乗合には、いつでも席がございます【ジョス視点】
楡通りの角で鈴を鳴らすと、膝が言った。明日は雨だ。
わしの膝は、天気見の役所より当たる。御者台に長いこと座っているうちに悪くなって、坊ちゃんが乗合を始めた年に、御者台を降りた。それからは、緑の後ろの段に立って鈴を振っている。段の上は、座る所じゃない。膝が痛かろうが、立っているのが車掌だ。
その楡通りの角で、三年前の秋、わしは停留所でもないのに鈴を鳴らした。
あの頃の緑は、走り始めてまだ一年たたなかった。車掌の頭数も足りなくて、わしは昼も夜も段に立っていた。乗る客も少なくて、昼過ぎの便なんぞは空っぽで走ることもあった。その空っぽの緑の窓から、伯爵様のお屋敷の門の前で、女の子が一人で泣いているのが見えた。門は閉まっていて、角の向こうへ、紋の付いた箱馬車が遠ざかっていくところだった。
事情は分からなかったが、席があるのだけは分かった。だから鈴を鳴らして、言った。空いてますよ、お嬢さん。乗合には、いつでも席がありますから。
お嬢さんは、泣き止んで乗ってきた。それから、ずっと乗っている。
わしは公爵家の御者を長くやったから、どこの家の娘が、どんなふうに馬車に乗るかは知っている。夜会帰りのドレスの客は、たいてい裾を汚されないかばかり気にする。そうすると、仕事帰りの客のほうが縮こまる。ドレスに石の粉でも付けたらことだと、膝を抱えて隅に寄る。
うちのお嬢さんは、段の前で裾をまとめて、座る前に膝の上で畳む。籠を抱えたドニーズを入口の脇に座らせて、自分は奥へ詰める。お嬢さんの隣で縮こまった客を、わしは三年、一人も見たことがない。
◇
お嬢さんが公爵様のお屋敷へ移る日、わしは昼の便を若いのに代わってもらった。
楡通りで、坊ちゃんが帽子の箱を一つ抱えて段を上がってきた。人前では旦那と呼ぶが、わしの腹の中では、今でも坊ちゃんだ。御者台の上から小さい頃を見てきたが、女の人の帽子の箱を抱える坊ちゃんは、初めて見た。
乗合の噂は、乗合の速さで回る。公爵邸前で乗る下働きが話し、王宮の門番小屋が話し、ドニーズが店先で話す。公爵家の前庭のことは、幾日もしないうちに、緑の客なら誰でも知っている話になった。
それからしばらくして、昼の便に、帳面を抱えた男たちが乗ってきたと、若いのが言った。仕立て屋と宝石商の手代で、そろって楡通りで降りたそうだ。その晩の夜の便で、わしは帰りの手代たちを乗せた。
「一度に来られちゃ、伯爵様だって払えまいよ」
「こっちだって、噂を聞いたら待っちゃいられない。三年分、溜まりに溜まって三百枚近くだぞ」
何の払いかは、尋ねるまでもなかった。下のお嬢さんのドレスと宝石だ。
◇
膝の言ったとおり、次の日は雨だった。
夕方の便が楡通りの角に着くと、停留所に、伯爵様のところの侍女が、ドレスの箱を重ねて抱えて立っていた。その後ろに、奥様と、下のお嬢さんがいた。
家の馬車は、伯爵様が金貸しのところへ乗っていったと、侍女が小声でわしに言った。箱は、仕立て屋へ返しに行くドレスだそうだ。
奥様は、段の下で緑を見上げた。わしの顔を見て、乗合の中を見て、それから、わしの顔に目を戻した。
「席は、あるの」
わしは、鈴を一つ鳴らした。
「乗合には、いつでも席がございます」
誰に言うのとも、同じことを言っただけだ。あの秋に、門の前の女の子に言ったのと、同じことを。
去年の秋の雨の晩も、わしはこの段に立っていた。同じ停留所に、お嬢さんとマルトさんが一本の傘を傾けて立っていて、その前を、伯爵様の箱馬車が止まらずに走っていった。奥にいた坊ちゃんが窓に額を寄せたのも、わしは段の上から見ていた。
今夜、その箱馬車の奥様が、同じ停留所で、緑の席はあるかと聞いた。
奥様は、何も言わずに段を上がった。下のお嬢さんは裾を畳まずに座ったので、淡い色のドレスが二人分の席に広がった。入口の脇で、ドニーズの籠が傾いた。いつもなら真っ先に口を開くドニーズが、その晩は一言もしゃべらずに、籠を膝の上で抱え直した。
奥様は、噴水広場に着くまで、どの客の顔も見なかった。車内の誰も、奥様に話しかけなかった。看護婦たちの歌も、その晩は聞こえなかった。
「噴水広場ー」
仕立て屋は、広場の向こうの角にある。侍女が箱を抱えて降り、奥様が降り、最後に下のお嬢さんが、広がった裾を段の上で踏んで、よろけながら降りていった。
雨の中を、三人は傘を一本だけ差して歩いていった。
わしはそれを見送って、鈴を鳴らした。
◇
このことは、お嬢さんには言わないでおこうと思っていた。
ところが次の晩、公爵邸前からお嬢さんと坊ちゃんが乗ってくると、ドニーズが入口の脇から身を乗り出して、全部しゃべってしまった。お嬢さんは、黙って最後まで聞いていた。聞き終わってから、一つだけ、わしに尋ねた。
「ジョスさん。お継母様は、ちゃんと座れたのね」
「へい。お座りになりました」
「そう。よかった」
坊ちゃんは、その横顔を、何も言わずに見ていた。
それから何日かたった夜の便で、噴水広場の停留所に、夜会のドレスの若いお嬢様が三人、侍女を連れて立っていた。緑にドレスで乗る客といえば、うちのお嬢さんだけのはずだった。
段を上がってきた先頭のお嬢様が、鈴を持ったわしに、ひそひそ声で聞いた。
「ねえ。一番奥の席って、どこ?」




