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白い封筒の庶子令嬢  作者: 七七街


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3/5

3話

第三話 女の仕事は、仕事と呼ばれない


 次の朝、私はいつもより早く目が覚めた。


 何かいいことがあったからではない。胸の中に、小さな石を入れられたような重さがあったからだ。


 昨夜のことを思い出す。


 ロザリア様の白い顔。

 グレイル様の冷たい目。

 お父様の低い声。

 そして、私の名前を呼んだ名刺。


 アデル・クライン。

 王宮会計官。


 引き出しの中に入れたその名刺が、机の奥で息をしているような気がした。


 私は寝台から起き上がり、顔を洗った。鏡の中の私は、いつもと同じだった。姉のように華やかでもなく、妹のように可愛らしくもない。薄い茶色の髪をひとつにまとめた、ただの庶子令嬢。


 けれど、昨日の私は、広間で自分の名前を言った。


 たったそれだけのことなのに、まだ少し怖い。


 食堂に下りると、空気は冷えていた。


 お父様はすでに席に着いていた。継母のマルグリット様は、紅茶のカップを手にしたまま、私を見ない。妹のルーシェは、いつもより静かにパンを小さくちぎっている。


 姉のカミラだけが、私を見ると少しだけ目を伏せた。


「ノエラ」


 お父様が言った。


「はい」


「昨夜のことだが」


 来た。


 私は膝の上で手を重ねた。叱られる時は、手元を動かさない方がいい。余計に目立たない。前世でも、この家でも、そうやって身につけた癖だった。


「お前が悪意を持ってしたことではないのは分かっている」


 意外な言葉に、少しだけ顔を上げた。


 けれど、次の言葉ですぐに分かった。これは許しではない。


「だが、貴族の婚約に外から口を出すのは危うい。まして、お前の立場であればなおさらだ」


 お前の立場。


 その言葉は、いつも私の足元に線を引く。


 ここから出てはいけない。

 ここより前に立ってはいけない。

 ここで息をしていなさい。


「申し訳ございません」


「今後、差出人の分からない手紙には返事をするな。何か届いたら、私かマルグリットに見せなさい」


「はい」


 答えたあと、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 もし、また白い封筒が届いたら。

 もし、また誰かが助けてと書いていたら。


 それでも、見せなければいけないのだろうか。


 継母がようやく口を開いた。


「ノエラ。あなたは字がきれいで、気の回る子です。それはよいことよ。でも、分を越えてはだめ」


「はい、奥様」


「人の気持ちを勝手に分かった気になるのも、優しさとは限りませんからね」


 その言葉には、とげがあった。


 私はうなずく。


 たしかに、そうかもしれない。


 私はロザリア様の全部を知っているわけではない。相手の苦しさを、すべて分かるなんて言えない。


 でも、昨日の彼女は、自分の言葉で立っていた。

 少なくとも、それだけは本当だった。


「ノエラお姉様」


 食事が終わる頃、ルーシェが小さな声で言った。


「昨日のロザリア様、少し怖かったけれど、きれいだったわ」


 継母がルーシェをたしなめるように見た。


 でも、ルーシェは続けた。


「泣きそうだったのに、ちゃんと言っていたもの」


 私は返事に困った。


 ルーシェはきっと、深い意味で言ったわけではない。それでも、その言葉は少しだけうれしかった。


「そうね」


 私は静かに答えた。


「とても、きれいだったわ」


 その時、執事が食堂に入ってきた。


「旦那様。王宮より、お使いの方が」


 お父様の顔が変わった。


 継母もカップを置く。カミラが、ほんの少し背筋を伸ばした。


「王宮だと?」


「はい。アデル・クライン様より、ノエラ様にお話があるとのことです」


 食堂の空気が、また変わった。


 昨夜より、もっとはっきりと。


 私に。

 王宮から。


 お父様は、しばらく何も言わなかった。それから、ゆっくり私を見る。


「ノエラ。お前は何をした」


 私は首を横に振った。


「分かりません」


 本当に、分からなかった。


 私はただ、手紙を書いただけだ。


 けれど、それがもう「ただ」では済まない場所まで届いてしまったのだと、その時初めて思った。


 アデル・クライン様は、王宮の人らしく、静かな身なりをしていた。


 派手な飾りはない。深い灰色の上着に、よく磨かれた靴。年は二十代の後半くらいだろうか。顔立ちは整っているが、やわらかいというより、ものを正しく測る人の目をしていた。


