表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い封筒の庶子令嬢  作者: 七七街


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/5

2話

第二話 幸せそうな令嬢ほど、助けてと言えない


 グレイル・モント子爵令息が持っていた手紙は、私が書いたものではなかった。


 けれど、そこに並んでいる言葉は、私が白い封筒に返そうとしていた言葉とよく似ていた。


 私はあなたの持ち物ではありません。

 私を大切に思うなら、私が選んだ友人、服、時間を、まず信じてください。


 その一文を見た時、胸の奥が冷たくなった。


 ロザリア様は、自分で書いたのだ。


 誰かに代わってもらったのではない。

 泣き言として丸めて捨てたのでもない。

 自分の手で、自分の気持ちを紙に残した。


 それなのに、目の前の青年は、それを彼女の言葉として受け取らなかった。


「これは君が書かせたものか」


 グレイル様の声は静かだった。怒鳴ってはいない。けれど、その静かさの奥に、相手を逃がさない冷たさがあった。


 父は私を見る。継母も私を見る。姉のカミラだけが、少し不安そうに私の横顔を見ていた。


 私は手を前で重ねた。指先が冷えている。


「いいえ」


「では、なぜ君はその封筒を持っている」


 私の手の中には、まだロザリア様から届いた白い封筒があった。


 隠せばよかった。

 部屋に置いてくればよかった。

 そう思ったけれど、もう遅い。


「私宛てに届いたものです」


「差出人は」


「書かれていませんでした」


「中身は」


 父が低い声で私の名を呼んだ。


「ノエラ」


 それ以上話すな、という意味だった。


 分かっている。

 私はこの家では、前に出る娘ではない。余計なことを言えば、あとで叱られる。誰に頼まれたのか、何を考えているのか、なぜ家に迷惑をかけるのか。そう聞かれるに決まっている。


 でも、ここで私が黙れば、ロザリア様の言葉はまた誰かの都合のいい形に変えられてしまう。


 わがまま。

 冷たい女。

 誰かにそそのかされた娘。


 きっと、そう呼ばれる。


「中身は、お見せできません」


 私がそう言うと、広間の空気が一段冷えた。


 父の眉が寄る。継母の唇がかすかに震える。ルーシェは階段の上で固まっていた。


 グレイル様だけが、薄く笑った。


「やはり、何か知っているのだな」


「知っていることはあります」


「なら話せ」


「ですが、それは私が勝手に話してよいことではありません」


 自分でも驚くほど、声は小さかった。けれど、途中で消えなかった。


 グレイル様は一歩近づいた。


「君のような娘が、ロザリアに何を吹き込んだ?」


 君のような娘。


 その言葉は、私の胸にまっすぐ刺さった。


 彼は私のことを何も知らない。

 なのに、もう下に見ている。


 庶子だから。

 夜会に出ないから。

 きらびやかな服を着ていないから。

 誰かの後ろにいる娘だから。


 そういう人間は、口をはさむ資格がないと、最初から決めている。


「吹き込んでなどいません」


「では、なぜロザリアは急にこんなことを書いた。昨日までは僕に逆らったことなどなかった」


 その言葉で、私はようやく分かった。


 彼は怒っているのではない。

 困っているのでもない。


 驚いているのだ。


 今まで自分の思い通りだった人が、初めて違う言葉を返してきたから。


「逆らったのではなく、お伝えになったのだと思います」


「何を」


「苦しかったことを」


 広間が静まり返った。


 グレイル様の顔から、笑みが消える。


「苦しかった?」


 彼はその言葉を、知らない国の言葉のようにくり返した。


「僕が、ロザリアを苦しめたと言いたいのか」


 その問いには、すぐ答えられなかった。


 私はロザリア様の毎日を見たわけではない。二人の間に何があったのか、全部知っているわけでもない。だから、決めつけることはできない。


 けれど、あの手紙の字は知っている。


 助けてほしいと書いて、すぐに取り消した人の字だった。


「私には、分かりません」


 私は正直に言った。


「ですが、ロザリア様はそう感じたのだと思います」


「感じた? 女はすぐにそう言う。感じた、傷ついた、苦しい。僕はただ彼女を守ろうとしただけだ」


 彼の声が少しだけ大きくなる。


「派手な色のドレスは、下品に見えるからやめた方がいいと言った。気の軽い友人とは距離を置くべきだと伝えた。夜遅くまで外にいるのは危ないと注意した。婚約者として当然だろう」


