第十章 三番ホームから吹く風
二月最後の日曜日は、よく晴れた。
写真館の前には、新しい道路の位置を示す杭が打たれていた。入口の脇に立つと、杭の一本が、かつて美紀が絵のモデルになった場所と重なった。
シャッターは、今日も半分で止まった。健太が下へ緩衝材を巻き、頭上注意の紙を貼った。
「最後まで、これですね」
美紀は笑い、入口の椅子を外へ出した。
空を見上げると、雲一つない青が広がっていた。半年前、初めてここに来た日のことを思い出す。あの日は、涼が跨線橋から差す光を追いかけていた。今日のこの晴天も、彼ならきっと、何かの意味を見出すのだろう。冷たい朝の空気に、わずかに春の匂いが混じっているような気がした。
美紀は椅子を並べ終えると、写真館の正面に立ち、しばらくその建物を見上げた。あと数週間で、この壁も、この屋根も、この場所からなくなる。それでも、今この瞬間の光景は、確かに自分の目に焼きついていた。
もう一度の展示には、涼の絵に加えて、集まった写真とその複写を並べた。名前の分からない人の下は空けてある。写真館の娘が送ってくれた、店の中で撮った家族の写真もあった。
涼の新しい絵は、窓枠と壁の一部だけを描いたものだった。鉛筆の背丈の線が、窓から入る明るさに半分消えかけている。
「描き終わった?」
美紀が聞くと、涼は少し首を傾げた。
「今日は、ここまでにします」
美紀は頷き、絵の下に名前を書いた。
藤代涼介。
「これでいい?」
「はい」
札を貼ってから、涼はその字をしばらく見ていた。
十時の開場に合わせて、大勢が押し寄せたわけではなかった。
最初に来たのは山崎で、黒い靴下の爪先に穴が開いていた。靴を脱がなくてよいと言うと、彼は「もう脱いだ」と上がり、いちばん古い駅の写真の前に立った。
「この人、助役だ。名前、思い出せないな」
山崎は額を叩き、椅子を引き寄せた。
駄菓子屋のおばあちゃんが来ると、二人で写真を覗き込んだ。覚えている名前が食い違い、涼が紙を二枚持ってきた。
「両方、書いておきましょう」
「間違いもか」
「分からないので」
山崎は渋い顔をしながら、片方の紙へ名前を書いた。
黒澤は開場と同時に現れ、入口近くの壁に、自分が持ち込んだ最後の展示板を丁寧に掛け直していた。
「今日で、これも見納めですかね」
「見納め、というより、次の場所への始まりです」
美紀がそう答えると、黒澤はわずかに驚いたように、それから満足そうに頷いた。
「そうですね。......僕も、次を考えてみようと思います」
「次、ですか」
「映画館の跡地、まだ僕の名義で残ってるんです。何も使わずに、ただ税金を払い続けてきました。......あそこを、何かに使えないか、考えてみようかと」
美紀は思わず言葉を失った。
「本当ですか」
「まだ思いつきです。でも、皆さんを見ていたら、僕も、何もしないまま終わらせたくないと思うようになりました」
黒澤はそう言うと、照れくさそうに視線を逸らした。美紀は、彼の中で何かが確かに動き出したのを感じた。
「何か、力になれることがあれば言ってください」
「ありがとうございます。......僕一人だと、また昔みたいに、黙って抱え込んでしまいそうなので」
黒澤は壁の展示板を、指先で軽く叩いた。
「今度は、ちゃんと人に話しながら、決めようと思います」
その言葉に、美紀は静かに頷いた。半年前、彼が「誰かが払うんだろう」と呟いたときの硬い表情を思い出す。今、目の前にいる黒澤は、あのときとは違う顔をしていた。
昼前、節子は夫と娘の三人で来た。
美紀は入口へ出た。今日は、無理に敷居を越えてもらわないよう、同じ写真を入れた冊子を用意してあった。節子はそれを夫の膝に載せた。
「工事、来月から?」
「はい。最初は写真館の片づけと、建物の調査の続きからです。道の切り替えは、そのあと」
「店ができるのは、まだ先だね」
「ええ」
「じゃあ、それまでの買い物は変わらないね」
美紀は頷いた。
「移動販売の停車場所を、もう少し駅に近づけられないか、商店会で相談してくださっています。決まったらお伝えします」
