第三章 見知らぬ青年の影
火曜日の朝、市役所の執務室は、昨日までと変わらない蛍光灯の光に包まれていた。
しかし、デスクの上の「駅前再開発計画」のファイルは、昨日よりも重く、異質な存在感を放っているように感じられた。
(消える前に、気づけたのなら......)
涼の言葉が、耳の奥で静かに鳴り続けている。美紀は、パソコン画面に入力すべき「老朽化による取り壊し対象物件一覧」という文字を、どうしても打つことができなかった。
画面の前で固まっていると、隣の席から視線を感じた。同期の男性職員が、怪訝そうな顔で美紀を見ていた。
「佐伯さん、大丈夫? さっきから同じところで手が止まってるけど」
「あ、ごめん。......ちょっと考え事」
「珍しいね、佐伯さんがそんな顔するの」
美紀は誤魔化すように笑って、キーボードに指を戻した。それでも、文字はやはり打てなかった。
机の端に置いた小さなカレンダーには、何の予定も書き込まれていない今日の日付があった。去年までの自分なら、この空白を当たり前だと思っていた。今はなぜか、その白さが目に刺さるように感じられた。
窓の外では、始発から動いていた工事車両が、市役所の駐車場脇の道路工事のために低いエンジン音を響かせていた。振動が、机の上のマグカップの水面を微かに揺らしている。この町では、そういう小さな音の一つひとつが、いつもより大きく耳に届く日があった。今日は、まさにそんな日だった。
「佐伯さん、例の資料、進んでる?」
課長がコーヒーカップを片手に通りかかる。
「......課長。この計画に使われている建物の写真、もう少し古いものはありませんか」
「古いもの? そんなの、記録用の白黒写真くらいだろう。何に使うんだい」
「今の状態と比べるだけじゃなくて、この場所がどんな役割を果たしてきたのか、もう少し詳しく知っておく必要があると思って」
自分でも驚くほど、声が震えていなかった。課長は「真面目だねえ」と苦笑しながら、地下の資料室の鍵を寄こした。
「昼までには返してくれよ。他の課も使うから」
「はい、ありがとうございます」
資料室は、カビと古い紙の匂いが充満していた。美紀は入口の照明のスイッチを手探りで探し、蛍光灯が点滅しながら灯るのを待った。棚には、年度ごとにラベルの貼られた段ボールが、天井近くまで積み上がっている。「昭和55年度 都市計画関連」「平成3年度 道路台帳」といった無機質な文字が並ぶ中、美紀は目当ての箱を探して、脚立に上ったり降りたりを繰り返した。
ようやく見つけた古い段ボールを一つずつ開けていくと、昭和四十年代、まだ電車がこの街の主要な足だった頃の写真が出てきた。三番ホームで、今よりずっと多くの人が笑い、ベンチに腰掛け、空を見上げている。制服姿の駅員が、笑顔で乗客に切符を切っている一枚もあった。
別の箱には、駅前商店街の全景写真もあった。今よりずっと多くの店の看板が並び、自転車の数も、人の数も、今の何倍もあるように見えた。写真の隅、今の写真館の場所には、当時から同じ屋根の建物が写っていた。
涼が描いたあのスケッチと、数十年前に撮られたこの写真。時代は違えど、そこには共通する何かがあった。そこに住む人々が、自分の街を当たり前に愛していたという、静かな証拠だ。
(私たちは、何を捨てようとしているんだろう)
気づけば、一人の老婆が営んでいた小さな駄菓子屋の古い写真に見入っていた。再開発計画では、真っ先に駐車場になる予定の場所だった。写真の裏には、鉛筆で「昭和四十八年 夏祭り」とだけ書かれていた。名前は残っていない。
箱の底からは、駅前の薬屋の写真も出てきた。店先に白衣を着た若い男性が立ち、隣には赤ん坊を抱いた女性が写っている。裏書きには「松井薬局 開店記念」とあった。美紀はその名字に、どこか聞き覚えがある気がしたが、すぐには思い出せなかった。
さらに探すと、写真館の前で撮られたと思しき集合写真も見つかった。七五三らしき晴れ着の子供たちと、それを見守る大人たち。カメラに向かって、誰もが少し緊張した顔をしている。写真の端には、当時の写真館の屋号が入った看板が写り込んでいた。今も変わらない、あの木製の窓枠と同じ形をしている。
