2話
第二話 幸せそうな令嬢ほど、助けてと言えない
グレイル・モント子爵令息が持っていた手紙は、私が書いたものではなかった。
けれど、そこに並んでいる言葉は、私が白い封筒に返そうとしていた言葉とよく似ていた。
私はあなたの持ち物ではありません。
私を大切に思うなら、私が選んだ友人、服、時間を、まず信じてください。
その一文を見た時、胸の奥が冷たくなった。
ロザリア様は、自分で書いたのだ。
誰かに代わってもらったのではない。
泣き言として丸めて捨てたのでもない。
自分の手で、自分の気持ちを紙に残した。
それなのに、目の前の青年は、それを彼女の言葉として受け取らなかった。
「これは君が書かせたものか」
グレイル様の声は静かだった。怒鳴ってはいない。けれど、その静かさの奥に、相手を逃がさない冷たさがあった。
父は私を見る。継母も私を見る。姉のカミラだけが、少し不安そうに私の横顔を見ていた。
私は手を前で重ねた。指先が冷えている。
「いいえ」
「では、なぜ君はその封筒を持っている」
私の手の中には、まだロザリア様から届いた白い封筒があった。
隠せばよかった。
部屋に置いてくればよかった。
そう思ったけれど、もう遅い。
「私宛てに届いたものです」
「差出人は」
「書かれていませんでした」
「中身は」
父が低い声で私の名を呼んだ。
「ノエラ」
それ以上話すな、という意味だった。
分かっている。
私はこの家では、前に出る娘ではない。余計なことを言えば、あとで叱られる。誰に頼まれたのか、何を考えているのか、なぜ家に迷惑をかけるのか。そう聞かれるに決まっている。
でも、ここで私が黙れば、ロザリア様の言葉はまた誰かの都合のいい形に変えられてしまう。
わがまま。
冷たい女。
誰かにそそのかされた娘。
きっと、そう呼ばれる。
「中身は、お見せできません」
私がそう言うと、広間の空気が一段冷えた。
父の眉が寄る。継母の唇がかすかに震える。ルーシェは階段の上で固まっていた。
グレイル様だけが、薄く笑った。
「やはり、何か知っているのだな」
「知っていることはあります」
「なら話せ」
「ですが、それは私が勝手に話してよいことではありません」
自分でも驚くほど、声は小さかった。けれど、途中で消えなかった。
グレイル様は一歩近づいた。
「君のような娘が、ロザリアに何を吹き込んだ?」
君のような娘。
その言葉は、私の胸にまっすぐ刺さった。
彼は私のことを何も知らない。
なのに、もう下に見ている。
庶子だから。
夜会に出ないから。
きらびやかな服を着ていないから。
誰かの後ろにいる娘だから。
そういう人間は、口をはさむ資格がないと、最初から決めている。
「吹き込んでなどいません」
「では、なぜロザリアは急にこんなことを書いた。昨日までは僕に逆らったことなどなかった」
その言葉で、私はようやく分かった。
彼は怒っているのではない。
困っているのでもない。
驚いているのだ。
今まで自分の思い通りだった人が、初めて違う言葉を返してきたから。
「逆らったのではなく、お伝えになったのだと思います」
「何を」
「苦しかったことを」
広間が静まり返った。
グレイル様の顔から、笑みが消える。
「苦しかった?」
彼はその言葉を、知らない国の言葉のようにくり返した。
「僕が、ロザリアを苦しめたと言いたいのか」
その問いには、すぐ答えられなかった。
私はロザリア様の毎日を見たわけではない。二人の間に何があったのか、全部知っているわけでもない。だから、決めつけることはできない。
けれど、あの手紙の字は知っている。
助けてほしいと書いて、すぐに取り消した人の字だった。
「私には、分かりません」
私は正直に言った。
「ですが、ロザリア様はそう感じたのだと思います」
「感じた? 女はすぐにそう言う。感じた、傷ついた、苦しい。僕はただ彼女を守ろうとしただけだ」
彼の声が少しだけ大きくなる。
