第五章 三十五歳の履歴書
木曜日の夜、美紀は机の上に二枚の紙を並べていた。
一枚は、駅前再開発計画の配置図。もう一枚は、涼が描いた、写真館の前に立つ自分だった。図面の上では、写真館は小さな番号のついた長方形になっている。その長方形を斜めに横切って、新しい道路の線が引かれていた。
美紀はパソコンに向かい、「この町の記憶を守るために」と打った。
続きが出てこなかった。
今日、会議で発言した時には、何を言わなければならないか分かっていた。今日、涼と歩いている間も、伝えたいことはいくらでもあった。だが、画面の上に置くと、どの言葉も同じところを回ってしまう。
引き出しから定規を探した拍子に、白い封筒が落ちた。三年前、都会への転職を考えた時の履歴書だった。年齢の欄には三十二とある。自己PRの枠だけが空いていた。あの頃も、書きたいことが多すぎて、結局何も書けなかった。今、目の前にある空白と、あの頃の空白は、よく似ている気がした。
美紀は定規を取り、封筒を戻した。窓の外で、隣家の物干し竿が風に軋む音がした。時計を見ると、もう日付が変わりそうな時間だった。パソコンの画面の光だけが、暗い部屋の中で白く浮かんでいる。
配置図の道路幅を測った。何をどこまで動かせば写真館を残せるのか、縮尺を読み直して計算する。歩道を狭くすれば建物にはかからない。だが、その歩道を車椅子が通れるかどうか、自分には分からなかった。
画面の一行を消し、代わりに「確認すること」と入力した。手元のノートにも、同じ見出しを書いた。
翌朝、課長は美紀の資料を、最初のページから順にめくった。
「建物を残すなら、誰が持つんだ」
「所有者の方に、まだお話を伺っていません」
「修理代は」
「見積もりを取ります」
「取る前に出したのか」
机の向こうでプリンターが止まった。美紀は自分の声が執務室に響きすぎないよう、身をかがめた。
「まず、調べる時間をいただきたいんです」
課長は資料を閉じた。
「先方との調整もある。今は君の案を会議には出せない」
「では、どうすれば出せますか」
言ってから、責める口調になったことに気づいた。課長は美紀を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「十月末に、駅前の歩行経路と広場の使い方を確認する場がある。全部をひっくり返す話じゃない。変更できる部分と、できない部分があるんだ。そこを分けてくれ」
背後で窓口の呼出音が鳴った。
「今日は向こうを頼む。このところ、佐藤さんが君の分まで受けている」
美紀は資料を受け取った。礼を言うより先に、担当を外された、という言葉が頭に浮かんだ。
窓口に戻ると、朝一番の来庁者がすでに列を作っていた。美紀は資料をデスクの端に伏せ、番号札の表示を切り替えた。仕事は仕事として、きちんと積み上げなければならない。頭の片隅で、その当たり前のことを、自分に何度も言い聞かせた。
午前中、番号札を持った男性が同じ窓口へ三度来た。
一度目は申請書の種類が違った。二度目は必要な添付書類が足りなかった。三度目、男性は折り目だらけの紙を置いて言った。
「これ、妻が書いておいてくれたんだけどね」
故人の名前の上に、男性の太い字で二重線が引かれていた。
美紀は椅子を引き寄せた。まだ埋めなくてよい欄を鉛筆で囲み、次に行く窓口の名前と、持っていくものを別紙に書いた。相手が眼鏡を出すのを待ち、文字を大きく書き直す。
「今日、全部終わらなくても大丈夫です。ここは次にいらした時で」
「また来ていいの」
「はい。この紙をお持ちください」
男性は別紙を二つに折り、申請書とは別の胸ポケットにしまった。振り返りざま、彼は小さく呟いた。
「四十年、女房が全部やってくれてたんだよ。役所のことなんて、何も分からなくて」
男性の声は、怒っているようにも、途方に暮れているようにも聞こえた。窓口の蛍光灯が、彼の白髪交じりの頭を静かに照らしていた。
美紀は何も言わず、ただ頭を下げた。男性の背中が、ゆっくりと出口へ向かって遠ざかっていった。
