↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『三番ホームの遺失物』  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/10

第二章 プラットホームの忘れ物

川を渡り、自宅最寄りの駅で電車を降りた。そこから家までの十五分。いつもは足取り重く歩く夜道が、その夜は妙に短く感じられた。

 街灯の下を通り過ぎるたび、頭の中で涼の言葉がリフレインする。

『僕にとっては、光の宝庫なんです』

 娯楽施設もなければ、最新のトレンドを追える店もない。けれど、涼が見せてくれた世界では、錆びた看板や、雑草の茂る線路脇が、物語の断片のように輝いていた。

 田んぼの用水路を流れる水音が、いつもより大きく聞こえる。美紀は歩調を緩め、久しぶりに立ち止まって、夜空を見上げた。街灯の少ないこの道では、星がよく見える。子供の頃は、その多さを当たり前だと思っていた。今はもう、それがこの町だけの贅沢だということを、忘れていた。

 道端の自動販売機の灯りだけが、やけに眩しく感じられる。美紀はその前で立ち止まり、ホットの缶コーヒーを買った。手のひらに広がる温かさが、今日一日の疲れを少しだけ和らげてくれる気がした。プルタブを開けると、白い湯気が夜気に溶けて消えていく。

 この道を、何百回歩いてきただろう。通学路として、通勤路として。景色は変わらないのに、今夜だけは違って見える。涼が描いた三番ホームの絵のように、見慣れたはずの田んぼも、電柱も、心なしか輪郭が違って見えた。

 玄関を開けると、出汁の匂いに包まれた。

「ただいま」

「おかえり。遅かったわね、電車一本遅れたの?」

「......ちょっと駅で。ご飯、まだある?」

「あるわよ。温め直しなさいね」

 肉じゃが、ほうれん草のお浸し、豆腐の味噌汁。いつもなら「またこれか」と溜息をつき、機械的に口に運ぶ夕食に、その夜はふと箸が止まった。

「美紀、どうしたの。箸が止まってるわよ」

「......ううん、なんでもない。美味しいよ、お母さん」

「あら、珍しい。何かいいことでもあった?」

 拾ったスケッチブックに感動し、年下の見知らぬ青年に名前を呼ばれた。誰かに報告するような「いいこと」ではない。美紀は自分の中の小さな高揚を、誰にも悟られないよう仕舞い込んだ。

「別に。ただ、ちょっと疲れてるだけ」

「疲れてるのに、そんな顔してるの」

 和子は箸を置いて、娘の顔をしげしげと眺めた。美紀は視線を逸らし、味噌汁の椀を手に取った。

「お母さんの気のせいだよ」

「そう? ならいいけど」

 和子はそれ以上追及せず、テレビのチャンネルを変えた。地元のローカル局が、隣町の道の駅にできた新しいソフトクリームの特集を流している。

「今度、お父さんと行ってみようかしら」

「行っておいでよ」

 美紀は肉じゃがのじゃがいもを箸で割った。味は、いつもと同じはずだった。それなのに、今夜は妙に美味しく感じられた。理由は分かっていたが、口には出さなかった。

 食後、自室のドレッサーの前に座り、化粧水を手に馴染ませる。鏡の中の自分を見つめる。今朝と同じ顔のはずなのに、どこかが違って見える。それが何なのか、美紀にはまだ言葉にできなかった。

 明日もまた六時三十分に起きる。明日もまた市役所の窓口に立つ。けれど、明日の自分は、昨日までの自分とは違う視点を持っているはずだ。

 ドレッサーの引き出しには、使いかけの口紅が何本も転がっている。どれも、休日に一人でドラッグストアへ買いに行き、結局あまり使わないまま色褪せていったものだった。美紀はその中から、いちばん明るい珊瑚色のものを手に取り、蓋を開けてみた。テスターのように手の甲に一筋引いてみる。悪くない色だった。誰に見せるつもりもないのに、しばらくその色を眺めていた。

 美紀はスマートフォンの電源を切り、窓の外に広がる山々のシルエットを眺めた。深い闇。けれど、その向こうには、明日の朝陽が待っている。

 月曜日の市役所は、週末に溜まった澱を吐き出すように騒がしかった。窓口の番号案内、コピー機の回る音、キーボードを叩く音が重なり合う。朝一番から、ごみ出しのルールを巡る苦情の電話が三本続いた。美紀は一本目を隣の職員に代わってもらい、二本目と三本目を自分で受けた。同じ説明を、少しずつ言葉を変えながら繰り返す。