「派手な色のドレスは、下品に見えるからやめた方がいいと言った。気の軽い友人とは距離を置くべきだと伝えた。夜遅くまで外にいるのは危ないと注意した。婚約者として当然だろう」
私は、息を止めて聞いていた。
前世で、似たような言葉を聞いたことがある。
心配しているだけ。
君のため。
普通はそうする。
嫌なら嫌と言えばよかったのに。
けれど、本当に嫌だと言えば、今度は面倒な女になる。
「守ることと、決めることは違います」
言ってから、怖くなった。
グレイル様の目が、はっきりと私をとらえたからだ。
「君に何が分かる」
何も分からない。
そう答えれば楽だった。
でも、私は白い封筒を握っていた。
「私にも、全部は分かりません」
だから、全部知っているふりはしない。
「でも、ロザリア様が自分で選んだ服を否定され、自分で選んだ友人を遠ざけられ、自分の時間を許してもらうもののように扱われたなら、それは苦しいと思います」
グレイル様が何か言おうとした、その時だった。
「その通りです」
玄関の外から、細い声がした。
全員がそちらを見る。
白い外套をまとった令嬢が立っていた。
ロザリア・ベルクール様。
初めて見るその人は、噂どおり美しかった。淡い銀色の髪は丁寧に結われ、薄い青のドレスは夜の光を受けて、静かな水のように見える。
けれど、顔色は白かった。
それでも彼女は、まっすぐ立っていた。
「ロザリア」
グレイル様の声が変わった。さっきまでの冷たさが、急にやわらかいものに変わる。
周りから見れば、優しい婚約者の声に聞こえたかもしれない。
「なぜここに来た。夜会の前に無理をしてはいけないと、あれほど言っただろう」
ロザリア様の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
その小さな動きで、私は分かった。
彼女は、何度もその声を聞いてきたのだ。
優しい形をした命令を。
「無理をしているかどうかは、私が決めます」
ロザリア様はそう言った。
声は震えていた。けれど、その震えを隠そうとはしていなかった。
グレイル様は、信じられないものを見るように彼女を見た。
「君は、どうしたんだ。そんな言い方をする子ではなかった」
「そうですね」
ロザリア様は小さくうなずいた。
「私は、そういう言い方をしないようにしてきました」
私は胸の奥がぎゅっとなった。
しないのではなく、してこなかった。
その違いが、痛いほど分かった。
「いつも笑っていました。あなたが選んだドレスを着て、あなたがよいと言った友人とだけ会って、あなたが心配なさるから早く帰りました」
「それは君のためだ」
「はい。ずっと、そう言われてきました」
ロザリア様は、グレイル様の手の中にある手紙を見る。
「でも、私のためだと言われるたびに、私の場所が少しずつなくなっていきました」
グレイル様は顔をしかめた。
「そんな大げさな」
その一言で、ロザリア様の目に涙が浮かんだ。
でも、こぼれなかった。
「私は、その言葉が一番苦しかったのです」
大げさ。
気にしすぎ。
考えすぎ。
わがまま。
そう言われるたびに、人は自分の苦しさを疑い始める。
自分が悪いのかもしれない。
自分が弱いのかもしれない。
自分さえ我慢すればいいのかもしれない。
私も、ずっとそうしてきた。
ロザリア様は、私の方を見た。
「ノエラ様」
急に名前を呼ばれて、私は息をのんだ。
「はい」
「お手紙、届きました」
私は驚いて、手の中の封筒を見た。
「でも、私はまだ……」
「いいえ。あなたの返事ではありません」
ロザリア様は、胸元から小さな紙を取り出した。
「以前、カミラ様のお名前で届いたお礼状を覚えていますか。そこに、短い一文が添えられていました」
カミラお姉様の名前で。
私は記憶を探った。
たしか、数日前の茶会の礼状だ。カミラの代わりに私が書いた。ロザリア様が急に席を外したと聞いて、具合でも悪かったのかもしれないと思い、最後に一文だけ添えた。
