第四章 レンズを通さない景色
木曜日の深夜一時。雨の夜に交わした会話を思い返しているうちに、美紀の目は冴えてしまった。
眠気は訪れず、彼女は数年ぶりにクローゼットの奥にある天袋へ手を伸ばした。踏み台に乗り、埃を被った箱を一つずつ下ろしていく。卒業アルバム、賞状の束、使わなくなった通帳。その奥に、探していたものがあった。
「......あった」
指先に触れたのは、重みのある布張りの古いアルバムだった。表紙には薄く埃が積もっている。それを指で拭い、美紀はベッドの上に胡坐をかいて、ゆっくりとページをめくった。
パラリ、という乾いた音と共に、数十年前の空気が部屋に溢れ出した。
小学校の入学式。まだピカピカだったランドセルを背負い、今は亡き祖父と並んで歩く三番ホーム。写真の隅には、涼が「美しい」と言ったあのベンチが、今よりずっと鮮やかな茶色のペンキを纏って写っていた。
ページをめくる手が止まる。五歳の美紀が、駅前の商店街にある駄菓子屋の店先で、口の周りを真っ赤にしてかき氷を食べている写真だ。背景に写る店主は、あの駄菓子屋のおばあちゃんの、まだ若かりし頃の姿だった。
公園にある首の付け根が欠けたライオンの遊具。今はシャッターの下りた、日曜ごとに通ったパン屋。夏祭りの夜、浴衣の裾を端折って駆け抜けた神社への石段。次のページには、七五三の晴れ着姿で写真館の前に立つ、幼い日の自分もあった。硬い表情で、母に手を引かれている。
それらは決して、都会にあるような洗練された美しさではなかった。けれど、そこには間違いなく、美紀という一人の人間を形作った「根っこ」があった。
「......私、忘れてたんだな」
三十五歳。仕事に追われ、年齢に焦り、誰かと自分を比較することにばかり必死になって。自分が立っているこの地面が、かつてどれほど温かく、自分を守ってくれていたか。涼に指摘されるまで、彼女はその価値に気づこうともしなかった。
美紀はアルバムを閉じた。朝になったら涼に見せるための写真を数枚抜き出し、多くの場所が、再開発の計画図の中では「白地」になっていたことを、スマートフォンで確かめる。価値がないとされ、更地にされ、新しい何かに書き換えられようとしている場所。
(消させない。......せめて、記録の中だけでも)
彼女の心に、静かな決意が灯った。
その朝、美紀はいつもより一時間早く目を覚ました。午前中の休みは、前日に届けてあった。窓を開けると、洗いたてのシャツのような清々しい空気が流れ込んでくる。鏡の前で、数年前に都会へ遊びに行った時に買った、明るい色のワンピースを選んだ。
「三十五歳で、こんな明るい色は......」
かつての自分ならそう思って、無難なネイビーかグレーを選んでいただろう。けれど今は、この町の青い空に溶け込むような色が着たかった。
薄くメイクをし、最後にアルバムから抜き出した写真をバッグに忍ばせる。
「おや、美紀。今日は一段と綺麗じゃないか」
キッチンで新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「......そう? 久しぶりに、駅前をゆっくり歩いてこようと思って」
「そうか。あの辺りも、もうすぐ壊されちまうからな。しっかり見ておきなさい」
父の言葉には、どこか諦めに似た寂しさが混じっていた。この町の人々は、自分たちの街が失われることを「仕方がないこと」として受け入れようとしている。
「お父さんは、寂しくないの」
「寂しいさ。でも、寂しいってだけじゃ、何も変わらんだろう」
父はそう言うと、新聞に視線を戻した。それ以上は、何も言わなかった。
美紀は、父のその横顔を、しばらく見つめていた。若い頃、父はこの町の工場に勤め、定年まで勤め上げた。転勤も、昇進の誘いも、何度か断ってきたのだと、以前母から聞いたことがある。理由を聞いても、父は「ここが性に合ってるだけだ」としか答えなかった。その言葉の重みを、美紀は今になって、少しだけ分かる気がした。
「今日、写真館と、こもれび公園に行ってくるね」
「こもれび公園か。......あのライオン、まだあるのか」