 私は、息を止めて聞いていた。


 前世で、似たような言葉を聞いたことがある。


 心配しているだけ。

 君のため。

 普通はそうする。

 嫌なら嫌と言えばよかったのに。


 けれど、本当に嫌だと言えば、今度は面倒な女になる。


「守ることと、決めることは違います」


 言ってから、怖くなった。


 グレイル様の目が、はっきりと私をとらえたからだ。


「君に何が分かる」


 何も分からない。

 そう答えれば楽だった。


 でも、私は白い封筒を握っていた。


「私にも、全部は分かりません」


 だから、全部知っているふりはしない。


「でも、ロザリア様が自分で選んだ服を否定され、自分で選んだ友人を遠ざけられ、自分の時間を許してもらうもののように扱われたなら、それは苦しいと思います」


 グレイル様が何か言おうとした、その時だった。


「その通りです」


 玄関の外から、細い声がした。


 全員がそちらを見る。


 白い外套をまとった令嬢が立っていた。


 ロザリア・ベルクール様。


 初めて見るその人は、噂どおり美しかった。淡い銀色の髪は丁寧に結われ、薄い青のドレスは夜の光を受けて、静かな水のように見える。


 けれど、顔色は白かった。


 それでも彼女は、まっすぐ立っていた。


「ロザリア」


 グレイル様の声が変わった。さっきまでの冷たさが、急にやわらかいものに変わる。


 周りから見れば、優しい婚約者の声に聞こえたかもしれない。


「なぜここに来た。夜会の前に無理をしてはいけないと、あれほど言っただろう」


 ロザリア様の肩が、ほんの少しだけ揺れた。


 その小さな動きで、私は分かった。


 彼女は、何度もその声を聞いてきたのだ。


 優しい形をした命令を。


「無理をしているかどうかは、私が決めます」


 ロザリア様はそう言った。


 声は震えていた。けれど、その震えを隠そうとはしていなかった。


 グレイル様は、信じられないものを見るように彼女を見た。


「君は、どうしたんだ。そんな言い方をする子ではなかった」


「そうですね」


 ロザリア様は小さくうなずいた。


「私は、そういう言い方をしないようにしてきました」


 私は胸の奥がぎゅっとなった。


 しないのではなく、してこなかった。


 その違いが、痛いほど分かった。


「いつも笑っていました。あなたが選んだドレスを着て、あなたがよいと言った友人とだけ会って、あなたが心配なさるから早く帰りました」


「それは君のためだ」


「はい。ずっと、そう言われてきました」


 ロザリア様は、グレイル様の手の中にある手紙を見る。


「でも、私のためだと言われるたびに、私の場所が少しずつなくなっていきました」


 グレイル様は顔をしかめた。


「そんな大げさな」


 その一言で、ロザリア様の目に涙が浮かんだ。


 でも、こぼれなかった。


「私は、その言葉が一番苦しかったのです」


 大げさ。

 気にしすぎ。

 考えすぎ。

 わがまま。


 そう言われるたびに、人は自分の苦しさを疑い始める。


 自分が悪いのかもしれない。

 自分が弱いのかもしれない。

 自分さえ我慢すればいいのかもしれない。


 私も、ずっとそうしてきた。


 ロザリア様は、私の方を見た。


「ノエラ様」


 急に名前を呼ばれて、私は息をのんだ。


「はい」


「お手紙、届きました」


 私は驚いて、手の中の封筒を見た。


「でも、私はまだ……」


「いいえ。あなたの返事ではありません」


 ロザリア様は、胸元から小さな紙を取り出した。


「以前、カミラ様のお名前で届いたお礼状を覚えていますか。そこに、短い一文が添えられていました」


 カミラお姉様の名前で。


 私は記憶を探った。


 たしか、数日前の茶会の礼状だ。カミラの代わりに私が書いた。ロザリア様が急に席を外したと聞いて、具合でも悪かったのかもしれないと思い、最後に一文だけ添えた。


 どうか、ご無理をなさらないでください。

 笑っている人ほど、疲れていることもありますから。


 ただ、それだけだった。


 礼状としては、少し余計だったかもしれない。

 でも、書かずにはいられなかった。


「私は、その一文を何度も読みました」


 ロザリア様の声は静かだった。


「誰かに見抜かれたようで怖かった。けれど、同時に、初めて息ができた気がしました」


 そんなつもりではなかった。


 私はただ、いつものように手紙を書いただけだった。


 誰かの名前で。

 誰かのために。

 けれど、そのたった一文が、この人の中に残っていた。


 グレイル様は不快そうに私を見た。


「つまり、やはり君がきっかけか」


「違います」


 ロザリア様がはっきりと言った。


「私が書きました。ノエラ様は、私の気持ちに名前をつけてくださっただけです」


 その言葉に、私はうつむきそうになった。


 私は、誰かの気持ちに名前をつけたのだろうか。


 自分の気持ちの名前さえ、ずっと分からずにいたのに。


「ロザリア、君は分かっていない」


 グレイル様が彼女へ近づく。


「こうして人前で僕に逆らえば、君の評判が傷つく。僕はそれを心配しているんだ。君は優しいから、誰かの言葉に流されてしまっただけだろう」


 ロザリア様は一歩下がらなかった。


「私は、あなたに心配されることに疲れました」


 グレイル様の動きが止まる。


「あなたは私を守ると言いながら、私の好きなものを一つずつ減らしました。友人も、服も、行きたい場所も。最後には、私が何を好きだったのか、自分でも分からなくなりました」


