4話
第四話 白い封筒は、家の中にも届いていた
姉からの手紙を読んだあと、私はしばらく動けなかった。
机の上には、四通の白い封筒が並んでいる。
婚約を断りたい令嬢。
働きたいと笑われた令嬢。
家に帰りたくない誰か。
そして、完璧な姉でいることに疲れたカミラ。
遠くの誰かの苦しさなら、私はまだ言葉にできた。
けれど、姉の手紙だけは違った。
胸の奥が、ざらりとした。
かわいそう、とはすぐに思えなかった。
だって姉は、私に手紙を書かせてきた。私が夜遅くまで机に向かっていても、助けてくれたことはなかった。舞踏会で余った菓子をくれたことはあっても、私を一緒に連れていくことはなかった。
私が机の前にいるのを、姉も当たり前にしていた。
それなのに。
あなたが羨ましかった。
その一文を読んだ時、少しだけ腹が立った。
私は羨ましがられるような場所にいたのだろうか。
姉の名前で礼状を書き、妹の失敗を先生に伝え、継母の代わりに断り状を書いていた私が。
机の前にいればいい。
その言葉は、姉の苦しさから出たものだと分かっている。
でも、苦しかったからといって、私の苦しさが軽くなるわけではない。
私は便せんを出した。
けれど、何も書けなかった。
誰かへの返事なら、言葉は出る。相手がどう言えば息をしやすくなるか、どう書けば追い詰められずに済むか、少しは分かる。
でも、姉に向ける言葉は難しかった。
許したふりはしたくない。
責めるだけにもしたくない。
でも、何もなかったことには、もっとしたくない。
私は羽根ペンを置いた。
その時、扉が小さく叩かれた。
「ノエラ」
姉の声だった。
私は返事をするまでに、少し時間がかかった。
「どうぞ」
扉が開き、カミラが入ってきた。
夜着ではなく、まだ昼間のドレスを着ている。髪もきれいに結われたままだった。いつもの姉なら、どんな時でも花のように見えた。
でも今夜の姉は、花瓶に飾られた花のようだった。
きれいで、逃げられない場所に置かれている。
「読んだのね」
「はい」
「気持ち悪かった?」
思わぬ言葉に、私は顔を上げた。
カミラは笑おうとして、失敗したような顔をしていた。
「急に姉らしいふりをして、被害者みたいな手紙を出して。気持ち悪いと思ったでしょう」
「……少し、腹が立ちました」
口にした瞬間、カミラの顔がこわばった。
けれど私は、言葉を引っ込めなかった。
「姉様が苦しかったことは、分かります。けれど、私は机の前にいれば楽だったわけではありません」
カミラは唇を噛んだ。
「そうよね」
「私に書かせていた手紙の中には、姉様が自分で書けるものもあったはずです」
「ええ」
「私は、姉様の代わりに生きていたわけではありません」
言ってから、怖くなった。
こんなふうに姉に言葉を返したことは、一度もなかった。
でも、カミラは怒らなかった。
ただ、静かにうなずいた。
「ごめんなさい」
その一言が、あまりにまっすぐで、私は目をそらしたくなった。
許す準備ができていない相手から謝られると、人は困るのだと初めて知った。
「私、あなたに甘えていたの」
カミラは私の机の前に立ったまま、手を握った。
「字が下手なの。本当に、ひどいのよ。小さい頃に先生から笑われて、それから人前で書くのが怖くなった。でも長女なのに、そんなこと言えなかった」
姉の声は小さかった。
「お母様は、カミラは顔を上げて笑っていればいいと言ったわ。手紙はノエラが書くからって。最初は楽だと思った。だって、私は笑っているだけでよかったから」
そこで姉は、苦しそうに息を吸った。
「でも、笑っているだけの人間にも、役目はあるのね」
私は黙って聞いていた。
「誰と踊るか。誰に微笑むか。誰の誘いを断らないか。家のためになる相手に、きれいに見えること。傷ついても、恥をかいても、何も分かっていないふりをすること」
カミラは私を見た。
「あなたは机の前に閉じ込められていた。私は笑顔の中に閉じ込められていた。そんなことにも気づかずに、私はあなたを羨ましがっていた」
私は、胸の奥が少し痛くなった。
姉をすぐ許せるわけではない。
でも、姉もまた、誰かが作ったきれいな箱の中にいたのだと分かった。
「姉様」
「なに?」
「私は、まだ怒っています」
「うん」
「でも、姉様の話は聞きます」
カミラの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう」
私は首を横に振った。
「ありがとうではなく、これからは自分で書いてください」
カミラは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「ひどい字でも?」
「ひどい字でも」
「笑わない?」
「笑いません。少なくとも、人を傷つける笑い方はしません」
カミラはこぼれそうになった涙を指で押さえた。
「ノエラは、強くなったのね」
「強くなったわけではありません」
私は机の上の白い封筒を見た。
「ただ、黙っているのが少し難しくなっただけです」