「決まってからでいいよ」
節子は冊子を一枚めくった。
夫はライオンの写真のところで手を止めた。新しい計画でも、公園は残らない。亀裂の大きい遊具を移すことも難しいと分かっていた。
「これ、どうなるんだったか」
「取り壊すそうです」と美紀が答えた。
「そうか」
夫は頷いたきり、しばらく動かなかった。
美紀は、絵は残ります、と言おうとしてやめた。夫の指は、絵ではなく、写真の欠けた耳に置かれていた。
「寂しいですね」
「うん」
風が冊子をめくりかけ、美紀は角を押さえた。
午後には、東京から来たという女性が涼の絵を見ていた。
合同展で一緒になる作家だという。美紀が挨拶すると、女性は「藤代さんには昔、搬入を助けてもらって」と言った。
「額を持って階段で転んだんです。私じゃなくて、この人が」
涼が困った顔で笑った。
「それ、言わなくていいでしょう」
美紀は、知らない涼の話を聞いた。東京にも、彼を待つ人や、笑ったことを覚えている人がいるのだと思った。
女性は絵を見たあと、駅前で何か食べられるかと聞いた。
「今日は食堂がお休みで」と美紀が答えた。
「あら。何か買ってくればよかった」
涼が配達先の弁当店へ電話をし、三人分頼んだ。代金はそれぞれで払った。女性は次の列車の時刻を見て「一時間、あるんだ」と驚き、椅子を借りた。
おばあちゃんが隣に座り、弁当の卵焼きを見て、昔このあたりにあった店の話を始めた。
会の終わりごろ、写真館の娘が来た。
美紀は窓枠を新しい部屋へ移せる見通しになったことを伝えた。取り外すのは工務店に頼み、建物ができるまでは市の保管場所を借りる。背丈の印のある柱は、傷みが進んでいて、そのままは運べなかった。印の部分だけ残せるか、解体の際に確かめることになっている。
「無理なら、無理で」
娘は言い、美紀も頷いた。
涼が窓の絵を渡すと、娘は包みを開きかけたまま止まった。
「いただいて、いいんですか」
「はい。そのつもりで描きました」
娘は両手で受け取った。絵と窓を何度か見比べたあと、涼へ頭を下げた。
美紀は離れた場所から見ていた。娘の顔に浮かんだものが安堵か悲しみか、決められなかった。
「ここで、一枚撮ってもらえますか」
娘が自分の携帯電話を差し出した。
美紀は受け取り、窓と彼女が入るようにかがんだ。画面の中に杭が写り込んだ。避けようと動くと、娘が言った。
「そのままで、いいです」
美紀は元の位置へ戻り、シャッターを押した。
最後の人が帰ると、六人で机を畳んだ。来場者は四十三人。今回は借り物を増やしたので、支出と募金の額はほぼ同じになった。足りなかった八百円をどうするか話し、次回の会場費と合わせて記録することにした。
「成功ってことで、いいんですかね」
健太が帳面を閉じた。
「雨が降らなかったのは、よかった」と黒澤が言った。
皆が笑った。
美紀は箱に残った写真を数えた。返すものと預かるものを分け、持ち主の連絡先を照合する。最後の一枚の裏に名前を書こうとして、ペンのインクが切れた。
佐藤さんが黙って自分のペンを差し出した。
美紀は受け取り、続きを書いた。
シャッターを下ろす前に、写真館の娘が店の奥を一人で歩いた。
皆、外で待っていた。夕方の風はまだ冷たく、涼が両手に息を吹きかけた。美紀は手袋を貸そうか迷い、やめた。
娘が出てきて、鍵を握り直した。
「閉めます」
健太と涼がシャッターを支えた。いつものところで引っかかったが、少し持ち上げると動いた。鉄の板が地面まで下り、音が商店街を短く走った。
美紀はその音を聞いた。
翌週、窓口に来た市民から、駅前の工事がうるさいと苦情があった。
美紀は時間帯と場所を聞き、担当へ伝える内容を確認した。相手は新しい計画のことを知らなかったし、知っても特に喜ばなかった。
「早く終わってくれればいいんだよ」
「ご不便をおかけします」
番号札を受け取り、次の人を呼んだ。
昼休みに涼から、写真館の窓枠が無事に外れたと連絡があった。背丈の印も、短い板として残せたという。美紀は「よかった」と返し、午後の書類をそろえた。
