家の馬車にも、あなたの席はないわ
「姉は後から、家の馬車でまいりますから」
継母は、続けてそう言った。
階段の途中からでも、御者が何か言いかけたのが分かった。公爵家の御者は帽子を胸に当てたまま、「ですが、奥様、手前がお迎えに上がったのは――」とまで言った。継母が同じことを、今度はゆっくり言い直すと、御者はそれきり口をつぐんだ。伯爵家の奥方にそう重ねられては、よその家の御者に返す言葉はない。
私が階段の下に着いたときには、淡い金の裾が、黒塗りの馬車の扉の中へ吸い込まれていくのが見えた。もう一段広げたばかりの裾は扉の枠につかえ、アンブルの侍女が後ろから両手で押していた。
扉が閉まった。灰色の鷺は、門の外の暗がりへ走り去った。
玄関の広間の隅で、執事が目を伏せていた。若い女中が一人、私に向かって口を開きかけ、そのまま執事の背中に隠れた。
その後ろへ、うちの箱馬車が回されてきた。父がさっさと乗りこみ、継母は段に片足を載せたところで、ようやく私に気づいたように振り返った。
「あら、あなた、まだいたの。家の馬車にも、あなたの席はないわ。アンブルの予備のドレスが乗っているの」
扉が閉まった。窓の向こうの父は、私のいるほうへ顔を向けなかった。
(公爵家の馬車にまで席がないとは、さすがに思わなかった)
家の馬車に席がないのには、慣れている。腹を立てても席は空かない、と三年かけて覚えた。けれど今夜の馬車は、家の馬車ではなかった。あの方が、私のために用意してくださった席だった。それを、私の目の前で取られた。
悔しい、と思った。三年で、初めてそう思った。
玄関の石段に立って、私は手提げを開けた。厚紙の升目は、ちょうど一つ残っていた。
「緑の便でございます」
後ろでマルトが言った。いつもより、声が低かった。外套を広げて待つ手が、少し震えていた。
「奥様は、扉を閉めるのだけは、お上手でいらっしゃいます」
マルトが継母のことを口にしたのは、あとにも先にも、この一度きりだった。
「ええ。一回、残しておいてよかったわ」
* * *
楡通りの角の停留所で、私とマルトは緑を待った。
ほんの少し前に、鷺の紋の馬車がこの角を曲がっていったはずだった。今ごろアンブルは、あの黒塗りの扉の内側で、どんな顔をしているのだろう。
「お嬢様」
マルトが、通りの先を見たまま言った。
「公爵様は、お分かりになります」
何がお分かりになるのか、マルトは言わず、私も尋ねなかった。
緑は今夜も、時刻を違えずに角を曲がってきた。
「おや、今夜は公爵様のお屋敷ですかい」
段の上で鋏を構えたジョスさんが、私の顔を見て、手を止めた。
「……お嬢さん。何かありましたね」
私が事情を話すと、入口の脇で、ドニーズさんが籠ごと腰を上げた。
「公爵様のお迎えの馬車に、妹さんが乗っていったって!?」
「ドニーズさん、座って。揺れるわ」
「座ってなんかいられますか!」
車内じゅうが、いっぺんにざわめいた。迎えの馬車を、奥様が、よくもまあ。誰の声も、私のために怒っていた。
向かいの席で、石の粉だらけの上着を着た職人さんが、腕を組んだまま唸った。西の丘のお屋敷の普請に、夜の仕上げ仕事で通っている人で、いつも口が悪い。
「俺らの乗合の、うちのお嬢さんに、そういうことをするかね」
その人が私を「うちのお嬢さん」と呼ぶのを、初めて聞いた。
ジョスさんだけが、黙っていた。黙って、最後の升目に鋏を入れた。それから、いつもよりずっと時間をかけて、回数券を私の手に返した。
「お嬢さん、髪のリボンが曲がってますよ。ちょっと、こっち向いて」
ドニーズさんの指は、パンの粉で白かった。その指が、私の髪のリボンをほどいて、きゅっと結び直した。看護婦さんの一人は、自分の手巾を出して、私の靴の先に跳ねた泥を拭こうとした。私が慌てて断ると、その人は「じゃあ、せめてここだけ」と、膝の上で畳んだ若草色の折り目を、指でそろえてくれた。
乗合の誰も、私に「どうにでもなるだろう」とは言わなかった。
「ジョスさん。公爵邸前の停留所は、門のすぐ前だったわね」
「へい。お屋敷の下働きが雨に濡れずに通えるようにって、旦那が門の真ん前に置いたんで」
ジョスさんは鋏をしまいながら、白い口ひげの端をひくりと動かした。
「門から大階段まで、乗合を降りてまっすぐですよ。お嬢さん」
噴水広場を過ぎ、乗合は坂にかかった。窓の外の灯りが、だんだん大きな屋敷の門灯に変わっていく。
継母は、公爵閣下に何と言うのだろう。支度が間に合わない、では、もう通らない。アンブルを乗せた馬車は、とっくに着いているはずだ。
「公爵邸前ー」
鈴の音が、いつもよりずっと大きかった。
先に段を降りた石屋の職人さんが、私の裾が段に引っかからないように、黙って段の端を靴で押さえてくれた。王宮前まで行くドニーズさんは、降りていく私の背中に向かって叫んだ。
「しっかりね、お嬢さん! あたし、門番小屋の連中に、全部言ってやりますからね!」
降りたところは、門の真ん前だった。開いた門の向こうの前庭に、灯りが列になって並んでいる。その奥の大階段の下に、鷺の紋の黒塗りの馬車が止まっていた。




