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白い封筒の庶子令嬢  作者: 七七街


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4/5

4話

第四話 白い封筒は、家の中にも届いていた


 姉からの手紙を読んだあと、私はしばらく動けなかった。


 机の上には、四通の白い封筒が並んでいる。


 婚約を断りたい令嬢。

 働きたいと笑われた令嬢。

 家に帰りたくない誰か。

 そして、完璧な姉でいることに疲れたカミラ。


 遠くの誰かの苦しさなら、私はまだ言葉にできた。


 けれど、姉の手紙だけは違った。


 胸の奥が、ざらりとした。


 かわいそう、とはすぐに思えなかった。


 だって姉は、私に手紙を書かせてきた。私が夜遅くまで机に向かっていても、助けてくれたことはなかった。舞踏会で余った菓子をくれたことはあっても、私を一緒に連れていくことはなかった。


 私が机の前にいるのを、姉も当たり前にしていた。


 それなのに。


 あなたが羨ましかった。


 その一文を読んだ時、少しだけ腹が立った。


 私は羨ましがられるような場所にいたのだろうか。


 姉の名前で礼状を書き、妹の失敗を先生に伝え、継母の代わりに断り状を書いていた私が。


 机の前にいればいい。


 その言葉は、姉の苦しさから出たものだと分かっている。

 でも、苦しかったからといって、私の苦しさが軽くなるわけではない。


 私は便せんを出した。


 けれど、何も書けなかった。


 誰かへの返事なら、言葉は出る。相手がどう言えば息をしやすくなるか、どう書けば追い詰められずに済むか、少しは分かる。


 でも、姉に向ける言葉は難しかった。


 許したふりはしたくない。

 責めるだけにもしたくない。

 でも、何もなかったことには、もっとしたくない。


 私は羽根ペンを置いた。


 その時、扉が小さく叩かれた。


「ノエラ」


 姉の声だった。


 私は返事をするまでに、少し時間がかかった。


「どうぞ」


 扉が開き、カミラが入ってきた。


 夜着ではなく、まだ昼間のドレスを着ている。髪もきれいに結われたままだった。いつもの姉なら、どんな時でも花のように見えた。


 でも今夜の姉は、花瓶に飾られた花のようだった。


 きれいで、逃げられない場所に置かれている。


「読んだのね」


「はい」


「気持ち悪かった?」


 思わぬ言葉に、私は顔を上げた。


 カミラは笑おうとして、失敗したような顔をしていた。


「急に姉らしいふりをして、被害者みたいな手紙を出して。気持ち悪いと思ったでしょう」


「……少し、腹が立ちました」


 口にした瞬間、カミラの顔がこわばった。


 けれど私は、言葉を引っ込めなかった。


「姉様が苦しかったことは、分かります。けれど、私は机の前にいれば楽だったわけではありません」


 カミラは唇を噛んだ。


「そうよね」


「私に書かせていた手紙の中には、姉様が自分で書けるものもあったはずです」


「ええ」


「私は、姉様の代わりに生きていたわけではありません」


 言ってから、怖くなった。


 こんなふうに姉に言葉を返したことは、一度もなかった。


 でも、カミラは怒らなかった。


 ただ、静かにうなずいた。


「ごめんなさい」


 その一言が、あまりにまっすぐで、私は目をそらしたくなった。


 許す準備ができていない相手から謝られると、人は困るのだと初めて知った。


「私、あなたに甘えていたの」


 カミラは私の机の前に立ったまま、手を握った。


「字が下手なの。本当に、ひどいのよ。小さい頃に先生から笑われて、それから人前で書くのが怖くなった。でも長女なのに、そんなこと言えなかった」


 姉の声は小さかった。


「お母様は、カミラは顔を上げて笑っていればいいと言ったわ。手紙はノエラが書くからって。最初は楽だと思った。だって、私は笑っているだけでよかったから」


 そこで姉は、苦しそうに息を吸った。