 応接室でお父様が向かいに座り、私は少し下がった席に座らされた。


「突然の訪問をお許しください、ヴィンター伯爵」


 アデル様は丁寧に頭を下げた。


「昨夜の件で、ノエラ嬢に確認したいことがありました」


 お父様の顔がかたくなる。


「娘が何か失礼を?」


「いいえ」


 アデル様はすぐに否定した。


「むしろ、私には興味深いことでした」


 興味深い。


 怒られるよりも、少し怖い言葉だった。


 アデル様は革の鞄から数枚の紙を出した。私の方へ向ける。


「ノエラ嬢。あなたはこの文をどう思いますか」


 私は紙を受け取った。


 そこには、整っているとは言いにくい字が並んでいた。急いで書いたのか、ところどころ線が太くなっている。けれど、内容はよく分かった。


 昨年の秋から今年の春まで、私が家のために行ったこと。


 一、領地から届いた苦情の返事。二十七通。

 二、親戚への季節の贈り物の手配。四十三件。

 三、使用人の入れ替えと面談。十一名。

 四、夫の不在時の支払い確認。月に三回。

 五、義母様の茶会の準備。八回。

 六、夫が口約束した寄付の確認と断り状。五件。

 七、子どもの家庭教師との連絡。週に二回。

 八、夫の失言へのおわび。数えきれません。


 最後の一文で、思わず目が止まった。


 数えきれません。


 そこだけ、字が少し乱れている。


 私は続きを読んだ。


 これらは、家の仕事ではないのでしょうか。

 私がしていることは、何もしていないことなのでしょうか。

 夫は、妻は家で楽をしていると言います。

 では、私が明日から何もしなければ、この家は本当に困らないのでしょうか。


 胸が、静かに痛んだ。


 誰かが忘れたことを、忘れずにいる。

 誰かがこぼした言葉を、角が立たないように整える。

 誰かが怒られないように、先に謝っておく。


 それは、私もしてきたことだった。


 姉のために。

 妹のために。

 父のために。

 家のために。


 でも、誰もそれを仕事とは呼ばなかった。


「これは、どなたが」


 私が聞くと、アデル様は少し目を細めた。


「メイベル・オルン子爵夫人です」


 名前は聞いたことがあった。


 オルン子爵家は、古い家ではないが商売に強い。王都でもよく名前を聞く。その夫人は明るく人づきあいがよく、家をうまく回していると評判だった。


 うまく回している。


 人はそう言う時、そこにどれだけの手間があるかは見ない。


「夫人はこの文を、夫に見せたそうです」


 アデル様が言った。


「すると、夫は怒った。家のことを外に出すな、妻の仕事を金のように数えるな、と」


「それで、なぜ王宮へ?」


「オルン子爵は王宮にも出入りする方です。寄付や取引の話もある。そのため、この紙の扱いをどうするか、こちらにも相談が来ました」


 お父様が口をはさんだ。


「それをなぜ、ノエラに?」


 声には不満がにじんでいた。


 アデル様は落ち着いたまま答える。


「昨夜、ロザリア嬢の手紙を拝見しました。あの文は、ただ相手を責めるものではなかった。相手のしたことと、自分の苦しさを分けて書いていた」


「娘が書いたものではないと聞いておりますが」


「ええ。ですが、ロザリア嬢はノエラ嬢の一文に救われたとおっしゃっていた」


 私はうつむきそうになった。


 救われた。


 その言葉は重い。私のような者が受け取っていいものではない気がした。


 アデル様は私を見た。


「あなたなら、この文をただの不満ではなく、きちんとした形にできるのではないかと思いました」


 ただの不満。


 その言葉に、紙を持つ手に力が入った。


 人は、女の苦しさをそう呼びたがる。


 不満。

 愚痴。

 わがまま。

 感情的。


 そう名前をつければ、聞かなくて済むから。


「私は……」


 言いかけて、止まった。


 できる、と言うのは怖かった。

 できない、と言うのも違う気がした。


 すると、応接室の扉がそっと叩かれた。


 執事が顔を出す。


「旦那様。オルン子爵夫人がお見えです」


 お父様が驚いてアデル様を見た。


 アデル様はすまなそうに頭を下げる。


