第一章 灰色の朝のルーティン
午前六時三十分。
スマートフォンのアラームが鳴る前に、佐伯美紀は目を覚ましていた。
カーテンを開けると、山の稜線と、色を変えつつある田んぼが見えた。高層ビルのない空は、逃げ場がないほど広い。
洗面台の鏡には、三十五歳の顔があった。目尻には、ファンデーションで隠しきれない乾燥のサイン。派手な経歴も、SNSに載せるような恋愛の話もない。蛇口から出る水は、まだ夜の冷たさを残していた。手のひらで受けると、指先がじんと痺れる。
化粧水を叩き込みながら、美紀はふと、二十五歳の頃に着ていた黄色いワンピースを思い出した。今はもうクローゼットの奥で、二度と袖を通さないまま眠っている。似合わなくなったからではない。着ていく場所も、見せたい相手も、思いつかなくなったからだった。
先週、大学時代の友人から結婚式の招待状が届いた。三度目の友人の結婚式。ご祝儀袋を選びながら、美紀はスピーチで何と言われるだろうと考えた。きっと「独身のお友達代表」という紹介はされない。もう、そういう歳ではないことを、誰もが分かっている。
大学は県庁所在地に出た。四年間、寮の窓から見えるのは、この町よりずっと高いビル群だった。就職活動の時期、東京の企業からも一次面接の連絡が来た。行かなかったのは、祖母が体調を崩したからだったと、自分では説明してきた。本当にそれだけだったのか、美紀自身にも、もう分からない。気づけば、市役所の採用試験を受け、この町に戻っていた。あのとき選ばなかった道のことを、美紀は普段、思い出さないようにしている。
台所では、母の和子が味噌汁をよそっていた。父はすでに出勤したあとだった。
「おはよ。......あ、そういえば、隣のみっちゃん、二人目なんですって。まだ二十代なのに」
「へえ、おめでたいね」
「それとね、駅前の眼鏡屋さん、今月いっぱいで閉めるんだって。もう三代続いたお店なのに」
「そうなんだ」
「跡取りがいないんですって。息子さん、県庁所在地で就職しちゃったから」
適当な相槌を打ってトーストを口に運ぶ。結婚していないこと、仕事が「普通」であること。この町では、それが何か足りないことの証明のように扱われる。
テレビが朝のニュースを流していた。県庁所在地の最高気温は、この町より二度高いらしい。天気予報の地図では、いつもこの町は端のほうに小さく載っている。地図の端に載っている町。子供の頃からずっと、そう思ってきた。
「行ってきます」
「はい、気をつけて。傘、持った?」
「今日は降らないでしょ」
「念のため」
美紀は苦笑して、折り畳み傘をバッグに押し込んだ。子供の頃から変わらない、母のこの口癖。何十年経っても、心配の種は尽きないのだろう。
自宅から最寄り駅までは徒歩十五分。そこから上り電車で川を渡った一駅先が、市役所のある町の中心駅だった。子供の頃から家族で買い物に通った商店街も、その駅前にある。玄関先の金木犀が、微かに秋の気配を運んでいた。
途中、シャッターの下りたパチンコ店の前を通る。看板の文字は半分色褪せ、駐車場にはひび割れから雑草が伸びていた。子供の頃は明るいネオンが点いていた場所だ。今はただの、四角い灰色の建物になっている。
「おはようございます、佐伯さん」
登校中の小学生たちが声をかけてくる。彼らにとって、美紀は近所の親切なお姉さんでしかない。彼らの瞳は、この町の外に広がる無限の可能性を、まだ疑っていない。
中心駅の二番ホームに着き、跨線橋を渡る。反対側の三番ホームは、自宅のある隣駅へ向かう下り列車が止まる場所だ。美紀は毎夕、そこで帰りの電車を待つ。線路脇には夏草が茂り、ベンチのペンキは剥げかかっている。
階段を下りる人たちは、同僚かもしれないし、名前も知らない誰かかもしれない。皆、スマートフォンの画面を見ている。
美紀もタイムラインを開いた。丸の内でランチをする友人。新しいプロジェクトが始動したという元同級生。週末のキャンプ写真と、「幸せのお裾分け」というタグ。
(今の私にできることは、なんだろう)
