一番奥は、縁結びの席
その夜の夜会は、西の丘の上のデュフレーヌ侯爵家で開かれた。
先代公爵夫人は、いつものように公爵家の馬車で先に出た。オクターヴ様と私は、マルトと一緒に門の前の停留所に立った。少し離れた街灯の下には、帽子の職人さんが、塀に背を預けて居眠りのふりをしていた。
緑が坂を上ってきた。
その窓という窓が、ドレスの色で埋まっていた。
「公爵邸前ー」
段の上のジョスさんが、いつもより低い声で停留所を呼んだ。私と目が合うと、白い口ひげの下で、申し訳なさそうに口をすぼめた。
段を上がって、私は立ち止まった。
左右の腰掛けに、夜会のドレスの令嬢たちが、侍女と二人ずつ並んで座っていた。どの裾も畳まれずに広がっていて、隣の席の半分まで流れこんでいる。十二人掛けの乗合に、座っているのは数えるほどの人数なのに、空いている席はほとんどなかった。
一番奥の、二つの席だけが、ぽっかりと空いていた。
マルトは黙って入口のそばに立った。
「本当に乗っていらしたわ」
「あの方が、ベルクール家の」
ささやきが、腰掛けの端から端まで走った。
入口の段の脇に、ドニーズさんが立っていた。籠を腰に載せて、片手で段の脇の鉄の握りを握っている。その向こうでは、看護婦さんたちが壁に手をついて、揺れに体を預けていた。座る場所がないのだ。
入口の脇の隅には、石の粉の付いた上着の石屋のブノワさんが、背中を丸めて押しこまれていた。公爵家の舞踏会の晩、私の裾が段に掛からないよう、靴で押さえてくれた人だ。上着の前を両手で合わせて、隣の令嬢の裾から体を離している。
「ドレスに粉でも付けて、弁償しろなんて言われちゃ、たまらねえ」
ブノワさんは、誰に言うともなく、ぼそりと言った。
(あの晩、王宮の広間で、私が乗り方を話したから)
令嬢たちは、たぶん、悪いことをしているつもりはない。乗合が珍しくて、楽しくて、乗りに来ているだけだ。
私は自分の席へは進まずに、ドニーズさんのそばへ寄った。
「ドニーズさん、奥へ座って。私が立つわ」
「よしてくださいよ、お嬢さん」
ドニーズさんは、籠を抱え直して首を振った。
「お嬢さんが立ったら、余計に騒ぎになりますよ。それにね」
ドニーズさんが、声をひそめた。
「あの一番奥の二つ、あれ、縁結びの席って呼ばれてるんですよ」
「縁結び?」
「王宮の門番小屋の連中が言い出したんです。緑の一番奥に座った娘には、良い縁談が来るって。お嬢さんが座って、公爵様と縁ができたからですよ。公爵様がお乗りにならない晩は、あそこの取り合いなんですって。今夜はお二人がお乗りになるって門番小屋から回ってきたんで、ああして空けてあるんです」
(あれは、縁結びの席ではなくて、オクターヴ様が時刻表を直していた席なのだけれど)
振り返ると、オクターヴ様は入口のそばに立ったまま、車内を端から端まで見ていた。その口元は、少しもゆるんでいなかった。
結局、私たちは一番奥に座った。私たちが座らないかぎり、誰もそこに座らないからだ。腰を下ろすと、令嬢たちから小さな拍手が起きた。私は座る前に、裾を膝の上で畳んだ。それを見ている令嬢は、一人もいなかった。
◇
侯爵家の夜会では、もっと可笑しなことが起きた。
夜が更けて、壁の時計がそろそろの時刻を指すと、あちこちで令嬢たちが膝を折りはじめたのだ。
「そろそろ、失礼いたします。最終便が九時四十分ですので」
「わたくしも、最終便が」
「最終便が、九時四十分ですので」
デュフレーヌ侯爵夫人が目を白黒させている横で、オクターヴ様は窓の外を向いて、必死に笑いをこらえていた。
けれど、笑っていられたのは、王宮前の停留所までだった。
最終便の緑は、乗りこんだ令嬢たちで、たちまち埋まった。座れなかった侍女たちが、腰掛けのあいだの通路にまで立って、裾と裾がこすれ合っている。人ひとり、段に足を掛ける隙間もなかった。私たちが一番奥に座り、ジョスさんが段の上で鈴を構えたとき、停留所の灯りの下に、看護婦さんたちが立っているのが見えた。これから夜勤に入る人たちだ。
ジョスさんが、看護婦さんたちへ帽子を取ってみせた。
「すまんねえ。もう、いっぱいで」
「いいのよ、ジョスさん。歩くから」
一番若い看護婦さんが、笑って手を振った。鈴が鳴り、緑が動き出した。窓の外で、看護婦さんたちが肩をすくめて、暗い坂道を歩きはじめた。
私は、その姿から目を離せなかった。
停留所に立つ人の前を、席のある馬車が、止まらずに行ってしまう。去年の雨の夜の私と、同じだった。違うのは、今夜の私は、その馬車の中の、一番奥の席に座っていることだった。
◇
「公爵邸前ー」
段を降りると、入口の窓から、ドニーズさんが身を乗り出して私を呼んだ。最終便でも、籠を抱えたまま、まだ立っていた。
「お嬢さん! 言い忘れてました。楡通りのお屋敷の下のお嬢さんがね、明日の晩から、緑に乗るんですって。縁結びの席に座るんだって、侍女に言ってたそうですよ!」
返事をする前に、鈴が鳴った。緑は、ドニーズさんを窓に乗せたまま、坂を下っていった。
その灯りの後ろの段で、ジョスさんが片手で膝をさすっていた。行きも帰りも、ずっとあの段の上に立っていた。そういえば私は、ジョスさんが座っているところを、一度も見たことがない。
門の前で、私はオクターヴ様に話した。看護婦さんたちのこと、ドニーズさんの籠のこと、ブノワさんの上着のこと。
オクターヴ様は、口を挟まずに最後まで聞いた。聞き終えると、乗合の帳場の話をした。令嬢たちと侍女たちの運賃のおかげで、緑の夜の便の帳尻が、久しぶりに合ったのだという。
「だが、帳尻を合わせるために、立って乗る客を作ったのではない」
車を足せればいい。けれど乗合の車体は、車大工の工房で一台仕上げるのに、ひと冬かかる。赤や青の路線から回せば、今度はそちらの客が立つことになる。
「すぐに足せる席は、ない」
オクターヴ様は、もう見えなくなった緑の行った先を、しばらく見ていた。
アンブルが、明日の晩から緑に乗る。縁結びの席に座りに。
私は、手首に提げた手提げを、そっと握りしめた。