美紀は写真を何枚か選び出し、スマートフォンで複写した。もし今度、涼に見せる機会があれば。そう思っての行動だと、自分でも気づいていた。段ボールを元の場所へ戻しながら、美紀はふと、この資料室そのものが、町の記憶を押し込めた倉庫のように思えてきた。誰も見にこない場所に、確かにあった暮らしが、埃をかぶって眠っている。
資料室を出る前、美紀は棚の隅に置かれた古い扇風機を見つけた。羽根には埃が厚く積もり、コードは黄ばんで固くなっている。誰かがここで夏を過ごし、そのまま忘れられたものなのだろう。美紀はしばらくその埃を眺めてから、静かに照明を消した。
約束の時間より少し早く、美紀は鍵を課長の机に返しに行った。
「早いね。何か見つかった?」
「はい。......思っていたより、たくさん」
「そうか。まあ、古い写真見たところで、計画が変わるわけじゃないけどな」
課長はそう言って笑ったが、その声には、美紀の熱意を面白がるような響きも混じっていた。
課長はそれ以上聞かず、鍵を引き出しにしまった。
午後から降り始めた雨は、夕方には本降りになった。地方の雨は、都会のそれよりずっと重く、周囲の景色を深い灰色に沈めていく。窓の外を見るたび、傘を持たずに来た市民たちが、小走りで駐車場へ向かうのが見えた。
(今日は、いないよね)
こんな雨の中、スケッチをしているはずがない。そう自分に言い聞かせながらも、視線は無意識に跨線橋を探していた。橋の上に人影はない。肩を落として改札を抜けようとすると、
「......冷えますね、美紀さん」
低く、けれど通る声がした。駅舎の隅、使われなくなった売店跡の軒下に、涼が立っていた。雨に濡れたキャンバスバッグを抱え、寒そうに首をすくめている。
「涼さん! こんな雨の中で何を」
「雨の日には、雨の日にしか見えない光があるんです。アスファルトが鏡のようになって、街灯の光がどこまでも伸びていく。それを見逃すのが、もったいなくて」
「風邪、引きますよ。......ずっとここに」
「二時間くらいでしょうか。途中で、傘を持っていないことに気づいたんですけど、もう遅くて」
「傘、売店にもないですよ、この時間」
「知ってます。だから、雨宿りです」
涼は肩をすくめ、少し困ったように笑った。濡れた前髪から、雫が一筋、頬を伝って落ちる。その仕草に、美紀は思わず目を逸らした。
美紀は自分の傘を差し出した。
「入ってください。風邪を引きますよ」
「すみません......。ありがとうございます」
狭い傘の中、肩が触れるか触れないかの距離になる。三十五歳になって、こんなに胸が騒ぐことがあるなんて、思ってもみなかった。
雨音が傘布を打つ音だけが、しばらく二人の間を埋めていた。改札脇の街灯が、濡れたアスファルトに滲んだ光の輪を作っている。
「......涼さんは、どうしてこの町に来たんですか」
思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねた。涼はひと呼吸置いた。
「東京で、絵を描く仕事をしていました。......うまくいかなくなって」
それ以上は続かなかった。美紀も、それ以上は聞かなかった。傘に当たる雨音だけが強くなっていく。
「逃げてきたと言えば、そうかもしれません。でも、僕にとっては、ここが唯一の居場所なんです」
美紀は、彼を包み込む孤独と、その奥にある強さの両方を感じていた。
「東京にいた頃、絵は好きに描けたんですか」
「最初のうちは。......途中から、誰かに求められるものを描くようになって。それが、いつの間にか、自分が描きたいものと見分けがつかなくなっていました」
涼の声は淡々としていたが、言葉の端に、微かな疲労がにじんでいた。
「今は、好きに描けてますか」
「ここでは、まだ。誰にも何も求められていないので」
その答えに、美紀は何と返せばいいか分からなかった。求められないことの寂しさと、求められないことの自由と、そのどちらも、涼の声には混じっているように聞こえた。