「僕は君を愛している」


「愛しているなら、私の言葉を私のものとして聞いてください」


 その場にいた誰もが、息をひそめていた。


 父も、継母も、姉も、使用人たちも。


 私は、ロザリア様の横顔を見つめた。


 美しい人だと思った。


 ドレスや髪形ではない。

 泣きそうなのに、逃げずに立っている姿が。


 グレイル様は、しばらく黙っていた。やがて、低い声で言う。


「今日のところは帰る。君も頭を冷やすべきだ」


「はい」


 ロザリア様はうなずいた。


「私も、そうします」


 グレイル様は不機嫌な顔で外套をひるがえした。去り際、私を一度だけ見た。


「君のような娘が、余計なことをしない方がいい」


 その言葉は、広間に重く落ちた。


 扉が閉まる。


 馬車の音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。


 最初に口を開いたのは父だった。


「ノエラ」


 低い声だった。


 叱られる。


 そう思った瞬間、ロザリア様が私の前に出た。


「ヴィンター伯爵。今夜のことは、私の責任です」


「しかし、ロザリア嬢」


「ノエラ様は、私の気持ちをねじ曲げませんでした。それだけです」


 父は困ったように黙った。


 侯爵令嬢の言葉を、簡単に否定することはできない。


 ロザリア様は私に向き直った。


「ノエラ様。先ほどの白い封筒は、私が出しました」


「はい」


「失礼な文だったと思います」


「いいえ」


「いいえ。失礼でした」


 彼女は小さく笑った。泣きそうな、でも少しだけ楽になったような笑みだった。


「私は、助けてほしいのに、助けてほしいと言うのが怖かったのです。だから、あなたを試すような書き方をしました」


 私は首を横に振った。


「怖い時は、きれいに頼めなくてもいいと思います」


 自分で言ってから、胸が痛くなった。


 それは、私が誰かに言ってほしかった言葉だった。


 ロザリア様は目を伏せた。


「ありがとうございます」


 その時、階段の上から小さな声がした。


「ノエラお姉様」


 ルーシェだった。彼女はリボンを握ったまま、不安そうにこちらを見ている。いつもの明るさはなかった。


「お姉様、怒られるの?」


 私は答えられなかった。


 父は深く息を吐いた。


「今夜は客人の前だ。話は後にする」


 後にする。


 それは、終わったという意味ではない。

 ただ、今は見逃すという意味だ。


 でも、今の私には、それだけでも十分だった。


 ロザリア様は私に近づき、小さな声で言った。


「ノエラ様。あの手紙に、返事を書いてくださったのですか」


「はい。でも、まだお渡しできていません」


「読んでもよろしいですか」


 私は白い封筒を差し出した。


 ロザリア様は中の便せんを開いた。読み進めるうちに、彼女の指先が震える。


 そして、最後まで読むと、便せんを胸に当てた。


「私は、私の持ち物ではないのですね」


 その言い方が幼くて、胸が苦しくなった。


 あまりにも当たり前のことを、人は時々、誰かに言われないと思い出せない。


「はい」


 私は答えた。


「ロザリア様は、ロザリア様のものです」


 ロザリア様は目を閉じた。


 涙が一粒だけこぼれた。


 その涙は、敗けた人のものには見えなかった。