その夜、私と姉は初めて並んで机に座った。
カミラは自分の手で、短い返事を書いた。
字は、たしかに上手ではなかった。まっすぐな線が少し曲がり、文字の大きさもそろっていない。
でも、それはカミラの字だった。
私は赤を入れない。ただ、読みやすい並べ方だけを教えた。
人に読ませるために少し整えることと、人の言葉を奪うことは違う。
その違いを、私はやっと少しだけ分かり始めていた。
翌日から、白い封筒は増えた。
初めは三通、次の日は五通、その次は九通。
届く場所もばらばらだった。門番に渡されたもの。市場の花屋から回ってきたもの。ロザリア様の侍女が持ってきたもの。メイベル様の知り合いから届いたもの。
私は全部に返事を書こうとして、すぐに無理だと分かった。
どの手紙にも、重さがあった。
婚約を断りたい。
親が決めた相手が怖い。
働きたい。
学びたい。
夫に話を聞いてほしい。
姉妹と比べられるのがつらい。
笑っているのに、毎日息が苦しい。
読んでいるだけで、胸がいっぱいになる。
私一人では、受け止めきれない。
そう思った時、ロザリア様が訪ねてきた。
彼女は以前より少しだけ簡素なドレスを着ていた。色は淡い紫。きっと、自分で選んだ色なのだろう。
「ノエラ様。私にも手伝わせてください」
「ロザリア様に?」
「はい。私は、婚約を延期する手続きを調べてきました」
そう言って、彼女は数枚の紙を出した。
驚くほど細かく書かれていた。必要な証人、家同士の話し合い、教会への届け出、延期と破棄の違い。
ロザリア様は少し照れたように笑う。
「今までこういうことは、全部人に任せていました。でも、自分のことですもの。自分で知りたいと思って」
その言葉がうれしかった。
彼女は助けられるだけの人ではなくなっていた。
午後には、メイベル様も来た。
彼女は大きな布袋を持っていた。中には、家の仕事を書き出すための用紙がたくさん入っている。
「夫に出したの。業務報告」
「どうなりましたか」
「最初は怒ったわ」
メイベル様は明るく言った。
「でも、私が三日だけ何もしなかったら、親戚から苦情が来て、義母様の茶会で菓子が足りなくて、夫は大事な返事を忘れたの」
ロザリア様が口元を押さえた。
「それで?」
「夫は、四日目に謝りました。小さな声で」
メイベル様はにっこり笑う。
「まだ許してはいないけれど、話し合いは始めました」
その言葉に、私はほっとした。
すべてが一度で解決するわけではない。
でも、話し合いが始まることは、大きな一歩だ。
その日の夕方、私たちは私の部屋に集まった。
ノエラ。
カミラ。
ロザリア様。
メイベル様。
身分も年も違う四人が、小さな机を囲んでいる。
机の上には、白い封筒が山のように積まれていた。
「一通ずつ返すだけでは、追いつきません」
私は言った。
「それに、同じ悩みが何度も出てきます。婚約を断れないこと。女が働くことを笑われること。家の中の仕事が見えないこと」
「つまり、これは一人ずつの問題ではないのね」
ロザリア様が言う。
「はい」
私はうなずいた。
「みんなが別々に苦しんでいるように見えて、根はつながっているのだと思います」
メイベル様が紙を一枚引き寄せる。
「だったら、一通ずつ返事を書くより、まとめて出すべきね」
「どこへですか」
カミラが不安そうに聞く。
「王宮よ」
メイベル様は当たり前のように言った。
私は息をのんだ。
王宮。
また、その遠い言葉が出てきた。
「王宮へ願書を出すのですか」
「ええ。アデル様にも相談できるでしょう?」
「でも、私は……」
言いかけて、止まった。
私は何と言おうとしたのだろう。
庶子だから。
若いから。
家に迷惑がかかるから。
そんな大きなことはできないから。
どれも、今まで私を机の前に座らせてきた言葉だった。
ロザリア様が静かに言った。
「ノエラ様。あなた一人の願いではありません」
彼女は白い封筒に手を置く。
「私たちの願いです」
私たち。
その言葉に、胸が熱くなる。
一人で立つのは怖い。
でも、一人ではないと思えるだけで、足元は少し変わる。
私たちは連名の願書を書き始めた。
内容は三つ。
一つ。婚約を断る、または延期する手続きを、女性本人からも申し出られるようにすること。
二つ。貴族女性が、王宮や領地で文書官、会計補佐、社交記録係として働ける道を作ること。
三つ。家の中で行われている管理や調整の仕事を、正式な功績として記録できるようにすること。
難しい言葉はできるだけ避けた。
ただの理想に見えないよう、実際に困っていることと、それを変えた時の利点も書いた。
婚約の延期が正式にできれば、家同士のもめごとを減らせる。
女性の文書官を育てれば、王宮の仕事も回りやすくなる。
家の中の仕事を記録すれば、跡継ぎや使用人にも引き継ぎやすくなる。
泣き言ではない。
これは、仕組みの話だ。
そう書きながら、私は不思議な気持ちになった。
誰かの苦しさを、ただ苦しさのまま置かない。
形を変えれば、前に進むための道になる。
