緑の一番奥の席【オクターヴ視点】
王宮前を出る最終便は、いつも空いている。
夜会の客は家の馬車で帰る。王宮の下働きは、夜半を過ぎるまで帰れない。最終便に乗るのは、これから夜勤に入る看護婦と、遅くまで働いた職人が少し。それに、入口の脇で居眠りをしている帽子の男だ。
帽子の男は、眠ってはいない。公爵家の護衛のバルナベで、もとは王の軍にいた。私が乗合に乗るなら護衛を付けろ、と母が言って譲らなかった。その答えが、職人の身なりで同じ便に乗り、入口の脇で目を閉じている男だ。あの席からなら、乗り降りの段と一番奥の両方が見える。
段の上で、ジョスが外套を返してよこした。ジョスはもとは父の代の御者で、膝を悪くして御者台を降りたとき、自分から車掌をやりたいと言ってきた。私が乗っていることも、バルナベが何者かも、この男は四年黙っている。
私は運賃の銅貨を二枚、ジョスの手に載せた。乗合を走らせている者でも、乗れば客だ。
それから、一番奥の席に座った。
隣に、若草色の裾が畳まれて置かれた。
◇
初めて見たのは、二年前の秋だった。
夜会のある夜は、王宮へ行く前に緑の一番奥に座ることにしている。乗らない者に、乗合の良し悪しは分からない。誰がどこで乗り、どこで降り、何を抱えているか。何人が座れずに立ち、どの停留所で誰が乗れずに見送られるか。帳場の数字には出てこないことを、私はこの席から見てきた。
その夜、楡通りの停留所から、ドレスの令嬢が侍女を連れて乗ってきた。緑の夜の便で、貴族の娘を見たのはあれが最初だ。
令嬢は段の前で裾をまとめ、座る前に膝の上で畳んだ。入口の脇が空いているのに、そこには座らず、籠を抱えたパン屋のおかみに席を譲って、自分は奥へ詰めた。車掌を「ジョスさん」と名で呼び、看護婦たちの歌が終わるまで口を挟まなかった。帰りは、決まって最終便だった。
乗合を、私が思い描いたとおりに使っている人を、私はそのとき初めて見た。
声をかけなかったのは、その人が乗合を自分で選んで乗っているように見えたからだ。乗合を始めた男が隣にいると知れば、あの人は乗合の客ではなくなる。それで、会釈だけにした。侍女が小声で私を「書記さん」と呼んでいるのを聞いてからは、それも少し気に入っていた。
去年の秋の雨の夜、私は同じ窓から、楡通りの停留所を見た。傘を一本、裾のほうへ傾けて、二人が肩を濡らして立っていた。その前を、伯爵家の紋の付いた箱馬車が、速さも落とさずに通り過ぎた。
席のある馬車が、席のない者の前を通り過ぎていく。私が王都で見たくなかったのは、ああいう景色だった。
その夜から、私は楡通りの令嬢の家の馬車の席を数えるようになった。四人乗りの箱馬車に、伯爵と夫人と下の娘。それで三つ。残る一つには、夜会の夜はたいてい箱が載っていた。下の娘の裾が、その箱の上にまで流れていることもあった。
数えても、席は増えない。それくらいは承知のうえで、私は夜会のたびに窓から数えた。
◇
今夜、私は初めて口をきいた。予備のドレスの箱が二つ、と言われて、私は人前で腹を抱えた。広間で母があの問いを口にすることも、母の顔を見たときに分かっていた。
最終便が王宮前の坂を下りはじめた。
クレマンス嬢は手提げから回数券を出し、ジョスに穴を一つ開けてもらった。厚紙の升目は、残り一つになっていた。
「近いうちに、母が舞踏会を開く」
言うつもりだったことを、私は言った。
「来てくれないか。迎えの馬車をやる。あなたの席が、確かにある馬車を」
「乗合でも、参りますのに」
「知っている」
窓の外を見たまま言った。顔を見て言える気がしなかった。
「だが一度くらい、迎えに行かせてほしい」
隣で、裾を押さえる手が少し動いた。しばらくして、はい、と小さな声がした。
「公爵邸前ー」
ジョスの鈴が鳴った。坂を下りきる手前の、私の家の門の前だ。王宮前から、ひと停留所しかない。私の作った路線で、いちばんもったいない区間だった。
段を降り、門の前に立った。緑の灯りが坂を下って小さくなり、噴水広場の手前で消えるまで、私はそこにいた。
いつのまにか、バルナベが隣に立っていた。帽子を取って、言った。
「閣下。今夜は、寝たふりが難しゅうございました」
◇
屋敷の玄関の広間で、母が待っていた。王宮からは馬車で先に戻っていたらしい。
「あのお嬢さんは、どうして乗合に?」
私は、雨の夜の停留所のことを話した。二年、緑の夜の便で見てきたことも話した。母は扇を閉じたまま、最後まで口を挟まなかった。
「迎えの馬車は」
聞き終えると、母が言った。
「紋の付いた、一番いいのを出しなさい。お迎えにやるのは、あのお嬢さんお一人のためだと、誰が見ても分かるように」
母はそのまま書き物机に向かい、招きの手紙を二通、自分の手で書いた。一通は「ベルクール伯爵ご一家様」宛て。もう一通は、クレマンス嬢の名宛てだった。
二通目に封蝋を落としながら、母が言った。
「伯爵家の方々が、二通目をどうお読みになるかしらね」
私は、伯爵家の四人乗りの箱馬車を思い浮かべていた。三人とドレスの箱が一つで、満ちてしまう馬車だった。