その週末、黒澤から美紀の携帯電話に連絡があった。
「映画館の跡地のことで、少し相談があるんです。市役所の窓口で聞くべきことか、教えてもらえますか」
「もちろんです。今度、詳しく伺います」
「急ぎません。......ただ、こういう相談ができる相手ができたことが、僕には嬉しくて」
電話越しの声は、以前よりも軽やかに聞こえた。美紀は電話を切ったあと、しばらくその余韻に浸っていた。人が何かを手放すことと、新しく始めることは、思っていたよりずっと近い場所にあるのかもしれない。
春になっても、三番ホームのベンチは剥げたままだった。山崎によると、塗り直す色を相談しているのだという。
「何色だったか、皆、違うことを言うんだ」
美紀が古い写真を見せると、山崎は「写真だって色が変わる」と言った。
結局、鉄道会社が持っている塗料の中から、近い色を選ぶことになった。美紀は涼にそれを伝えた。
「塗る前に描く?」
「塗ったあとも、描きます」
涼はそう言い、新しいページを開いた。
四月の金曜日、美紀は帰りの列車を待っていた。
公民館で開く次の集まりは、参加予定が六人だった。健太は仕事、佐藤さんは学校の用事で来られない。美紀も午前中に通院の予約があり、開始を一時間遅らせてもらった。
ベンチの隣に涼が座った。彼のバッグから、東京の合同展の案内が出ていた。
「来週、水曜からでしたよね」
「はい。土曜の夕方に戻ります。変更があったら、その時に」
美紀は頷いた。前より落ち着いて聞けたが、まったく気にならなくなったわけではない。
「展示、見に行きたいな」
「来てくれますか」
「休みが取れたら。取れなくても、写真を送って」
涼は案内を一枚抜き、美紀に渡した。
美紀はそれをバッグへ入れ、自分のノートを取り出した。最初のページには、まだ「確認すること」と書いてある。その下に、何本もの取り消し線と、消えていない問いが残っていた。
新しいページを開き、次回の持ち物を書いた。写真の缶、名札、延長コード。ペンは二本。
書き終えると、涼が小さな包みを差し出した。ハッカ飴だった。
「おばあちゃんが。二つ持っていけって」
美紀は包みを開いた。飴はかすかに湿って、紙にくっついていた。爪で端を剥がして口に入れる。
「この前の写真、母だったの」
「駅の、集合写真ですか」
「うん。あの日、祖母と喧嘩して、早く町を出たかったんだって」
涼が写真を思い出そうとする顔をした。
「笑っていましたよね」
「写真だから、笑ったって」
二人で笑った。
向かいのホームに、一人の女性が大きな鞄を置いた。何度も時計を見ている。迎えを待っているのか、出発するところなのか、美紀には分からなかった。
列車の近づく音がした。
「今日、何を食べるんですか」
涼に聞かれ、美紀は母からの短いメッセージを思い出した。
「昨日の煮物。それと、魚を焼くって」
「いいですね」
「涼さんは」
「帰ってから考えます」
美紀は立ち上がり、肩にバッグを掛けた。
「今度、食べに来る?」
涼は顔を上げた。
「行きたいです」
涼はしばらく黙っていた。それから、いつもより低い声で言った。
「......美紀」
初めて、「さん」のない名前を呼ばれた。
「来年も、この駅で、こうしていると思います。......絵を描きながら」
多くを語る言葉ではなかった。けれど、それで十分だった。半年前、この同じベンチで拾った一冊のスケッチブックから、ここまでの道のりが始まったのだと、美紀は改めて思った。
「うん」
美紀は短く答えた。それ以上、何も付け加えなかった。
「じゃあ、母に聞いておく。煮物の日かもしれないけど」
扉が開いた。美紀が乗ると、涼はベンチの上に残っていた飴の包み紙を拾い、手の中で小さく丸めた。
窓越しに手を振った。涼も振り返し、それからもう一度、スケッチブックを開いた。
美紀は空いている席に座り、母へ、いつもの時間に帰ると送った。
川を渡るころ、返事が来た。
『大根おろし、お願い』
美紀は「了解」と打ち、携帯電話をバッグにしまった。
窓の外を、四月の光が流れていった。




