1話
第一話 庶子令嬢は、今日も姉の名前で手紙を書く
私は、手紙を書くのが好きだったわけではない。
ただ、手紙を書いているあいだだけは、屋敷の中で邪魔者にならずに済んだ。
「ノエラ、こちらの返事もお願いね。今夜までに出さないと失礼になるでしょう」
継母のマルグリット様は、そう言って私の机に封筒の束を置いた。細い指には、大きな宝石の指輪が光っている。その手は、手紙を書くためではなく、人に渡すためにあるようだった。
「はい、奥様」
私は短く答えて、羽根ペンを取った。
ヴィンター伯爵家には、娘が三人いる。
一番上の姉、カミラは花のようだと言われている。淡い金の髪に、やわらかな頬。舞踏会で笑えば、それだけで何人もの令息が見とれる。
下の妹、ルーシェは小鳥のようだと言われている。よく笑い、よく甘え、誰かの腕にすぐ飛び込める。
そして私は、字がきれいだと言われている。
ほめ言葉の形をしていたけれど、それはつまり、机の前にいなさいという意味だった。
「カミラ様は、今夜のお支度ですか」
私が聞くと、マルグリット様は当たり前のようにうなずいた。
「ええ。ベルクール侯爵家の夜会ですもの。あの子には大事な場になるわ。あなたも分かっているでしょう?」
「はい」
「では、カミラの名前で丁寧に返事を書いてちょうだい。あの子は今、ドレスのことで手が離せないの」
ドレスを選ぶ時間は、手紙を書く時間より大事らしい。
もちろん、それを口には出さない。
私は一通目の封を開けた。招待への返事。二通目は欠席のわび。三通目は贈り物への礼状。四通目は、先日の茶会で失礼があった相手への言い訳。
どれも、私の手紙ではなかった。
けれど、私が書かなければ、家の誰かが困る。
姉が恥をかかないように。妹が叱られないように。父が頭を下げずに済むように。継母が機嫌よく夕食の席につけるように。
私は今日も、誰かのための言葉を選ぶ。
前世でも、少し似ていた。
私には、もう一つの人生の記憶がある。名前も顔も、細かいことは薄れている。けれど、胸の奥に残っている感覚だけは消えなかった。
断れなかったこと。
大丈夫ですと笑ったこと。
みんなが幸せそうに見える小さな画面を見て、自分だけ置いていかれている気がしたこと。
彼氏に言いたいことがあっても、重いと思われるのが怖くて飲み込んだこと。
仕事でも、家でも、友人の前でも、私はいつも先に相手の顔を見た。怒っていないか。面倒だと思っていないか。嫌われないか。
それで疲れて、眠って、目が覚めたら、この世界にいた。
貴族の娘になったと知った時、少しだけ夢を見た。
今度こそ、大切にされるのかもしれない。
けれど、物語の主人公にはなれなかった。
私は伯爵の娘ではあるけれど、正妻の子ではない。母は身分の低い女性で、私が幼い頃に亡くなったらしい。だから私は、家族というより、家のすみで使われる便利な道具に近かった。
それでも、食べるものはある。寝る場所もある。きれいな服だって、姉のお下がりなら着せてもらえる。
だから私は、自分は恵まれているのだと言い聞かせた。
不満を持つ方が悪いのだと。
「ノエラお姉様」
甘い声がして、妹のルーシェが部屋をのぞいた。白いリボンを両手に持っている。
「どちらが可愛いと思います? こっちの白と、こっちの薄桃」
「薄桃の方が、今日のドレスに合うと思うわ」
「やっぱり! お母様もそう言っていたの」
ルーシェはうれしそうに笑った。そして、私の机の上を見る。
「まだそんなに書いているの?」
「ええ。少し多いわね」
「ノエラお姉様はすごいわ。私、そんなに字を書いたら手が痛くなってしまうもの」
悪気はないのだと思う。
ルーシェはいつだって、悪気なく人の心を踏む。
「慣れているから」
「いいなあ。私も字がきれいだったら、お父様にほめられるのに」
そう言って、彼女は軽い足取りで去っていった。
いいなあ。
その言葉が、胸に少しだけ残った。
私はうらやましがられるような場所にいるのだろうか。机の前に座り、誰かの名前で、誰かの気持ちをきれいに整えるだけの場所が。
窓の外では、夜会へ向かう馬車の準備が進んでいた。使用人たちが忙しく動き、姉のドレス箱が運ばれていく。私はそこへ行かない。招かれていないからではない。行っても、することがないからだと言われている。