「ご無礼を承知で、同席をお願いしました。夫人ご本人の話を聞くのが一番だと思いましたので」


 お父様は困ったように息を吐いたが、王宮会計官の前で追い返すことはできない。


「通しなさい」


 少しして、メイベル・オルン子爵夫人が入ってきた。


 明るい栗色の髪をまとめ、柔らかな黄色のドレスを着ている。笑顔の似合う人だった。けれど近くで見ると、目の下に薄い影がある。手袋を外した手は、少し荒れていた。


 貴族夫人の手にしては、働きすぎた手だった。


「急に押しかけてごめんなさい、ヴィンター伯爵」


 メイベル様は明るく言った。


「でも、アデル様から、言葉を整えるのがとても上手な方がいらっしゃると聞いて」


 お父様がちらりと私を見る。


 私はまた小さくなる。


「こちらがノエラ・ヴィンター嬢です」


 アデル様に紹介され、私は立ち上がって礼をした。


「ノエラ・ヴィンターと申します」


「あなたが」


 メイベル様は私を見て、ふっと笑った。


「もっと年上の方かと思っていたわ」


「申し訳ございません」


「違うの。謝らないで。若いのにすごい、という意味で言いたかったのだけれど、今の言い方では嫌な感じね。ごめんなさい」


 その言い方があまりに素直で、私は少しだけ驚いた。


 貴族の人は、あまり謝らない。

 特に、自分より下だと思う相手には。


 メイベル様は席に座ると、すぐに笑顔を消した。


「私、夫に言われたの。お前は家で楽をしている、うらやましい、と」


 部屋が静かになる。


「最初は笑ったのよ。まあ、そう見えるのねって。でも、何度も言われると、だんだん自分でも分からなくなってきたの」


 メイベル様は自分の手を見る。


「朝起きて、使用人の予定を聞いて、届いた手紙を分けて、返事が必要なものを選んで、義母の機嫌を見て、夫の予定を確認して、子どもの先生に伝言をして、夕食の席で誰と誰を隣にするか考えて」


 彼女は小さく息を吸った。


「それで夜になると、夫は言うの。今日も一日、家にいただけだろうって」


 私は何も言えなかった。


 家にいただけ。

 机に座っていただけ。

 字を書いていただけ。


 似た言葉を、私は何度も聞いてきた。


「それで、紙に書いたのですか」


「ええ。私が何をしているのか、自分でも見てみたくなって」


 メイベル様は少し笑った。


「そしたら、びっくりしたわ。私、思っていたより働いていたの」


 その笑みは明るいのに、どこか泣きそうだった。


「でも夫に見せたら、怒られた。妻が夫の仕事を責めるのか、家の中のことを帳簿みたいに書くな、愛情を数字にするのかって」


「愛情を、数字に」


 私がくり返すと、メイベル様はうなずいた。


「そう。そう言われたら、私が悪いみたいでしょう?」


 分かる。


 とても分かる。


 手間を見せようとすると、冷たいと言われる。

 疲れたと言うと、愛が足りないと言われる。

 助けてほしいと言うと、女なのにと言われる。


 だから、何も言えなくなる。


 私は紙をもう一度見た。


 そこに並んでいるのは、怒りではなかった。

 夫を責めるための刃でもなかった。


 自分がしてきたことを、自分で見失わないための印だった。


「メイベル様」


「はい」


「この文は、不満ではないと思います」


 メイベル様の目が、少し開いた。


「これは、業務報告です」


 言った瞬間、部屋の空気が止まった。


 アデル様だけが、わずかに口元を動かした。笑ったわけではない。けれど、その言葉を待っていたように見えた。


「業務、報告」


 メイベル様がゆっくりくり返す。


「はい」


 私は紙を机に置いた。


「不満として出せば、相手は気持ちの問題にできます。ですが、業務報告なら、何を、いつ、誰のためにしたのかを確認するものになります」


 話しながら、怖くなった。


 私がこんなことを言っていいのだろうか。子爵夫人に。王宮会計官の前で。父の前で。


 けれど、メイベル様は真剣に聞いていた。


 だから、続けた。


「たとえば、親戚への贈り物は、ただの気づかいではありません。家同士の関係を保つための仕事です。使用人との面談は、家の中を回す仕事です。おわびの手紙も、子どもの先生との連絡も、誰かがしなければ困ることです」