その問いは、ここ数年、雨だれが岩を穿つように美紀の心に穴を開け続けていた。仕事は適当にこなせている。市民からの苦情にも慣れたし、書類の作成も早い。けれど、それが自分にしかできないことだとは、到底思えなかった。誰がやっても同じ仕事。誰の代わりにもなれる自分。
駅から商店街を抜けて市役所までは、歩いて十分ほどだった。シャッターの下りた店と、まだ開いている店が、まだら模様に並んでいる。窓口業務は、朝から途切れなかった。
最初に対応したのは、抱っこ紐の中で泣きじゃくる乳児を連れた若い母親だった。児童手当の書類を前に、記入欄を何度も見比べては、ため息をついている。
「大丈夫ですよ。ここは、あとで郵送でも構いませんから」
美紀は赤ん坊の泣き声に負けないよう、少し大きな声で言った。母親の肩から力が抜けるのが分かった。
「すみません、頭が回らなくて」
「みんなそうです。今日は、埋まるところだけ埋めましょう。判子だけ忘れないでくださいね」
母親は何度も礼を言い、抱っこ紐を揺すりながら帰っていった。
続いて、転入届の書き方が分からないという年配の女性がやってきた。美紀は記入例を指でなぞりながら、ゆっくりと説明した。
「ここと、ここに印鑑を。分からなくなったら、また呼んでください」
「助かります。若い人はみんな早口で、ついていけなくて」
女性は何度も頭を下げて帰っていった。それが今日、いちばん誰かの役に立てた時間だったかもしれない、と美紀は思った。
午前の終わりには、車椅子の男性が一人でやってきた。介護保険の更新手続きで、書類の束を膝の上でめくるのに苦労している。美紀はカウンターの端にある低い台を回り込み、男性の目の高さまで身をかがめた。
「こちらで大丈夫ですよ。急がなくていいので」
「若い人に、こんな面倒をかけて悪いね」
「面倒じゃないです。私の仕事ですから」
男性は書類を書き終えると、わずかに表情を緩めた。
「昔はこの窓口、もっと混んでたんだけどねえ。人が減ったなあ」
その一言が、美紀の耳の奥に小さく残った。
隣の窓口では、同期の男性職員が電話越しに市民からの苦情を受けていた。道路の穴について、同じ内容を三度は繰り返させられているようだった。それでも声だけはずっと穏やかだった。電話を切ると、彼は小さく息を吐き、また次の書類に手を伸ばした。ここでは、誰もがそうやって一日を積み重ねている。
昼休み、隣の課の女性職員たちが、県庁所在地に新しくできたカフェの話で盛り上がっていた。パンケーキが有名で、週末は行列ができるらしい。
「佐伯さんも今度、一緒にどうですか」
声をかけられて、美紀は曖昧に微笑んだ。
「今度、機会があれば」
そう答えるのは、もう何度目だろう。機会は、いつも訪れないまま過ぎていく。美紀はその輪から離れた席で、コンビニのおにぎりを食べた。窓の外では、市役所の駐輪場に停めた自転車の列が、午後の日差しに白く光っていた。
午後五時十五分、最後の申請書に受領印を押す。
「お疲れ様、佐伯さん」
パート職員の佐藤が声をかけた。中学生の息子がいる、美紀より十歳ほど上の同僚だ。
「今日は特に急ぎの案件もなかったので」
「いいわね、独身は身軽で。私なんてこれから塾の迎えよ。戦場だわ」
佐藤に悪気はない。けれど「身軽さ」は時々、「どこにも繋ぎ止められていない心細さ」に似ていた。誰かに急かされることも、誰かを急かすこともない毎日。その静けさを、美紀はまだ、うまく言葉にできずにいた。
更衣室で制服から私服に着替え、鏡の前で髪を整え直す。誰に見せるわけでもない。それでも指先は、癖のように前髪の位置を直している。
帰りの電車も一時間に一本。逃せば、次まで冷たいベンチで待つことになる。市役所から中心駅へ戻る道は、驚くほど静かだった。遠くで鳴る踏切の音。カラスの鳴き声。家々の窓に灯り始めるオレンジ色の光が、美紀の胸をチクりと刺した。
商店街のアーケードは、半分近くの店が灯りを落としていた。まだ営業している和菓子屋の店先で、店主が暖簾をしまいながら、美紀に会釈をした。美紀も会釈を返す。名前は知らない。それでも、顔を見れば互いに分かる程度には、この町は小さかった。
