私の隣の席に
門番は、乗合から降りてきたドレスの私を見て、一度だけ目をこすった。それから何も聞かずに、マルトを供の控えの間へ案内していった。
門の内側には、前庭がどこまでも広がっていた。
敷石の道が、灯りの列のあいだを大階段までまっすぐ延びている。その両脇で、先に馬車を降りた客たちが、まだ玄関へ上がらずに話しこんでいた。私が門をくぐると、その顔が一つ、また一つとこちらを向いた。
「乗合から……」
「あれは、ベルクール伯爵家の」
私は裾を持ち上げ、敷石の上を歩いた。
大階段の前には、人の輪ができていた。輪の真ん中に、さっき伯爵邸の玄関で見た鷺の紋の馬車がある。その脇で、淡い金のドレスのアンブルが、顎を上げて立っていた。もう一段広げた裾が、敷石の上に花のように開いていた。隣には継母と父がいた。家の馬車も、もう着いていたらしい。
大階段のいちばん上に、先代公爵夫人の白い髪が見えた。
いちばん下の段には、公爵閣下が立っていた。
近づくにつれて、継母の声が聞こえてきた。
「――それで閣下、クレマンスは、今夜は気分がすぐれないと申しまして、家に残りましたの。せっかくのお迎えでしたので、代わりにアンブルを」
公爵閣下は、ひと言も返していなかった。継母のほうも、アンブルのほうも見ていない。その目は、ずっと門のほうに向いていた。
やがてその目が、継母の肩越しに、私の上で止まった。
門の外で、もう一度鈴が鳴った。ジョスさんは、私が前庭の人の輪にたどり着くまで、緑を出さずに見ていてくれたのだ。その緑が、ようやく終点へ向けて動き出した。
公爵閣下が、最後の段を下りた。継母の脇を抜け、アンブルの広げた裾の前も通り過ぎて、敷石を踏んで、まっすぐ私の前まで来た。
「来たか」
「はい。緑の、七時十分で」
「そうだろうと思った」
階段の上から、先代公爵夫人の声が降ってきた。扇は閉じたままだった。
「まあ。気分のすぐれない方が、乗合馬車でいらしたのね」
輪のまわりの客たちが、そろって扇や手袋で口元を覆った。どこかの植え込みの陰から、こらえきれなかった笑い声が漏れた。
継母がこちらへ首を回した。私の姿を見つけた唇が開いて、そのまま固まった。
先に声を上げたのは、アンブルだった。
「どうして来られるのよ! 馬車には席がなかったはずでしょう!」
前庭から、音が消えた。
「アンブル!」
継母が叫んだときには、もう遅かった。
公爵閣下は、鷺の紋の馬車のそばに控えていた御者へ顔を向けた。
「伯爵夫人は、何と言った」
「は、はい。お姉様は支度が間に合わないので、先に妹様を、と。お姉様は後から伯爵家の馬車でお見えになる、と」
御者の声は震えていたけれど、一言も飛ばさなかった。公爵閣下はうなずき、継母に向き直った。
「伯爵夫人。伯爵家の馬車に、彼女の席はなかった。今夜は、私の家の馬車からも、あなたがたは彼女の席をなくした」
「閣下、これは、何かの手違いで……」
父が、継母を押しのけるように前へ出た。
「アンブルも、私の娘でございます。年頃もちょうどよく、きっと閣下のお気に」
「伯爵」
公爵閣下は、声を荒らげなかった。
「私が迎えに行かせたかったのは、三年、乗合で来た人だ」
父は、それきり何も言わなかった。
公爵閣下は、もう一度私のほうを向いた。そして前庭の人の輪の真ん中で、私の右手を取った。
「クレマンス嬢。迎えの馬車は、届かなかった。だから、ここで言う」
ひと呼吸ぶんの間があった。
「私の隣の席に、これから先、ずっと座ってくれないか」
乗合には、いつでも席がある。泣いていた秋の日から、それが私の杖だった。空いている席なら、どこにでも座れた。
けれど、この人の隣は、たまたま空いていた席ではない。この人が、私のためだけに取っておいて、差し出してくれた席だ。
「……はい」
かすれた声になった。それでも、ちゃんと届いたらしい。オクターヴ様の顔が、箱が二つ、と聞いたときと同じにほどけた。
輪の外で、誰かが一度だけ手を打った。すぐに隣の誰かが続き、植え込みの陰の笑い声まで加わって、拍手は前庭じゅうに広がった。
拍手が収まるのを待って、先代公爵夫人が大階段を一段ずつ下りてきた。継母の正面まで来て、立ち止まる。
「伯爵夫人。わたくしの家が迎えの馬車を差し向けたのは、上のお嬢さんお一人でした。その馬車を下のお嬢さんのためにお使いになって、息子に嘘をおっしゃいましたね」
「お、大奥様、それは」
「今夜は、お引き取りを。この先、わたくしの家からのお招きはございません」
継母の唇が動いたけれど、言葉にはならなかった。頭を下げたのは、父のほうだった。腰を深く折ったまま、しばらく上げなかった。アンブルは広げた裾を両手で握りしめ、今にも泣き出しそうな顔で、継母の腕にすがっていた。
家族がうちの箱馬車へ引き返していくと、先代公爵夫人は、その三つの背中に向かって言った。
「お帰りの馬車には、お席がおありでしょうね」
◇
広間に上がってから、オクターヴ様とは、数えるのをやめるほど踊った。
夜が更けて、壁の大時計を見上げた私の口から、「最終便が」と癖が出かかった。言い終わらないうちに、オクターヴ様がうなずいた。
「知っている。一緒に乗ろう」
玄関まで見送りに出てくださった先代公爵夫人は、別れぎわ、私の手を両方の手のひらで包んだ。
「乗合で来るお嫁さんなら、この家にはちょうどいいわ。あの子の乗合の話を、最後まで聞いてくれる人がいなくて、困っていたの」
最終便の緑で、オクターヴ様は楡通りまで一緒に乗ってくださった。そこから伯爵邸の門の前まで、並木の下を歩いて送ってくださった。控えの間から戻ったマルトが、二歩後ろをついてきた。
「お帰りは、どうなさいますの。もう乗合は来ませんわ」
「歩く。二つ先の停留所だ」
門の陰から、帽子の職人さんが一人、すっと出てきた。王宮へ行った晩に、緑の入口の脇で居眠りをしていた人だった。オクターヴ様は振り向きもせずに、その人と並んで、来た道を戻っていった。
門の内側では、家の窓の灯りが、まだどれも消えていなかった。