その後ろ姿を見送りながら、美紀は自分の中に、これまでとは違う焦りが芽生えるのを感じた。この人にとって、役所の窓口はただの手続きの場所ではない。長く連れ添った誰かの不在を、一つひとつ確認させられる場所でもある。効率だけでは測れないものが、この仕事にはある。それなのに、自分はいつからか、目の前の一件を早く終わらせることばかり考えるようになっていた。
昼休み、佐藤さんが美紀の机に未処理の書類を置いた。
「これだけ、午後にお願いできる?」
「すみません。私、この何日か」
「うん。ちょっと困ってた」
笑って済ませてくれると思っていた美紀は、顔を上げた。
「言ってくれて、ありがとうございます」
「お礼より、三時までに」
佐藤さんは腕時計を指した。美紀は付箋に締切を書き、いちばん上の書類を開いた。
その晩、三番ホームで、涼が美紀の資料を膝に広げた。
「絵、もっと大きいものを描きましょうか。あの会議室でも見えるように」
「ううん。今は、大きくしても同じかもしれない」
美紀は課長に聞かれたことを話した。涼はページの隅を押さえたまま、黙った。
「残したい気持ちなら、あるのにね」
「ありますよ。僕も」
「うん。でも、残したあとのことを、私、何も考えてなかった」
入線を知らせる放送が流れた。美紀は時計を見た。昨日は見送った電車だった。
「今日は帰るね。母に、ご飯は七時でって言ってあるから」
涼が意外そうな顔をした。それを見ると、美紀は言い足したくなった。仕事で疲れたのでも、計画を諦めたのでもない、と。
けれど、言わなかった。
「また明日」
涼は資料をそろえて返した。
「はい。おやすみなさい」
土曜日、美紀は約束の時間より三十分早く駅に着いた。涼はすでにベンチに座り、スケッチブックを膝に置いたまま、駅前の様子をぼんやり眺めていた。
「早いですね」
「美紀さんこそ」
どちらからともなく笑い、二人は自然と隣に座った。駄菓子屋へ向かう前の、ただ何もしない時間。プロジェクトの話も、図面の話もしない、久しぶりの静けさだった。
「これ、良かったらどうぞ」
涼が差し出したのは、コンビニで買ったらしい小さな最中だった。
「お店に行く前に小腹が空いて。......一人で二個食べるのも気まずくて」
「じゃあ、いただきます」
二人並んでベンチに座り、最中を頬張る。餡子の甘さが口に広がる。
「涼さんは、甘いもの好きなんですか」
「好きです。......東京にいた頃は、コンビニのスイーツばかり食べてました。自炊する時間もなくて」
「今は、自炊してるんですか」
「してます。下手ですけど」
涼は照れくさそうに目を伏せた。こんな他愛もない会話が、美紀にはたまらなく心地よかった。仕事の話でも、町の未来の話でもない、ただの午前中。
「今度、何か作ってもらえますか」
「え......美紀さんに、ですか」
「はい。下手でもいいので」
涼は驚いたように目を丸くしてから、ゆっくりと頷いた。
「はい。......考えておきます」
その約束は、二人の間にある空気を、ほんの少しだけ変えたように思えた。
「美紀さんは、料理するんですか」
「毎日はしないけど、休みの日は。母と一緒に台所に立つことが多いかな」
「いいですね。......僕、家族と食卓を囲む記憶が、あんまりないんです」
涼はさらりとそう言って、最中の包み紙を丸めた。美紀は、その言葉の重さに気づいたが、深く聞くことはしなかった。彼のペースで話してくれる日を、待とうと思った。
「そういう食卓、いつか涼さんにも作ってあげられたらいいのにね」
思わず口をついて出た言葉に、美紀自身が驚いた。涼は少し目を見開いてから、静かに笑った。
「......楽しみにしてます」
その一言だけで、美紀の胸に温かいものが広がった。まだ何も決まっていないのに、少し先の未来が、確かに存在するもののように感じられた。
約束の時間になり、駄菓子屋へ出かけた。涼は約束の時間より先に来ていて、店のおばあちゃんから茶をもらっていた。
美紀が持ってきた昔の写真を見せると、おばあちゃんは一枚を手元に引き寄せた。運動会帰りらしい子供たちが店先に並んでいる。
「それ、私です」