どうか、ご無理をなさらないでください。
笑っている人ほど、疲れていることもありますから。
ただ、それだけだった。
礼状としては、少し余計だったかもしれない。
でも、書かずにはいられなかった。
「私は、その一文を何度も読みました」
ロザリア様の声は静かだった。
「誰かに見抜かれたようで怖かった。けれど、同時に、初めて息ができた気がしました」
そんなつもりではなかった。
私はただ、いつものように手紙を書いただけだった。
誰かの名前で。
誰かのために。
けれど、そのたった一文が、この人の中に残っていた。
グレイル様は不快そうに私を見た。
「つまり、やはり君がきっかけか」
「違います」
ロザリア様がはっきりと言った。
「私が書きました。ノエラ様は、私の気持ちに名前をつけてくださっただけです」
その言葉に、私はうつむきそうになった。
私は、誰かの気持ちに名前をつけたのだろうか。
自分の気持ちの名前さえ、ずっと分からずにいたのに。
「ロザリア、君は分かっていない」
グレイル様が彼女へ近づく。
「こうして人前で僕に逆らえば、君の評判が傷つく。僕はそれを心配しているんだ。君は優しいから、誰かの言葉に流されてしまっただけだろう」
ロザリア様は一歩下がらなかった。
「私は、あなたに心配されることに疲れました」
グレイル様の動きが止まる。
「あなたは私を守ると言いながら、私の好きなものを一つずつ減らしました。友人も、服も、行きたい場所も。最後には、私が何を好きだったのか、自分でも分からなくなりました」
「僕は君を愛している」
「愛しているなら、私の言葉を私のものとして聞いてください」
その場にいた誰もが、息をひそめていた。
父も、継母も、姉も、使用人たちも。
私は、ロザリア様の横顔を見つめた。
美しい人だと思った。
ドレスや髪形ではない。
泣きそうなのに、逃げずに立っている姿が。
グレイル様は、しばらく黙っていた。やがて、低い声で言う。
「今日のところは帰る。君も頭を冷やすべきだ」
「はい」
ロザリア様はうなずいた。
「私も、そうします」
グレイル様は不機嫌な顔で外套をひるがえした。去り際、私を一度だけ見た。
「君のような娘が、余計なことをしない方がいい」
その言葉は、広間に重く落ちた。
扉が閉まる。
馬車の音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。
最初に口を開いたのは父だった。
「ノエラ」
低い声だった。
叱られる。
そう思った瞬間、ロザリア様が私の前に出た。
「ヴィンター伯爵。今夜のことは、私の責任です」
「しかし、ロザリア嬢」
「ノエラ様は、私の気持ちをねじ曲げませんでした。それだけです」
父は困ったように黙った。
侯爵令嬢の言葉を、簡単に否定することはできない。
ロザリア様は私に向き直った。
「ノエラ様。先ほどの白い封筒は、私が出しました」
「はい」
「失礼な文だったと思います」
「いいえ」
「いいえ。失礼でした」
彼女は小さく笑った。泣きそうな、でも少しだけ楽になったような笑みだった。
「私は、助けてほしいのに、助けてほしいと言うのが怖かったのです。だから、あなたを試すような書き方をしました」
私は首を横に振った。
「怖い時は、きれいに頼めなくてもいいと思います」
自分で言ってから、胸が痛くなった。
それは、私が誰かに言ってほしかった言葉だった。
ロザリア様は目を伏せた。
「ありがとうございます」
その時、階段の上から小さな声がした。
「ノエラお姉様」
ルーシェだった。彼女はリボンを握ったまま、不安そうにこちらを見ている。いつもの明るさはなかった。
「お姉様、怒られるの?」
私は答えられなかった。
父は深く息を吐いた。
「今夜は客人の前だ。話は後にする」
後にする。
それは、終わったという意味ではない。
ただ、今は見逃すという意味だ。