 長い間、息を止めていた人が、ようやく空気を吸えた時の涙だった。


 やがて、ロザリア様は父に礼をして、屋敷を後にした。今夜の夜会に出るのか、それとも帰るのかは分からない。けれど、その背中は来た時より少しだけまっすぐだった。


 広間に残された私は、急に足の力が抜けそうになった。


 怖かった。


 今になって、手が震えた。


 グレイル様ににらまれたことも、父に見られたことも、明日からどうなるか分からないことも、全部怖い。


 強くなったわけではない。


 ただ、黙ることができなかっただけだ。


「ノエラ」


 姉のカミラが近づいてきた。


 叱られると思った。


 けれど、姉は少し迷ってから、私の手を取った。


「あなた、あんなふうに話せたのね」


 その言葉が、ほめ言葉なのか、驚きなのか分からなかった。


「私も、自分で驚いています」


「……そう」


 姉はそれだけ言って、手を離した。けれど、すぐには去らなかった。


 何か言いたそうにして、結局、何も言わずに背を向ける。


 その横顔が、いつもの花のような姉ではなく、ただの疲れた女の子に見えた。


 私はその時、初めて思った。


 姉にも、言えないことがあるのかもしれない。


 その夜、部屋に戻ると、机の上には書きかけの手紙がまだ残っていた。


 姉の名前で書く礼状。

 継母に頼まれた断り状。

 父の知人への返事。


 いつもの仕事。


 けれど、同じ机に見えなかった。


 私は椅子に座り、羽根ペンを取る。指先はまだ少し震えている。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「ノエラ様」


 使用人が顔を出す。


「お客様が、こちらを」


 差し出されたのは、小さな名刺だった。


 見覚えのない名前。


 アデル・クライン。

 王宮会計官。


 裏には、短く一文だけ書かれていた。


 あなたの文章には、人の言えないことを形にする力がある。

 一度、お話を聞かせていただきたい。


 私はその文字を見つめた。


 王宮。


 あまりに遠い場所だった。


 私のような庶子が、関わることなどない場所。

 姉の招待状の返事を書く時にだけ、名前を見る場所。


 そこから、私に声がかかった。


 うれしいより先に、怖かった。


 私はただ、一通の手紙に返事を書いただけなのに。


 でも、机の上には白い封筒がある。


 ロザリア様の助けてくださいが、まだそこに残っている。


 私は名刺をそっと引き出しに入れた。


 そして、新しい便せんを一枚出した。


 今度は、誰かの名前ではなく、私の名前で。


 うまく書けるかは分からない。

 何を書けばいいのかも、まだ分からない。


 それでも、最初の一行だけは決まっていた。


 ノエラ・ヴィンターと申します。


 その文字を書いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。


 扉が開いた音ではなかった。

 けれど、たしかにどこかが少しだけ開いた気がした。


 その夜から、私の机には、姉の手紙だけではなくなった。


 誰かのための言葉。

 誰かが飲み込んできた本音。

 そして、まだうまく書けない、私自身の望み。


 白い封筒は、一通だけで終わらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