美紀が赤い帽子の少女を指すと、おばあちゃんは「そうかい」と言った。しかし、目は写真の端に向いていた。
店の奥から、白いシャツの腕が半分だけ出ている。
「おじいさん、こうやって袖をまくったんだよ。上まで上げると落ちるから、二つ折りでね」
おばあちゃんは自分の袖を折って見せた。
「顔が写っている写真、ほかに探してみます」
「これがいい」
写真の白い腕を、短い爪がそっとなぞった。
「これ、もう一枚もらえるかい」
美紀は頷いた。店を出てから、駅前の印刷店で複写を頼んだ。受付にいた青年は、色を直すかと聞いたが、美紀はそのままにしてもらった。
戻ると、おばあちゃんはレジの横を拭いて待っていた。額に入れた写真が置かれると、涼が自分のスケッチを脇へずらした。
昼を過ぎても、店には客が二人しか来なかった。美紀は空になった茶碗を盆に載せ、流しまで運んだ。ガラスの菓子ケースには、色とりどりの飴と、昔ながらの麩菓子が並んでいる。子供の頃、百円玉を握りしめて選んだ棚の位置は、今も変わっていなかった。
「昔は、学校帰りの子供でいっぱいだったんだよ」
おばあちゃんは菓子ケースを拭きながら、ぽつりと言った。
「今は、近くに子供自体が少なくてね。たまに来ても、みんな電子マネーとやらを持ってて、うちみたいな店じゃ使えないんだって」
「時代、ですね」
「時代だねえ。でも、時代のせいにするのも、そろそろ疲れちゃった」
おばあちゃんは小さく笑い、レジの横の椅子に腰を下ろした。その笑い方に、美紀は諦めとは違う何かを感じた。
「また写真を探してきます」
「うん。顔があってもなくても、持っておいで」
おばあちゃんは額の角度を直した。
店の前で、自転車を押した女性が二人に声をかけた。
「佐伯さん。駅前、壊さないようにするんだって?」
母と同じくらいの年齢だった。美紀は顔を知っていたが、名前は思い出せなかった。
「全部を残せるかは、まだ。ただ、なくなる前に話を聞いて」
「困るのよ、それ」
女性は自転車の籠から薬局の袋を抜いた。袋の下には牛乳のパックと長葱が押し込まれている。
「私は新しい店、待ってるんだから」
涼が一歩引いた。
「今のお店も、いいところがたくさんありますよ」
「あるでしょうね。あなたは絵を描きに来てるんだから」
美紀は、昨日電車を見送らずに帰った自分を思い出した。ここで日が暮れるまで立っていることは、自分にも毎日はできない。
「すみません。お名前、伺ってもいいですか」
「松井。松井節子。川向こうの」
その名字に、美紀は資料室で見た古い写真を思い出した。「松井薬局 開店記念」。白衣の若い男性と、赤ん坊を抱いた女性。
「もしかして、駅前にあった薬局と、関係が」
「私の亡くなった舅がやってた店だよ。......よく知ってるね」
節子は少し驚いたように目を見開いた。
「お話、もう少し聞かせてもらえませんか」
節子は薬の袋を戻した。
「今は駄目。夫の昼の薬があるから」
「ご主人、お加減が」
「膝が悪くてね。長くは歩けないの。だから私が、毎日薬を届けに行くの」
節子はそう言って、自転車のハンドルを握り直した。
「この自転車が壊れたら、私も何もできなくなる。バスも一日に三本しかないから」
美紀はバッグから紙を出し、連絡先を書き始めた。節子はそれを待たず、自転車の向きを変えた。
「来週の火曜日なら、診療所の帰りにここを通る。十一時半ごろ。待たせないでね」
美紀は、半分だけ書いた紙の裏に時刻を記した。
夕暮れの風が、駄菓子屋の軒先の暖簾を揺らしていた。暖簾の端がめくれ、藍色の布地が夕日に透けて見える。涼は節子が去った道を見ていた。
「僕、余計なことを言いました」
「私も、今まで聞かなかった」
薬局の袋が自転車の籠の中で白く揺れ、角を曲がった。夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしていた。美紀はノートに「松井節子」と書き、その下に「川向こう」とだけ書き足した。まだ何も分からないことばかりだったが、知ろうとする一歩は、確かに踏み出せた気がした。自転車の音が遠ざかり、やがて静かな夕闇だけが商店街に残った。




