、あるでしょう」
美紀は説明してから、気取りすぎた題だっただろうかと思った。涼はその下に、開催時間を書き入れた。
当日は細い雨が降った。前日まで晴れが続いていただけに、美紀は朝から何度も窓の外を確かめた。
「雨でも、来る人は来るから」
朝食の席で、和子がそう言って送り出してくれた。
最初の一時間、来たのは駄菓子屋のおばあちゃんと、傘を二本持った美紀の父だけだった。父は入口のバケツを見て、家から雑巾を取ってきた。
「誰も来なかったら、どうするつもりだったんだ」
「その時は、また今度、考えます」
父はそれ以上何も言わず、黙々と床を拭き始めた。その背中を見て、美紀はわずかに泣きそうになった。
健太は余ったチラシの束を机の下へ入れた。涼は入口から正面に見える位置に、ライオンの絵を掛け直した。
十一時過ぎ、節子が夫を伴って現れた。夫は杖をつき、入口の敷居で立ち止まった。
美紀は椅子を運んだ。座れる場所はあるが、そこまで入るのが難しい。健太と二人で踏み台を探している間に、節子が言った。
「ここでいいよ。絵、見えるから」
美紀はライオンの絵を外し、入口まで持っていった。
夫は絵をしばらく見てから、杖の先で空中を指した。
「耳、欠けてるだろう」
「はい」と涼が言った。
「あれ、うちの兄がやったんだ。石、ぶつけて」
節子が夫を見た。
「初めて聞いたよ、そんな話」
「叱られるから言うなって。まだ言っちゃ駄目だったかな」
夫が笑った。涼は絵を支える美紀の指の横に、そっと手を添えた。
節子たちが帰ったあと、美紀はノートに「入口」と書き、大きく丸で囲んだ。
閉会までの来場者は二十七人だった。手伝いの家族を除けば、二十一人。会場費は無料にしてもらったが、複写と額と保険の費用を合わせると、募金箱の中身では足りなかった。
健太が電卓の表示を見せた。
「次は額を借りましょう。買うの、もったいなかった」
美紀は、自分の財布を開きかけてやめた。
「足りない分、まず皆で確認してからにしよう。毎回、誰かが黙って出すのは続かないから」
涼が頷き、使った金額を紙に書いた。
片づけの途中、おばあちゃんがレジ袋を持って戻ってきた。中には、薄い缶の箱が入っていた。
「うちにあった写真。顔、分からない人が多くてね」
いちばん上は、三番ホームで撮られた集合写真だった。裏には鉛筆の名前が途中まで並んでいる。
「今度、人が来たら聞いてくれるかい」
「はい」
美紀は箱を受け取った。
「今日じゃなくて、今度でいいからね」
美紀は、次があると自然に言われたことに気づいた。
涼が最後の額を包むあいだ、写真を一枚だけ取り出した。列の端の若い女の人の顔に見覚えがあった。自分の母かもしれない。今夜、帰ったら聞いてみようと思った。
シャッターを下ろす時、傘を差した男が通りかかった。閉会を告げると、男は足を止め、看板代わりに立てかけた「三番ホームの遺失物」の紙を、しばらく黙って読んでいた。
「昔、映画館をやっていたんです」
男はそう言って、傘を畳んだ。白髪交じりの短髪に、使い込まれた革靴。年齢は六十代半ばに見えた。着ているコートは古いが、手入れが行き届いていて、几帳面な人柄がうかがえた。
男は入口に立ったまま、しばらく会場の中を見回していた。写真の並んだ壁を、一枚ずつ確かめるように。その視線の動かし方には、単なる冷やかしとは違う、何かを探すような気配があった。
「駅前の、あの『みゆき座』ですか」
美紀が尋ねると、男は少し驚いた顔をした。
「よく知ってるね。もう、看板も下ろして久しいのに」
「祖母から聞いたことがあります。夏休みに、よく連れて行ってもらったって」
「そうかい。......片づける時に残った展示板が、何枚か倉庫にあるんですよ。寸法が合えば、貸せます」
「それは、助かります。今日みたいな展示、これからも続けたくて」
「続けるんですか、これ」
男はふと意外そうな声を出した。
「一度きりのつもりじゃなかったんですか」
「最初はそうでした。でも、皆さんが写真を持ってきてくれて。......終わらせるのが、もったいなくなりました」
男はしばらく、雨に濡れた道路を見つめていた。
「僕は、途中でやめてしまったからな。......いや、失礼。年寄りの繰り言だ」
男の視線が、一瞬だけ遠くを見た。それが何を見ているのか、美紀にはまだ分からなかった。雨脚が少しだけ強くなり、軒先を叩く音が大きくなった。
男は名刺を一枚差し出した。黒澤修一。住所は県内の別の市で、肩書きは書かれていなかった。
「また、この紙を貼るときは教えてください。......見に来るくらいは、できるので」
黒澤はそう言うと、わずかに晴れやかな顔を見せた。長年閉じたままだった扉の奥に、細い光が差し込んだような表情だった。
名刺の紙は、少し湿って角が丸くなっていた。長く鞄の中で持ち歩かれていたもののように見えた。
美紀は礼を言い、健太に渡した。
「運ぶ車が要るね」
「店の軽バン、日曜なら借りられるか聞いてみます」
男は雨の中へ戻っていった。健太は名刺の裏に、展示板の寸法を書いた。