でも、今の私には、それだけでも十分だった。
ロザリア様は私に近づき、小さな声で言った。
「ノエラ様。あの手紙に、返事を書いてくださったのですか」
「はい。でも、まだお渡しできていません」
「読んでもよろしいですか」
私は白い封筒を差し出した。
ロザリア様は中の便せんを開いた。読み進めるうちに、彼女の指先が震える。
そして、最後まで読むと、便せんを胸に当てた。
「私は、私の持ち物ではないのですね」
その言い方が幼くて、胸が苦しくなった。
あまりにも当たり前のことを、人は時々、誰かに言われないと思い出せない。
「はい」
私は答えた。
「ロザリア様は、ロザリア様のものです」
ロザリア様は目を閉じた。
涙が一粒だけこぼれた。
その涙は、敗けた人のものには見えなかった。
長い間、息を止めていた人が、ようやく空気を吸えた時の涙だった。
やがて、ロザリア様は父に礼をして、屋敷を後にした。今夜の夜会に出るのか、それとも帰るのかは分からない。けれど、その背中は来た時より少しだけまっすぐだった。
広間に残された私は、急に足の力が抜けそうになった。
怖かった。
今になって、手が震えた。
グレイル様ににらまれたことも、父に見られたことも、明日からどうなるか分からないことも、全部怖い。
強くなったわけではない。
ただ、黙ることができなかっただけだ。
「ノエラ」
姉のカミラが近づいてきた。
叱られると思った。
けれど、姉は少し迷ってから、私の手を取った。
「あなた、あんなふうに話せたのね」
その言葉が、ほめ言葉なのか、驚きなのか分からなかった。
「私も、自分で驚いています」
「……そう」
姉はそれだけ言って、手を離した。けれど、すぐには去らなかった。
何か言いたそうにして、結局、何も言わずに背を向ける。
その横顔が、いつもの花のような姉ではなく、ただの疲れた女の子に見えた。
私はその時、初めて思った。
姉にも、言えないことがあるのかもしれない。
その夜、部屋に戻ると、机の上には書きかけの手紙がまだ残っていた。
姉の名前で書く礼状。
継母に頼まれた断り状。
父の知人への返事。
いつもの仕事。
けれど、同じ机に見えなかった。
私は椅子に座り、羽根ペンを取る。指先はまだ少し震えている。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「ノエラ様」
使用人が顔を出す。
「お客様が、こちらを」
差し出されたのは、小さな名刺だった。
見覚えのない名前。
アデル・クライン。
王宮会計官。
裏には、短く一文だけ書かれていた。
あなたの文章には、人の言えないことを形にする力がある。
一度、お話を聞かせていただきたい。
私はその文字を見つめた。
王宮。
あまりに遠い場所だった。
私のような庶子が、関わることなどない場所。
姉の招待状の返事を書く時にだけ、名前を見る場所。
そこから、私に声がかかった。
うれしいより先に、怖かった。
私はただ、一通の手紙に返事を書いただけなのに。
でも、机の上には白い封筒がある。
ロザリア様の助けてくださいが、まだそこに残っている。
私は名刺をそっと引き出しに入れた。
そして、新しい便せんを一枚出した。
今度は、誰かの名前ではなく、私の名前で。
うまく書けるかは分からない。
何を書けばいいのかも、まだ分からない。
それでも、最初の一行だけは決まっていた。
ノエラ・ヴィンターと申します。
その文字を書いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
扉が開いた音ではなかった。
けれど、たしかにどこかが少しだけ開いた気がした。
その夜から、私の机には、姉の手紙だけではなくなった。
誰かのための言葉。
誰かが飲み込んできた本音。
そして、まだうまく書けない、私自身の望み。
白い封筒は、一通だけで終わらなかった。




