回数券の残りは、足りているか
翌朝の食卓に、灰色の鷺の封蝋が付いた手紙が二つ並んだ。
執事が銀の盆に載せて運んできたのを、継母が二通とも自分の手元へ引き寄せた。表書きは、上が「ベルクール伯爵ご一家様」、下が「クレマンス・ベルクール嬢」。継母は上の封筒を先に開けた。近く公爵家で開かれる舞踏会の招きで、読み終えた継母の口元がほころんだ。
下の封筒を開けると、継母はそのまま長いこと黙った。それから便箋を、私のほうへは向けずにテーブルに置いた。逆さまでも、几帳面な女性の字は読めた。用件だけが書いてあった。
当日の夕方に、お迎えの馬車を差し向けます。
それから急に、パンにバターを塗る手を止めて、アンブルのほうを向いた。
「あの淡い金のドレスがいいわ、アンブル。公爵家の舞踏会ですもの。首飾りは、真珠のほうにしましょう」
「お母様、金のドレスに真珠は地味よ」
「だからいいのよ。古いお家では、派手すぎないほうが好まれるの」
二人の話は、首飾りから靴へ、靴から髪飾りへと移っていった。私宛ての便箋は、継母の皿の横に置かれたままだった。
父がその便箋に手を伸ばして、自分のほうへ向け直した。
「公爵が、クレマンスを、か」
父は、その一行を二度読んで首をひねった。
「……アンブルのほうが、年頃もちょうどいいと思うんだがな」
(年頃なら、私のほうがよほどちょうどいいはずだけれど)
私は黙って、残りのお茶を飲み干した。
部屋へ戻ってから、執事がそっと届けてくれた私宛ての便箋を、もう一度だけ読んだ。迎えの馬車、と書いてある。三年、家の馬車の扉は私の前で閉まってきた。私のために扉を開けて待つ馬車というものを、私はまだ見たことがない。
◇
その日の昼、マルトと東の市場へ出た。靴の踵の直しを、自分で頼みに行くためだ。
昼の緑は、夜とは顔ぶれが違う。買い物籠を提げた奥さんたちと、使いの小僧さんたちで、車掌もジョスさんではなく、まだ若い人だった。その若い車掌さんが、楡通りで私の回数券を受け取るなり、鋏を持ったまま固まった。
「あの、楡通りのお嬢さんですよね。ゆうべの」
「ゆうべの?」
「いえ、何でもないです。どうぞ、奥へ」
穴は開けずに、回数券を返された。乗合の噂は、どうやら乗合より速く走るらしい。
市場の停留所の前に、ドニーズさんのパン屋がある。店先の台の向こうから、ドニーズさんが粉だらけの前掛けのまま飛び出してきた。
「お嬢さん! 本の人が、公爵様だったなんて!」
「ドニーズさん、声が」
「声なんか出しますよ! 二年ですよ、二年もお嬢さんの隣で本を読んでて! ゆうべ王宮の門番小屋にパンを届けたら、もうその話でもちきりで。広間で奥様に『私の事業だが?』っておっしゃったんですって?」
門番小屋の夜食の時間は、舞踏会の最中だったはずだ。王宮の門番は、広間の中のことまで知っているらしい。
「それにね、ジョスさん。あの人、ずっと知ってて黙ってたんですって。あたしにまでですよ!」
「ジョスさんは、約束を守る人なのね」
「そういうところが腹が立つんです」
ドニーズさんは怒った顔のまま、台の上の丸パンを一つ取って、紙にくるみ、私の手提げに押し込んだ。お代を出そうとすると、手の甲を軽くはたかれた。
「で、お嬢さん」
声を落として、ドニーズさんが顔を寄せてきた。
「公爵様のこと、どう思うんです?」
「どう、と言われても。ゆうべ初めてお話ししたのよ」
「二年も隣に座ってて、ゆうべ初めて?」
「会釈は、毎回していたわ」
ドニーズさんは天を仰いで、店の奥のご主人に「聞いた? 会釈だって!」と叫んだ。奥から、パンを焼く窯の音に混じって、ご主人の笑う声がした。
帰りの緑では、運賃を銅貨で払った。回数券の残りの一回は、なんとなく使わずに取っておきたかった。
◇
何日かたった朝、玄関に公爵家の従僕が立った。差し出されたのは、白い薔薇が一輪と、小さなカードだった。
カードの字は角ばっていて、書いてあることも短かった。
回数券の残りは、足りているか。O
玄関でそれを読んでいると、階段の上からアンブルが薔薇を見つけて、継母の袖を引いた。継母は薔薇を見て、カードは見なかった。
後ろからのぞいたマルトが、低い声で言った。
「回数券のご心配をなさる公爵様というのは、初めてお見かけいたします」
私はカードを裏返し、そこに返事を書いて、待っていた従僕に託した。
あと一回ございます。舞踏会の夜は迎えの馬車に乗せていただきますので、足ります。C
舞踏会の日まで、継母は私と口をきかなかった。白い薔薇にも、カードにも、迎えの馬車にも、ひと言も触れない。そのかわりに仕立て屋を二度呼んで、アンブルの淡い金のドレスの裾を、もう一段広げさせていた。
継母が私に何も言わないときは、たいてい何かを決めたあとだ。三年で、それくらいは覚えた。
◇
舞踏会の日の夕方、マルトに髪を結ってもらった。ドレスは、いつもの若草色しかない。マルトが今年も手直ししてくれたものだ。
迎えの馬車が来るのだから、要らないはずの回数券を、私は癖で手提げに入れた。升目の残りは、ちょうど一つだった。
約束の刻限が近づいたころ、玄関の前で車輪の音が止まった。二階の窓から見下ろすと、黒塗りの馬車の扉に、灰色の鷺の紋が付いていた。
私は手提げを取って、階段を下りはじめた。玄関の扉は、もう開いていた。
継母の声が、下から聞こえてきた。
「ご苦労さま。クレマンスは、支度が間に合いませんの。先に妹をお願いね」