本当は違う。
私が行けば、誰かが私のことを説明しなければならないからだ。
正妻の子ではない娘。
亡くなった母の名を口にしづらい娘。
けれど字だけは使える娘。
それが、私だった。
夕方になって、ようやく手紙の束が減り始めた頃、使用人の一人が私の部屋に来た。
「ノエラ様。こちらが門番から」
「私に?」
「はい。差出人の名はありません」
差し出されたのは、白い封筒だった。
高い紙ではない。けれど、安物でもない。飾りのない、白い封筒。封の端が少しだけ曲がっている。強く握りしめたようなしわがあった。
私はなぜか、すぐに開けられなかった。
封筒に書かれた宛名は、私の名前だった。
ノエラ・ヴィンター様。
姉の名前でも、父の名前でも、継母の名前でもない。
私の名前。
たったそれだけのことに、胸が小さく揺れた。
私は封を切った。
中には一枚だけ、便せんが入っていた。
あなたは、人の代わりに手紙を書くのが得意なのでしょう。
なら、私の代わりに、婚約者を傷つけず、けれど二度と私に近づけない文を書いてください。
私はもう、優しくされることに疲れました。
でも、疲れたと言えば、私が冷たい女にされます。
助けてください。
いいえ。
やはり、助けてほしいなどと書いたことは忘れてください。
最後の一文だけ、字が乱れていた。
私は便せんを持ったまま、しばらく動けなかった。
最初は、誰かのいたずらかと思った。私が家の中で手紙を書かされていることを知っている人は多い。笑いものにするには、ちょうどいい話かもしれない。
けれど、何度読み返しても、その文は笑っていなかった。
怒りでもない。
わがままでもない。
これは、息ができなくなった人の字だった。
優しくされることに疲れた。
その一文が、私の中にまっすぐ落ちた。
優しい言葉は、いつも優しいとは限らない。
君のため。
心配だから。
女の子なのだから。
僕がいないと危ない。
君は強いから分かってくれる。
そう言われると、断りづらい。
嫌だと言ったこちらが、ひどい人間みたいに見えるから。
私は前世で、何度もその形の言葉を飲み込んだ。飲み込んで、平気なふりをした。平気なふりがうまくなるほど、周りは本当に平気なのだと思った。
私は便せんを机に置いた。
返事を書くべきではないかもしれない。
誰が出したかも分からない。相手の身分も分からない。婚約の話に他人が口を出せば、面倒になる。私の立場でそんなことをすれば、父に叱られるだけでは済まないかもしれない。
そう考えれば、答えは一つだった。
燃やせばいい。
見なかったことにすればいい。
私は、ずっとそうして生きてきたのだから。
けれど、便せんの最後の乱れた字が目に入った。
助けてください。
その言葉を書いた人は、きっと書いたあとで後悔した。こんなことを言ってはいけないと思った。だから、すぐに取り消した。
その気持ちが、分かってしまった。
分かってしまったから、もう知らないふりはできなかった。
私は新しい便せんを出した。
羽根ペンの先をインクにつける。手が少しだけ震えた。
何を書けばいいのか、最初は分からなかった。いつもなら、言葉はいくらでも出てくる。相手が喜ぶ言い方。角が立たない断り方。謝っているようで、こちらの非を大きく見せない書き方。
でも今、必要なのはそういう言葉ではなかった。
この人は、きれいな文がほしいわけではない。
自分が悪いわけではないと、誰かに言ってほしいのだ。
私はゆっくり書き始めた。
あなたが悪いのではありません。
苦しいと感じたことを、わがままだと思わないでください。
断りたいと思ったことを、冷たい女だと思わないでください。
優しくされるたびに息が苦しくなるなら、それはもう優しさではありません。
けれど、ただ逃げるだけでは、相手はあなたが黙って許したのだと思うでしょう。
だから、まずは一つだけ書いてください。
私はあなたの持ち物ではありません。
私を大切に思うなら、私が選ぶ友人、服、時間を、まず信じてください。
これで終わらせなくてもいいのです。
すぐに強くならなくてもいいのです。