 前世の記憶が、ふとよみがえる。


 誰かが補充した紙。

 誰かが片づけた机。

 誰かが先に送った連絡。

 誰かが空気を読んで、場を丸くした時間。


 それは、見えないと無いことにされる。


「だから、こう書くのはどうでしょう」


 私は新しい紙を一枚もらった。


 羽根ペンを取ると、不思議と手は震えなかった。


 これは不満ではありません。

 家を責めるためのものでもありません。


 私が何をしてきたのかを、夫婦で正しく知るための報告です。

 見えていなかった仕事を見える形にし、今後の分担を話し合うために提出いたします。


 書きながら、胸の中で何かがほどけていく気がした。


 これはメイベル様のための文だ。

 でも、私自身にも向けているようだった。


 私は、ただ字を書いているだけではなかったのかもしれない。


 姉の招待状も、継母の礼状も、父の謝罪文も。

 本当は、家を回すための仕事だったのかもしれない。


 誰もそう呼ばなかっただけで。


「続きは、このように」


 私は項目を整えた。


 一日の流れ。

 一週間ごとの作業。

 人に任せられること。

 夫に確認してほしいこと。

 夫婦で決め直すこと。


 できるだけ簡単な言葉にした。怒っているように見えないように。でも、軽く流されないように。


 メイベル様は身を乗り出して読んでいた。


「これなら、私、もう一度出せるかもしれない」


 その声は小さかった。


 でも、そこには少しだけ力があった。


「夫がまた怒ったら?」


 お父様がつい口にした。


 メイベル様は一瞬黙った。けれど、すぐに微笑む。


「その時は、怒ったことも報告に入れます」


 アデル様が軽く咳をした。笑いをこらえたのかもしれない。


 私も、少しだけ笑いそうになった。


 泣きそうな話なのに、ほんの少しおかしかった。

 おかしいと思えたことに、救われた。


 アデル様は、私の書いた紙を丁寧に見た。


「ノエラ嬢。あなたは感情を消しているわけではないのですね」


「え?」


「怒りを、怒りのままぶつけない。けれど、なかったことにもしていない」


 私は何と答えればいいか分からなかった。


 そんな立派なことを考えていたわけではない。


 ただ、怒りはそのまま出すと、すぐにこちらが悪者にされる。泣けば面倒な女と言われる。黙れば納得したことにされる。


 だから、紙に置くしかなかった。


「私は……声が大きくないので」


 ぽつりと言うと、メイベル様が私を見た。


「だから、紙に書くのです。紙の上なら、途中で遮られません」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 こんな言葉が、私の中にあったのかと思った。


 メイベル様は便せんを両手で持った。


「ノエラ様。私、この文を使わせていただいてもいいかしら」


「もちろんです」


「それと」


 彼女は少し迷ってから、私の手を取った。


 貴族夫人の手は、思っていたよりあたたかかった。


「ありがとう。私、自分がただ疲れているだけだと思っていたの。年のせいかしらとか、気にしすぎかしらとか。でも違ったのね」


 私はうなずいた。


「はい。違うと思います」


「家を支えていたのね」


「はい」


 メイベル様の目に涙が浮かぶ。


「その一言が、欲しかったの」


 私は何も言えなくなった。


 私だって、欲しかった。


 誰かに、あなたはちゃんと支えていると言ってほしかった。


 手紙を書いているだけではない。

 我慢しているだけではない。

 気づいて、整えて、支えていたのだと。


 その日の話し合いは、思っていたより長くなった。


 アデル様は、メイベル様の報告書を王宮の文書としても使える形にしたいと言った。もちろん、夫人の名を出すかどうかは本人が決める。けれど、家の中の仕事を記録する仕組みは、他の家でも役に立つかもしれない。