「うん、まだあるよ」
「そうか。お前が小さい頃、よくあそこで転んで、大泣きしてたな」
父は珍しく、ほんの一瞬目を細めて笑った。美紀はその表情を見て、なんとなく胸が温かくなった。
いつもの上り電車で中心駅に着くと、美紀は跨線橋を渡り、三番ホームへ向かう階段を下りた。心臓の鼓動が速くなる。かつて十代の頃に感じた恋心とは違う、もっと深い「共有」への期待だった。
ホームには、すでにあの後ろ姿があった。朝の光を受けて、涼の髪が微かに金色に透けている。
「......おはようございます、涼さん」
声をかけると、涼はゆっくりと振り向いた。彼の瞳が、美紀の姿を捉えてわずかに見開かれる。
「おはようございます、美紀さん。......今日の服、すごく似合ってます」
「ありがとうございます。......ちょっと、気合いを入れすぎたかもしれません」
美紀は照れ隠しに笑い、バッグから昨夜抜き出した写真を取り出した。
「これ、見てくれますか。さっきまで、昔のアルバムを見ていたんです」
涼は、差し出された古い写真を一枚一枚、食い入るように見つめた。
「......すごい。美紀さんが子供の頃の、この町の空気。......僕が描いているものと、繋がっています」
「この場所、どこだか分かりますか」
美紀が指差したのは、大きなライオンの遊具がある公園の写真だった。
「再開発の計画では、ここは大型店の搬入口になる予定なんです」
涼の表情が、わずかに曇った。
「......そんな。このライオン、すごく良い表情をしているのに」
「今日、一緒に巡りませんか。私の思い出の場所と、あなたが描きたい場所を。レンズを通さずに、今の私たちの目だけで見られる景色を」
「行きましょう。美紀さんの物語を、僕にも教えてください」
二人は、駅から歩き出した。平日の午前中。観光客もいない、静かな地方都市。三十五歳の美紀と、二十代の涼が並んで歩くその姿は、この町に新しい風を吹き込んでいるようだった。
「まず、ここです」
美紀が案内したのは、駅前の商店街から一本入った小さな路地だった。そこには、今はもう営業していない、古い写真館があった。ガラスケースの中には、色褪せた七五三の写真や、セピア色の家族写真が並んでいる。
「父と母が、結婚写真を撮った場所なんです。私が生まれた時も、ここで最初の写真を撮りました」
涼は、立ち止まってその建物の意匠を眺めた。
「この窓枠、手作りですね。木の歪みが、時間の重みを感じさせます。......美紀さん、ここに立ってみてください」
「えっ、今ですか」
「はい。今の美紀さんが、この建物の前にいること。それが、この町の『今』なんです」
鉛筆が紙を擦る、さらさらという音が路地に響く。
「......できました」
涼が見せてくれたスケッチには、古い写真館の前に佇む、明るい色の服を着た女性が描かれていた。どこか吹っ切れたような、静かな強さを湛えた顔で。
「私、こんな顔をしてるんですね」
「ええ。今日見た景色の中で、いちばん良い顔をしてます」
写真館を後にした二人は、来た道をそれて、日曜ごとに家族で通ったという古いパン屋の跡地に立ち寄った。シャッターは固く閉ざされ、色褪せた「本日休業」の札が、何年もそのまま掛かっている。
「ここのメロンパンが、大好きだったんです。焼きあがる時間に合わせて、母と並んだこともあって」
「今は、閉まったままですか」
「五年くらい前に、店主さんが体を悪くして。......継ぐ人がいなかったんです」
涼はシャッターの前にしゃがみ込み、錆びた金属の質感をじっと見つめた。
「この錆び方、いいですね。ここだけ、時間の流れが違う気がします」
美紀は、その言葉に少しだけ救われた気がした。誰にも見向きもされなくなった場所を、こんなふうに見てくれる人がいる。それだけで、失われていくことの寂しさが、わずかに和らいだ。
「涼さんは、こういう場所ばかり好きになるんですか。新しくて綺麗なものより」
「そういうわけじゃないんです。ただ、新しいものには、まだ物語がないから。真っ白な壁を見ても、僕には何も浮かんでこないんです」