改札を抜け、三番ホームのいつもの位置へ向かうと、木製のベンチの隅に、見慣れないものがあった。
黒い布張りの、厚みのある一冊。表紙の角が擦り切れている。持ち主は見当たらない。この駅には、駅員のいない時間帯がある。
「......忘れ物」
「ちょっとだけ、確認するだけ......」
自分に言い訳をしながら、美紀はそっと表紙をめくった。
最初のページに描かれていたのは、今、自分が立っているこの三番ホームだった。けれど、見慣れた「古臭くて不便な場所」ではなかった。夕闇が紫と金色に染め上げ、ベンチの剥げたペンキさえ、長い年月の勲章のように描かれていた。
ページをめくる手が止まらない。錆びた郵便ポスト。田んぼの畦道。どれも見飽きたはずの風景なのに、宝石のように輝いていた。
最後のページに、走り書きがあった。
『ここにしかない光がある。それを描くまでは、帰れない』
「あの......」
背後から声がした。振り返ると、二十代半ばの青年が立っていた。着古したパーカーに、やや長めの髪。都会の空気を纏っているようでいて、瞳にはこの町の夜のような静けさがあった。
「それ、僕のなんです。......見られちゃいましたか」
「すみません、勝手に。ベンチに置いてあったので、確認のために」
差し出すと、青年は受け取りながら、小さく頭を下げた。
「涼と言います。......中、見ちゃいましたよね」
責めるふうでもなく、どこか遠くを見るような目だった。
「はい。......すごく綺麗だったので。私が毎日通っている駅なんですけど、あんな風に見えるなんて、思ってもみなくて」
自分でも驚くほど、素直に言葉が出た。市役所の窓口で繰り返す定型文とは違う、心の底から汲み上げたような言葉だった。
「忘れ物のこと、気づかなかったんですか」
「向かいのホームで、屋根の骨組みを描いていて。気づいたら、電車を二本見送っていました」
涼は少し照れたように笑った。
「集中すると、それだけになってしまうんです。悪い癖で」
「二本も。......お仕事、大丈夫なんですか」
「今は、これが仕事のようなものなので」
言葉を濁すような言い方だった。それ以上、美紀は踏み込まなかった。
涼はスケッチブックを撫で、小さく笑った。
「そう言ってもらえると、救われます。この町の人は皆、何もないって言うけれど。僕には、光の宝庫なんです」
「光の、宝庫」
「都会の、押し付けがましい輝きとは違う光です。静かで、でも消えない」
「この町に来て、まだ日は浅いんですか」
「一週間ほどです。......この駅で降りたのは、ほとんど偶然なんですけど」
涼はそう言って、線路の向こうに視線をやった。夕暮れの光が、彼の横顔に淡い影を作っていた。
「偶然、ですか」
「切符の行き先を、適当に指で押したんです。降りてみたら、ここでした」
「それだけで」
「それだけです。......変ですよね」
涼はふと困ったように笑った。美紀は、自分ならそんな選び方はしないだろうと思いながら、なぜかその頼りなさに、目を離せずにいた。
列車がホームに滑り込んできた。強い風が美紀のスカートを揺らす。
「あ、私、行かなきゃ」
「佐伯......さん、でしたよね。名札が見えたので」
「美紀です。佐伯美紀」
「美紀さん。また、ここで会うかもしれませんね。僕はもう少し、この町の夜を歩いてみます」
「気をつけてくださいね。この時間、駅員さんもいなくなるので」
「はい。......ありがとうございます」
電車のドアが閉まる直前、振り返ると、涼の姿は夜の闇に溶けそうなほど淡かった。けれど、彼が抱える黒いスケッチブックだけは、確かな重みでそこにあった。
座席に腰を下ろし、美紀は自分の掌を見つめた。ついさっきまで、他人のスケッチブックの重みを確かに感じていた指先。その感触が、まだ残っている気がした。
窓に映る自分の顔は、朝とはどこか違って見えた。頬が微かに上気し、瞳に小さな光が宿っている。
川を渡る鉄橋の音が、いつもより軽やかに聞こえた。