 お父様はずっと難しい顔をしていた。


 でも、最後まで止めなかった。


 それは私を認めたからではない。王宮会計官と子爵夫人の前で、強く止められなかっただけだろう。


 それでも、その日は止められなかった。


 メイベル様が帰る前、私は清書した紙を封筒に入れた。


 白い封筒ではなく、薄い黄色の封筒だった。


「白ではないのですね」


 アデル様が言った。


 私は少し考えて答えた。


「これは、助けを求める手紙ではありませんから」


「では、何ですか」


「自分の仕事を、自分で認めるための手紙です」


 アデル様はしばらく私を見ていた。


「なるほど」


 その一言だけだった。


 でも、なぜか胸に残った。


 夕方、応接室から出ると、廊下でカミラが待っていた。


 偶然ではないと思った。


「ずいぶん長かったのね」


「はい」


「何を話していたの?」


 いつもの姉なら、少し軽く聞いたかもしれない。けれど今日の声は、どこか慎重だった。


「オルン子爵夫人のお手紙のことです」


「手紙?」


「家の仕事を、どう伝えるかという話でした」


 カミラは少し黙った。


 窓の外では、夕方の光が廊下に落ちていた。姉の金の髪が、淡く光っている。その姿はやはり美しかった。


 でも、昨日から私は気づいてしまった。


 美しく見える人が、苦しくないとは限らない。


「家の仕事って」


 カミラがぽつりと言った。


「たとえば、どういうもの?」


「手紙の返事や、贈り物の手配や、席順を考えることなどです」


「それも仕事なの?」


「私は、そう思います」


 カミラは私を見た。


 何か言いたそうだった。けれど、唇を結ぶ。


「そう」


 それだけ言って、彼女は去っていった。


 いつもなら、そこで終わりだった。


 けれど、その日の姉の背中は、なぜか重たく見えた。


 夜になり、私は自分の部屋へ戻った。


 机の上には、いつもの手紙の束があった。けれど、それだけではなかった。


 白い封筒が三通。


 私は息を止めた。


 一通目には、差出人がなかった。


 婚約を断りたいです。

 でも父に言えば、家のためだと叱られます。


 二通目にも、差出人はなかった。


 働きたいと言ったら、笑われました。

 お前は嫁ぐために育てたのだと言われました。


 三通目は、少し小さな字だった。


 家に帰りたくありません。

 けれど、帰らない理由がありません。


 私は一通ずつ読み、机に置いた。


 怖かった。


 白い封筒が増えるということは、苦しい人が増えたということではない。きっと、最初からいたのだ。ただ、今まで届かなかっただけ。


 でも、私に何ができるのだろう。


 ロザリア様に返事を書いた。

 メイベル様の報告書を整えた。


 それだけだ。


 剣もない。魔法もない。身分も高くない。家の中でさえ、私はまだ自由に動けない。


 それでも、封筒を見なかったことにはできなかった。


 私は新しい紙を出す。


 その時、扉の下から、何かが差し込まれた。


 白い封筒だった。


 四通目。


 さっきの三通とは違う。紙も、折り方も、見覚えがあった。


 私はゆっくり拾い上げる。


 封筒には、差出人の名がなかった。


 けれど、香りで分かった。


 姉の部屋でよく使われている、淡い花の香り。


 私は封を切った。


 中には、短い文が書かれていた。


 あなたが羨ましかった。


 机の前にいればいいあなたが、羨ましかった。

 でも本当は、私もずっと逃げたかった。


 ノエラ。

 私は、完璧な姉でいるのに疲れました。


 私はその手紙を、しばらく見つめていた。


 姉は花のようだと言われていた。


 けれど、花だって水がなければ枯れる。


 その当たり前のことに、私は今まで気づかなかった。


 白い封筒は、遠い誰かからだけ届くものではなかった。


 家の中にも、ずっとあったのだ。


 ただ、誰も開けなかっただけで。

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