「錆びた壁には、浮かぶんですか」
「浮かびます。誰が触れて、誰が通り過ぎて、誰がここで立ち止まったのか。......想像するだけですけど、それでも」
涼はそう言って立ち上がり、シャッターについた無数の傷を指でなぞった。
「美紀さんは、真っ白な壁と、こういう錆びた壁、どっちが好きですか」
「今までは、真っ白なほうが良いと思ってました。......でも、最近は分からなくなってきました」
その答えに、涼は満足そうに頷いた。
緩やかな坂道を上り、町外れにある「こもれび公園」へと向かった。かつては子供たちの歓声で溢れていたその場所も、今は雑草がアスファルトの隙間から顔を出し、錆びついたブランコが風に揺れて時折キィ、と細い悲鳴を上げている。
「......あ、まだいた」
美紀が駆け寄った先には、首の付け根に大きな亀裂が入った、コンクリート製のライオンの遊具が鎮座していた。長年の雨風に晒され、ペンキはほとんど剥げ落ちているが、その眼差しだけはどこか遠くの地平線を見つめるような気高さを保っている。
「これが、アルバムに写っていた......」
涼はライオンの前に膝をつき、その亀裂にそっと指を触れた。
「ええ。私が五歳の時、ここで転んで泣いたのを覚えてます。その時、このライオンが『泣くな』って言ってくれたような気がして。......でも、もうすぐここも、大型店の搬入口になってしまうんですね」
美紀の言葉に、涼はしばらく沈黙を守った。彼はスケッチブックを開こうとはせず、ただそのライオンと同じ方向を見つめていた。
「涼さん」
「......今日は、見るだけにします。描くのは、また今度」
その理由を、美紀はまだ聞けなかった。ただ、彼の横顔に浮かんだ表情が、いつもの穏やかさとは違うことだけは分かった。
ブランコの錆びた鎖が、風にきしんで小さく鳴った。二人はしばらく、何も言わずにライオンの前に立っていた。
「僕、昔、こういう遊具の絵ばかり描いてた時期があるんです」
沈黙を破ったのは涼だった。
「壊される前の遊具を、写真で見つけて、描き起こす。誰も見なくなった記録を、絵にして残す。......でも、それを仕事にしようとしたら、続かなかった」
「どうしてですか」
「需要がなかったんです。誰も、なくなる遊具の絵なんて欲しがらない。欲しがられるのは、もっと分かりやすく綺麗なものだった」
涼はライオンの頭を、そっと撫でるように触れた。
「だから、これは、誰にも見せるためじゃなく描きます。今日は、見るだけで十分です」
美紀はその言葉の意味を、うまく飲み込めないまま頷いた。けれど、彼がこの町で描き続ける理由の一端に、初めて触れられたような気がした。
午後、涼と別れて市役所へ出勤すると、ちょうど課内の定例会議が始まるところだった。駅前再開発の進捗が議題に上ると、美紀は手を挙げた。
「意見のある者は」
「はい。......写真館の建物について、壊す前に一度、詳しく調べさせていただけないでしょうか」
会議室に、束の間の沈黙が流れた。課長は驚いた顔をしたが、やがて頷いた。
「調べるだけなら構わない。ただし、期限は切る」
「ありがとうございます」
美紀は手元のノートに『写真館』と書き足した。隣の席の先輩が「珍しいね、佐伯さんが手を挙げるなんて」と小声で言った。美紀は曖昧に笑って、ノートを閉じた。
会議を終えて駅へ向かうと、涼が三番ホームで待っていた。改札を抜けると、ちょうど下校時間の高校生たちが賑やかに通り過ぎていく。彼らの影が長く伸び、ホームに複雑な模様を描き出していた。
「今日は、ありがとうございました。美紀さんのおかげで、この町の景色が、違って見えた気がします」
「こちらこそ。......涼さんは、まだこの町に、しばらくいるんですか」
「分かりません。でも、描きたい場所がまだ残っているうちは」
電車がホームに滑り込み、ドアが開く。
「美紀さん、また明日」
「ええ、また明日」
動き出した電車の窓から入る風は、昼間の熱を冷まし、秋の気配を運んできた。単調だった美紀の日常は、今、鮮やかな色彩を伴って回り始めていた。