「佐伯さん、ちょっといい?」

 課長が分厚いファイルを抱えてやってきた。五十代後半の、地方公務員を絵に描いたような保守的な男だ。白髪の混じった髪をきっちり七三に分け、ここでの勤続年数は美紀の年齢よりも長い。若い頃は県庁への出向も経験したと聞いたことがあるが、本人がそれを語ることはほとんどない。

「この、駅前の再開発計画の資料、まとめておいてくれるかな。近々、県の担当者が来るから」

 美紀が手に取ると、駅前の古い商店街を取り壊し、大型店を誘致する、十年前から燻っていた計画の続きだった。ファイルの中には、住民説明会の古い議事録も挟まっていた。日付は八年前。参加者の名前の欄には、見覚えのある名字がいくつも並んでいた。

「不便だ不便だと市民からも苦情が多いだろう。街を新しくして、若い世代を呼び戻さないといけない。何もないこの町を、少しはマシにしなきゃならん」

 隣の席で書類を整理していた先輩職員が、聞こえよがしに口を挟んだ。

「課長、その計画、私が入庁した年からありますよね」

「十年選手だな。県の補助金の枠が変わるたび、話が止まったり動いたりでね」

「今度は本当に動くんですか」

「動かす。今度こそはな」

 課長はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。

 資料には、中心駅前の商店街を取り壊した後の完成予想図が添えられていた。ガラス張りの建物と、どこにでもあるチェーン店の看板。跨線橋から見える、古い薬屋の場所には、平らな駐車場の線が引かれている。

「何もない」

 その言葉が、昨夜の涼の言葉――『光の宝庫』という響きとぶつかり合い、美紀の胸の中で小さく軋んだ。

「......課長は、今の駅前の景色、嫌いですか」

 思わず口から出た言葉に、課長はきょとんとした顔をした。

「嫌いも何も、ただの古い町並みだろう。佐伯さんだって、都会に憧れてる口じゃないか。不便なのは嫌だろう」

「そういうわけでは」

「みんなそう言うんだよ、最初は。住んでみりゃ分かる。便利なほうがいいに決まってる」

 課長はそう言うと、ファイルを机に置いて、自分の席へ戻っていった。

 美紀は曖昧に微笑んで、視線を資料に戻した。これまでの自分なら、迷わず「そうですね」と頷いていただろう。けれど、今朝、中心駅の跨線橋を渡った時、美紀は無意識に三番ホームのベンチへ目を向けていた。涼のスケッチブックに描かれていた、あの影の正体を探すように。

 資料をめくっていくと、駅前の航空写真が挟まっていた。上空から見ると、商店街はいびつな弧を描いて駅前に張りついている。その弧の中に、写真館らしき四角い屋根と、公園らしき緑の斑点が見えた。図面の上では、それらはただの記号でしかない。けれど美紀の頭には、そこを歩く人たちの顔が、いくつも浮かんでは消えていった。

 昼休み、市役所の裏手にある小さな公園のベンチで、コンビニのサンドイッチを頬張っていると、都会で働く友人の絵里からメッセージが届いた。

『美紀、最近どう?こっちは仕事が山積みで、昨日は終電逃してタクシー帰り。もう、この生活も限界かも。たまには空気の綺麗なところに行きたいな』

 いつもなら『こっちは空気しかないよ(笑)』と自虐気味に返していたはずだ。けれど、今の美紀の指先が綴ろうとしたのは、もっと別の言葉だった。

(空気の綺麗なところ、じゃなくて。ここには、もっと違う何かがある気がするの)

 結局、送信ボタンを押せずに画面を閉じた。公園の桜の葉が、そろそろ色づき始めている。あと一月もすれば、この木も真っ赤に染まるだろう。何十年も見てきた景色のはずなのに、今日はやけに鮮やかに映った。ベンチの木目に触れると、ささくれた表面が指先に引っかかった。誰かがここに座り、同じ木漏れ日を見た年月のことを、美紀はぼんやりと思った。しばらくして、もう一通メッセージが届いた。