「でも、笑っているだけの人間にも、役目はあるのね」


 私は黙って聞いていた。


「誰と踊るか。誰に微笑むか。誰の誘いを断らないか。家のためになる相手に、きれいに見えること。傷ついても、恥をかいても、何も分かっていないふりをすること」


 カミラは私を見た。


「あなたは机の前に閉じ込められていた。私は笑顔の中に閉じ込められていた。そんなことにも気づかずに、私はあなたを羨ましがっていた」


 私は、胸の奥が少し痛くなった。


 姉をすぐ許せるわけではない。


 でも、姉もまた、誰かが作ったきれいな箱の中にいたのだと分かった。


「姉様」


「なに?」


「私は、まだ怒っています」


「うん」


「でも、姉様の話は聞きます」


 カミラの目に、涙が浮かんだ。


「ありがとう」


 私は首を横に振った。


「ありがとうではなく、これからは自分で書いてください」


 カミラは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「ひどい字でも?」


「ひどい字でも」


「笑わない?」


「笑いません。少なくとも、人を傷つける笑い方はしません」


 カミラはこぼれそうになった涙を指で押さえた。


「ノエラは、強くなったのね」


「強くなったわけではありません」


 私は机の上の白い封筒を見た。


「ただ、黙っているのが少し難しくなっただけです」


 その夜、私と姉は初めて並んで机に座った。


 カミラは自分の手で、短い返事を書いた。


 字は、たしかに上手ではなかった。まっすぐな線が少し曲がり、文字の大きさもそろっていない。


 でも、それはカミラの字だった。


 私は赤を入れない。ただ、読みやすい並べ方だけを教えた。


 人に読ませるために少し整えることと、人の言葉を奪うことは違う。


 その違いを、私はやっと少しだけ分かり始めていた。


 翌日から、白い封筒は増えた。


 初めは三通、次の日は五通、その次は九通。


 届く場所もばらばらだった。門番に渡されたもの。市場の花屋から回ってきたもの。ロザリア様の侍女が持ってきたもの。メイベル様の知り合いから届いたもの。


 私は全部に返事を書こうとして、すぐに無理だと分かった。


 どの手紙にも、重さがあった。


 婚約を断りたい。

 親が決めた相手が怖い。

 働きたい。

 学びたい。

 夫に話を聞いてほしい。

 姉妹と比べられるのがつらい。

 笑っているのに、毎日息が苦しい。


 読んでいるだけで、胸がいっぱいになる。


 私一人では、受け止めきれない。


 そう思った時、ロザリア様が訪ねてきた。


 彼女は以前より少しだけ簡素なドレスを着ていた。色は淡い紫。きっと、自分で選んだ色なのだろう。


「ノエラ様。私にも手伝わせてください」


「ロザリア様に?」


「はい。私は、婚約を延期する手続きを調べてきました」


 そう言って、彼女は数枚の紙を出した。


 驚くほど細かく書かれていた。必要な証人、家同士の話し合い、教会への届け出、延期と破棄の違い。


 ロザリア様は少し照れたように笑う。


「今までこういうことは、全部人に任せていました。でも、自分のことですもの。自分で知りたいと思って」


 その言葉がうれしかった。


 彼女は助けられるだけの人ではなくなっていた。


 午後には、メイベル様も来た。


 彼女は大きな布袋を持っていた。中には、家の仕事を書き出すための用紙がたくさん入っている。


「夫に出したの。業務報告」


「どうなりましたか」


「最初は怒ったわ」


 メイベル様は明るく言った。


「でも、私が三日だけ何もしなかったら、親戚から苦情が来て、義母様の茶会で菓子が足りなくて、夫は大事な返事を忘れたの」


 ロザリア様が口元を押さえた。


「それで?」


「夫は、四日目に謝りました。小さな声で」


 メイベル様はにっこり笑う。


「まだ許してはいないけれど、話し合いは始めました」


 その言葉に、私はほっとした。


 すべてが一度で解決するわけではない。

 でも、話し合いが始まることは、大きな一歩だ。