それが、私の書けるものなのかもしれない。
けれど、願書が半分ほどできたところで、扉が大きく開いた。
「何をしている」
お父様だった。
後ろには継母のマルグリット様がいる。顔色が悪い。
私たちは立ち上がった。
机の上には、白い封筒と書きかけの願書。隠しようがなかった。
お父様はそれを見て、顔を赤くした。
「ノエラ。これは何だ」
「王宮へ出す願書です」
「誰の許しを得て」
声が鋭くなる。
私は息を吸った。
「許しは、まだ得ていません」
「ならば今すぐやめなさい」
お父様は机の上の紙をつかもうとした。
その時、ロザリア様が前に出た。
「ヴィンター伯爵。この願書には、私の名も入ります」
メイベル様も続いた。
「私の名もです」
カミラは震えていた。けれど、彼女も一歩前に出た。
「私の名も、入れてください」
お父様が信じられないという顔で姉を見た。
「カミラまで何を言っている」
「お父様」
カミラの声は細かった。けれど、逃げなかった。
「私は、完璧な娘ではありません。手紙も、いつもノエラに書かせていました。人前で笑うことも、婚約の話を黙って聞くことも、ずっと怖かった」
「それは家のためだ」
「はい。家のためだと言われれば、私は何も言えませんでした」
カミラは目を伏せた。
「でも、何も言えない娘でいることが、本当に家のためになるのか、分からなくなりました」
お父様の顔がゆがむ。
「お前たちは、誰に何を吹き込まれた」
その言葉に、私は胸が冷えた。
まただ。
女が自分の言葉を持つと、誰かに吹き込まれたことにされる。
ロザリア様が静かに言った。
「誰かに吹き込まれたのではありません。ようやく、自分で考えただけです」
「ロザリア嬢、あなたは侯爵家の令嬢だ。軽はずみなことをしてはならない」
「はい。ですから、軽はずみにならないよう、紙に書いております」
メイベル様が続ける。
「怒鳴りに来たわけではありません。手続きを求めているのです」
お父様は、私をにらんだ。
「ノエラ。お前はしばらく王都を離れなさい」
部屋が凍った。
継母は目を伏せた。止めるつもりはないらしい。
「遠い親戚の屋敷で、少し落ち着くといい。手紙の件も、王宮の件も、これ以上関わるな」
王都を離れる。
つまり、すべて取り上げられるということだった。
白い封筒も、ロザリア様たちとのつながりも、自分の名前で書き始めた言葉も。
私は何か言わなければと思った。
でも、声が出なかった。
怖い。
やっぱり私は、家の中では小さな娘でしかない。父の一言で、どこへでも送られてしまう。
その時、机の上の白い封筒が一通、床に落ちた。
拾ったのはカミラだった。
彼女は震える手で封筒をお父様に差し出した。
「お父様。これを読んでください」
「今はそんなものを」
「読んでください」
カミラが、初めて強く言った。
お父様は驚いた顔をした。
それでも封筒を受け取り、中の便せんを開く。
そこには、カミラの字で書かれていた。
私は、家のために笑うことを教えられました。
それを全部否定したいわけではありません。
けれど、笑っているから苦しくないのだと思わないでください。
私の代わりに手紙を書いていたノエラも、きっと同じです。
机の前にいるから楽なのではありません。
笑っているから幸せなのではありません。
お父様。
私たちを、家の飾りではなく、家の中で生きている人間として見てください。
お父様は読み終えても、しばらく何も言わなかった。
それで心が変わったのかは分からない。
けれど、怒鳴ることはできなくなったようだった。
静かな時間が落ちる。
その沈黙を破ったのは、廊下からの声だった。
「失礼いたします」
執事が扉の前に立っていた。
その後ろに、王宮の紋章をつけた使者がいる。
全員が息をのんだ。
使者は部屋に入り、深く礼をした。
「王妃エルヴィラ陛下より、ノエラ・ヴィンター様へお召し状でございます」
私の名前が、部屋に響いた。
今度は、父の声ではない。
家の誰かの用事でもない。
王宮から、私の名前が呼ばれていた。
使者は封筒を差し出した。
白ではない。
王妃の印が押された、深い青の封筒。
私は両手で受け取った。指先は震えていたけれど、落とさなかった。
封を開くと、短い文があった。
ノエラ・ヴィンター。
あなたの書いた言葉について、直接話を聞きたい。
明朝、王宮へ来るように。
私は読み終えて、顔を上げた。
お父様は青ざめていた。継母は何も言えない。カミラは私を見て、泣きそうに笑っている。ロザリア様とメイベル様は、静かにうなずいた。
私は、青い封筒を胸に抱いた。
怖い。
王宮なんて、私には遠すぎる。
けれど、もう机の前だけには戻れない。
白い封筒は、助けを求めるために届いた。
青い封筒は、私自身が前へ出るために届いた。
私は初めて、お父様の前でまっすぐ立った。
「お父様」
声はまだ少し震えていた。
「私は、王宮へ参ります」
誰かの名前ではなく。
誰かの影でもなく。
ノエラ・ヴィンターとして。