『既読無視ってことは、そっちも忙しいのかな。今度そっち遊びに行っていい?何もないところで、ぼーっとしたい』

 美紀は少し考えてから、短く返した。

『いつでもおいで。......何もない、かどうかは、来てから決めて』

 送信したあと、自分で書いた文章を見返し、美紀は小さく笑った。以前の自分なら、絶対に書かなかった一文だった。

 すぐに絵里から返事が来た。

『? 美紀、なんか変わった?』

『変わってないよ。ちょっと、面白い人に会っただけ』

『気になる! 今度詳しく聞かせて』

 美紀はスマートフォンをバッグにしまい、残りのサンドイッチを口に押し込んだ。公園の隅で、放課後の小学生たちが鬼ごっこをしている。歓声が、秋の澄んだ空に響いていた。

 定時になると、美紀はいつもより早く身支度を整えた。何に急いでいるのか、自分でもよく分からない。

 跨線橋から見下ろした三番ホームのベンチには、今日は誰もいなかった。安堵したような、落胆したような気分で歩いていくと、橋の窓際に、一人の人影が見えた。使い古されたパーカー。肩にかけたキャンバスバッグ。涼だった。

「......涼さん」

「美紀さん。お疲れ様です。......また、お会いしましたね」

 彼は跨線橋の上から、沈みゆく太陽を見つめていた。

「まだ、この町にいたんですね」

「ええ。今日も、この跨線橋から見える影を追っていたら、あっという間に時間が過ぎてしまって。......見てください。今、あの錆びた看板にだけ、最後の日差しが当たっているんです」

 彼が指した先には、営業を止めて久しい薬屋の看板があった。塗装は剥げ、文字も読めない。けれど斜めに差す光を受けた瞬間、細かな凹凸が、月面のような陰影を作っていた。

「......本当だ。あんなに綺麗だったなんて」

「物の価値は、誰が決めるんでしょうね。古くなったから、不便だからという理由で消されてしまうものの中に、一番美しい記憶が宿っている気がするんです」

「私、今日......この駅前の再開発の資料を作っていたんです。ここを取り壊して、もっと新しくて、便利な場所にするために」

 涼はスケッチブックをゆっくりと閉じた。

「美紀さんは、これをどう思いますか」

「分かりません。......ただ、今日、課長に何もないのかって聞かれて、すぐに頷けなかった」

「今までは、頷いていたんですか」

「ええ。ずっと」

 美紀は跨線橋の欄干に手をかけた。眼下を、下校中の中学生の自転車が連なって通り過ぎていく。

「頷くほうが、楽だったので。反対したところで、何かが変わるわけでもないし」

「変わらないと、決めてから反対しないのと、反対してから変わらなかったのとでは、同じに見えて違う気がします」

「涼さんは、いつもそんなふうに考えるんですか」

「絵を描くときだけです。それ以外では、わりと流されます」

 その自嘲めいた言い方に、美紀は思わず笑った。

「意外です」

「よく言われます」

 涼はキャンバスバッグからスケッチブックを取り出し、今日描いたばかりのページを見せてくれた。跨線橋から見下ろす線路と、夕日を受けた架線の影が、幾何学模様のように重なって描かれていた。

「これも、光の宝庫ですか」

「はい。誰も見上げない場所ほど、いい光が溜まっているんです」

 涼はふっと笑って、それ以上は聞いてこなかった。

「消える前に、気づけたのなら。それは、まだ手遅れじゃないってことじゃないですか」

 その言葉は、美紀の心の中にあった「三十五歳の限界」という壁に、小さな、けれど確かな亀裂を入れた。

「明日も、ここで会えますか」

「ええ。描きたい場所が、まだたくさんあるので」

「毎日、ここにいたら、いつか全部描き終わってしまうんじゃないですか」

「そうなったら、次の町に行くだけです。......でも、この町は、まだしばらくかかりそうな気がします」

 その言い方が、この町に留まる理由になっているようで、美紀は少しだけ嬉しくなった。それを顔に出さないよう、美紀は視線を線路の先へ逃がした。

 電車が三番ホームに入ってくる。二人で階段を下り、美紀は電車に乗り込むと、窓越しに小さく手を振った。

 単調だと思っていた日常に、初めて聞く音が重なった。それがなんの音なのか、美紀にはまだ分からなかった。ただ、それが心地よい音であることだけは、確かだった。窓の外を流れる景色を眺めながら、美紀は小さく息を吐いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。