「これ、さっきの駄菓子屋のおばあちゃんに貰ったんです。一つどうですか」
差し出されたのは、素朴なハッカ飴だった。口に含むと、冷涼な香りと懐かしい甘さが広がった。
「......美味しい」
「でしょう。あのお店、いつの間にか常連になってしまって」
涼はかすかに笑った。傘の外では、雨が街灯の光を無数の糸に変えて落ちてくる。
不便な町。何もない町。けれど、そこには確かに、人々の息遣いと、繋いできた時間がある。美紀は、自分の心が、この雨の夜に少しずつ洗われていくのを感じていた。
傘の内側で、涼の息遣いが微かに聞こえる。二人の間にある距離は、傘一本分よりもさらに狭い。それでも、それ以上近づこうとはしない、ぎこちない優しさがあった。
「明日も、ここで会えますか」
「ええ。描きたい場所が、まだまだたくさんあるので」
電車がホームに入ってくる。美紀は傘を涼に預け、走って改札を抜けた。振り返ると、彼は雨の中で傘を差し、美紀が見えなくなるまで見送ってくれていた。
その夜、美紀は久しぶりに和子と長く話をした。隣の家のみっちゃんの二人目の話ではなく、この町に昔あったお祭りの話や、今は無くなってしまった映画館の話。
「お母さんが若い頃はね、駅前にお祭りの夜店がずらっと並んでね。金魚すくいと、りんご飴と、......そうだ、お父さんと最初に会ったのも、あの夏祭りだったのよ」
「初耳。お父さんと?」
「言ってなかったかしら。同じ町内会の集まりで、お父さんが金魚すくいの手伝いをしてたの。不器用でね、全然すくえなくて、見かねて私が代わってあげたのよ」
和子は懐かしそうに目を細めた。美紀は驚きながらも、どこか嬉しそうに昔語りをしてくれる母の顔を、久しぶりにじっと見つめた。
「その夜店、今はもうないの?」
「なくなったわねえ。人手が足りなくてやめちゃったって聞いたわ。今の若い人たちは、そういうの知らないでしょう」
「もったいないね。楽しそうなのに」
「本当にね。......でも、続けるのって大変なのよ。毎年準備する人がいて、道具を仕舞う場所があって。誰かがずっと、面倒を見続けないといけないから」
和子はそう言うと、湯呑みを両手で包んだ。美紀は、その言葉が今の自分の仕事にも重なるような気がした。
「美紀、あなた最近、なんだか顔つきが変わったわね」
「そうかな?」
「ええ。なんだか、昔みたいに目がキラキラしてるわ」
鏡の中の自分は、相変わらず三十五歳の普通の女性だ。けれど、心の中には、雨上がりの空にかかる虹のような、淡いけれど確かな期待が芽生え始めていた。
翌朝、市役所へ向かう道すがら、美紀は昨日までは気に留めなかった「音」に耳を澄ませてみた。風が田んぼの苗を撫でる音。遠くで踏切が鳴り始める前の、かすかな金属の震動。近所の犬の鳴き声。自転車のブレーキがきしむ音。それらすべてが、涼が言っていた「光」の断片のように思えてくる。
中心駅で電車を降り、跨線橋へ上がると、三番ホームに涼が見えた。少しだけ、と美紀はそちらの階段を下りた。朝の光を受けて、彼の髪が微かに金色に透けている。
「おはようございます、美紀さん」
「おはようございます。......今日も、描くんですか」
「ええ。この町には、まだ知らない光がたくさんある気がして」
「私も、まだ知らない場所がたくさんある気がしてきました」
「例えば、どんな」
「資料室で見つけた写真に、古い薬屋さんが写っていたんです。今はもう、営業していないみたいなんですけど」
「跨線橋から見えるあの看板の店ですか」
「たぶん。今度、その場所も一緒に見てもらえますか」
「はい、喜んで」
その約束が、美紀の一日を軽くした。窓口業務も、書類の山も、今日はいつもより苦にならない気がした。
美紀は頷いた。彼がなぜ東京を出たのか、詳しいことは何も知らない。けれど、知らないままでいいと思える自分がいた。
改札へ向かう美紀の背中を、涼の視線が追っているような気がした。振り返らなかったが、その気配だけで、今日一日を乗り切れる気がした。ホームに吹く朝の風が、心なしか昨日より柔らかく感じられた。