 その日の夕方、私たちは私の部屋に集まった。


 ノエラ。

 カミラ。

 ロザリア様。

 メイベル様。


 身分も年も違う四人が、小さな机を囲んでいる。


 机の上には、白い封筒が山のように積まれていた。


「一通ずつ返すだけでは、追いつきません」


 私は言った。


「それに、同じ悩みが何度も出てきます。婚約を断れないこと。女が働くことを笑われること。家の中の仕事が見えないこと」


「つまり、これは一人ずつの問題ではないのね」


 ロザリア様が言う。


「はい」


 私はうなずいた。


「みんなが別々に苦しんでいるように見えて、根はつながっているのだと思います」


 メイベル様が紙を一枚引き寄せる。


「だったら、一通ずつ返事を書くより、まとめて出すべきね」


「どこへですか」


 カミラが不安そうに聞く。


「王宮よ」


 メイベル様は当たり前のように言った。


 私は息をのんだ。


 王宮。


 また、その遠い言葉が出てきた。


「王宮へ願書を出すのですか」


「ええ。アデル様にも相談できるでしょう?」


「でも、私は……」


 言いかけて、止まった。


 私は何と言おうとしたのだろう。


 庶子だから。

 若いから。

 家に迷惑がかかるから。

 そんな大きなことはできないから。


 どれも、今まで私を机の前に座らせてきた言葉だった。


 ロザリア様が静かに言った。


「ノエラ様。あなた一人の願いではありません」


 彼女は白い封筒に手を置く。


「私たちの願いです」


 私たち。


 その言葉に、胸が熱くなる。


 一人で立つのは怖い。

 でも、一人ではないと思えるだけで、足元は少し変わる。


 私たちは連名の願書を書き始めた。


 内容は三つ。


 一つ。婚約を断る、または延期する手続きを、女性本人からも申し出られるようにすること。


 二つ。貴族女性が、王宮や領地で文書官、会計補佐、社交記録係として働ける道を作ること。


 三つ。家の中で行われている管理や調整の仕事を、正式な功績として記録できるようにすること。


 難しい言葉はできるだけ避けた。


 ただの理想に見えないよう、実際に困っていることと、それを変えた時の利点も書いた。


 婚約の延期が正式にできれば、家同士のもめごとを減らせる。

 女性の文書官を育てれば、王宮の仕事も回りやすくなる。

 家の中の仕事を記録すれば、跡継ぎや使用人にも引き継ぎやすくなる。


 泣き言ではない。


 これは、仕組みの話だ。


 そう書きながら、私は不思議な気持ちになった。


 誰かの苦しさを、ただ苦しさのまま置かない。

 形を変えれば、前に進むための道になる。


 それが、私の書けるものなのかもしれない。


 けれど、願書が半分ほどできたところで、扉が大きく開いた。


「何をしている」


 お父様だった。


 後ろには継母のマルグリット様がいる。顔色が悪い。


 私たちは立ち上がった。


 机の上には、白い封筒と書きかけの願書。隠しようがなかった。


 お父様はそれを見て、顔を赤くした。


「ノエラ。これは何だ」


「王宮へ出す願書です」


「誰の許しを得て」


 声が鋭くなる。


 私は息を吸った。


「許しは、まだ得ていません」


「ならば今すぐやめなさい」


 お父様は机の上の紙をつかもうとした。


 その時、ロザリア様が前に出た。


「ヴィンター伯爵。この願書には、私の名も入ります」


 メイベル様も続いた。


「私の名もです」


 カミラは震えていた。けれど、彼女も一歩前に出た。


「私の名も、入れてください」


 お父様が信じられないという顔で姉を見た。


「カミラまで何を言っている」


「お父様」


 カミラの声は細かった。けれど、逃げなかった。


「私は、完璧な娘ではありません。手紙も、いつもノエラに書かせていました。人前で笑うことも、婚約の話を黙って聞くことも、ずっと怖かった」


「それは家のためだ」


「はい。家のためだと言われれば、私は何も言えませんでした」


 カミラは目を伏せた。