ただ、あなたの気持ちを、なかったことにしないでください。
書き終えた時、外は暗くなっていた。
屋敷の中は夜会へ向かう家族の声でにぎやかだった。姉の笑い声。妹のはしゃぐ声。継母の指示。父の低い声。
その中で、私の部屋だけが静かだった。
私は返事を白い封筒に入れた。差出人が分からない以上、どう届ければいいのか分からない。けれど、封筒の内側に、小さな香り紙が入っていることに気づいた。
白い薔薇の香り。
それは、ベルクール侯爵家が好んで使う香りだ。
今夜、姉が向かう夜会の家。
胸がひやりとした。
ベルクール侯爵家の令嬢といえば、ロザリア・ベルクール様しかいない。
社交界で、完璧な令嬢と呼ばれる人。
美しくて、家柄がよくて、誰にでもやわらかく笑う。婚約者は王宮でも将来を期待されている青年で、誰もがうらやむ組み合わせだと聞いたことがある。
その人が、助けてくださいと書いた。
私は手紙を見つめた。
幸せそうに見える人ほど、本当のことを言えない時がある。
うらやましいと言われるたびに、助けてほしいという言葉が喉の奥へ戻っていく。
私は席を立った。
白い封筒を胸に抱え、廊下へ出る。ちょうど、姉のカミラが階段を下りてくるところだった。淡い青のドレスが、灯りを受けてきらきら光っている。
「ノエラ?」
姉は私を見て、少し眉を上げた。
「どうしたの。その封筒」
「少し、届けたいものがあって」
「今から?」
「はい」
カミラは困ったように笑った。
「今夜は忙しいのよ。あなたは家にいるのでしょう? 誰かに頼めばいいわ」
いつもなら、私はうなずいていた。
はい、と言って、部屋に戻っていた。
けれど、その夜だけは戻れなかった。
「私が届けます」
自分でも驚くほど、小さな声だった。けれど、言葉は消えなかった。
姉は少しだけ目を丸くした。それから、私の手元の封筒を見て、何かを言いかけた。
その時、玄関の方が騒がしくなった。
予定より早く客が来たらしい。使用人の声が重なり、父が廊下へ出てくる。継母も急ぎ足で向かった。
私と姉も、自然とそちらを見た。
玄関広間に立っていたのは、背の高い青年だった。濃い茶色の髪をきちんと整え、上品な外套を着ている。顔立ちは整っているが、口元には冷たい不機嫌さがあった。
私はその人を知っていた。
ロザリア様の婚約者、グレイル・モント子爵令息。
彼は手に、一通の手紙を持っていた。
白い封筒ではない。
けれど、私がさっき書いた便せんと同じ紙だった。
「ヴィンター伯爵」
グレイル様は、父に向かって礼をした。礼は正しいのに、声はまったく笑っていなかった。
「突然の訪問をお許しください。今夜、ベルクール侯爵家へ向かう前に、どうしても確かめたいことがありまして」
父は不思議そうに首を傾げた。
「確かめたいこと?」
「はい」
グレイル様の目が、ゆっくりとこちらへ向いた。
私の手の中にある白い封筒を見た瞬間、その目が細くなる。
「ロザリアに、このような手紙を書かせた者がいるようです」
心臓が、強く鳴った。
姉が隣で息を飲む。父の視線が私に向く。継母の顔から、すっと笑みが消える。
私は逃げ出したくなった。
知らないと言えばいい。
何も分かりませんと言えばいい。
私はただの庶子で、家の手紙を書いているだけの娘だ。
そう言えば、きっとまだ戻れる。
机の前に。
誰かの名前の下に。
邪魔者にならずに済む場所に。
けれど、白い封筒の中の言葉が、指先に残っていた。
助けてください。
私は、封筒を握り直した。
声はまだ震えていた。
けれど、今度は逃げるためではなく、言葉を落とさないために震えていた。
「その手紙を、見せていただけますか」
グレイル様の眉が動いた。
「君は?」
私は一歩だけ前に出た。
父が止めようとした。継母が私の名を呼びかけた。姉が小さく手を伸ばした。
それでも私は、初めて自分の名前を言った。
「ノエラ・ヴィンターと申します」
屋敷の空気が、静かに変わった。
その夜、私はまだ知らなかった。
この白い封筒が、私を机の前から連れ出すことになるなんて。
そして、誰にも聞こえないように折りたたまれた小さな悲鳴が、やがて王都の社交界を動かすことになるなんて。