「でも、何も言えない娘でいることが、本当に家のためになるのか、分からなくなりました」


 お父様の顔がゆがむ。


「お前たちは、誰に何を吹き込まれた」


 その言葉に、私は胸が冷えた。


 まただ。


 女が自分の言葉を持つと、誰かに吹き込まれたことにされる。


 ロザリア様が静かに言った。


「誰かに吹き込まれたのではありません。ようやく、自分で考えただけです」


「ロザリア嬢、あなたは侯爵家の令嬢だ。軽はずみなことをしてはならない」


「はい。ですから、軽はずみにならないよう、紙に書いております」


 メイベル様が続ける。


「怒鳴りに来たわけではありません。手続きを求めているのです」


 お父様は、私をにらんだ。


「ノエラ。お前はしばらく王都を離れなさい」


 部屋が凍った。


 継母は目を伏せた。止めるつもりはないらしい。


「遠い親戚の屋敷で、少し落ち着くといい。手紙の件も、王宮の件も、これ以上関わるな」


 王都を離れる。


 つまり、すべて取り上げられるということだった。


 白い封筒も、ロザリア様たちとのつながりも、自分の名前で書き始めた言葉も。


 私は何か言わなければと思った。


 でも、声が出なかった。


 怖い。


 やっぱり私は、家の中では小さな娘でしかない。父の一言で、どこへでも送られてしまう。


 その時、机の上の白い封筒が一通、床に落ちた。


 拾ったのはカミラだった。


 彼女は震える手で封筒をお父様に差し出した。


「お父様。これを読んでください」


「今はそんなものを」


「読んでください」


 カミラが、初めて強く言った。


 お父様は驚いた顔をした。


 それでも封筒を受け取り、中の便せんを開く。


 そこには、カミラの字で書かれていた。


 私は、家のために笑うことを教えられました。

 それを全部否定したいわけではありません。

 けれど、笑っているから苦しくないのだと思わないでください。


 私の代わりに手紙を書いていたノエラも、きっと同じです。

 机の前にいるから楽なのではありません。

 笑っているから幸せなのではありません。


 お父様。

 私たちを、家の飾りではなく、家の中で生きている人間として見てください。


 お父様は読み終えても、しばらく何も言わなかった。


 それで心が変わったのかは分からない。


 けれど、怒鳴ることはできなくなったようだった。


 静かな時間が落ちる。


 その沈黙を破ったのは、廊下からの声だった。


「失礼いたします」


 執事が扉の前に立っていた。


 その後ろに、王宮の紋章をつけた使者がいる。


 全員が息をのんだ。


 使者は部屋に入り、深く礼をした。


「王妃エルヴィラ陛下より、ノエラ・ヴィンター様へお召し状でございます」


 私の名前が、部屋に響いた。


 今度は、父の声ではない。

 家の誰かの用事でもない。

 王宮から、私の名前が呼ばれていた。


 使者は封筒を差し出した。


 白ではない。


 王妃の印が押された、深い青の封筒。


 私は両手で受け取った。指先は震えていたけれど、落とさなかった。


 封を開くと、短い文があった。


 ノエラ・ヴィンター。

 あなたの書いた言葉について、直接話を聞きたい。

 明朝、王宮へ来るように。


 私は読み終えて、顔を上げた。


 お父様は青ざめていた。継母は何も言えない。カミラは私を見て、泣きそうに笑っている。ロザリア様とメイベル様は、静かにうなずいた。


 私は、青い封筒を胸に抱いた。


 怖い。


 王宮なんて、私には遠すぎる。


 けれど、もう机の前だけには戻れない。


 白い封筒は、助けを求めるために届いた。


 青い封筒は、私自身が前へ出るために届いた。


 私は初めて、お父様の前でまっすぐ立った。


「お父様」


 声はまだ少し震えていた。


「私は、王宮へ参ります」


 誰かの名前ではなく。


 誰かの影でもなく。


 ノエラ・ヴィンターとして。

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