乗合馬車は、私の事業だが?
囁きは、扇の陰から扇の陰へ、波のように渡っていった。
「乗合公爵が……」
「どなたかの手を引いていらっしゃるわ」
「初めてではなくて?」
公爵閣下は、聞こえていないような顔で広間に足を踏み入れた。私の手は、黒い袖の上に載ったままだった。
壁際に、家族の姿があった。薄桃色の大きな裾は、遠くからでもすぐに見分けがつく。その隣で、継母が開きかけた扇を胸の前に止めたまま、こちらを見ていた。
継母が動き出すまでに、楽団は前奏を一つ弾き終えていた。継母は扇を開き直し、裾をつまんで、人の間を縫うように近づいてきた。
「まあ、クレマンス。あなた、どうやって……」
「緑の乗合で参りました。七時十分の便です」
扇が、ぴたりと止まった。
継母は私から目を外し、公爵閣下へ向き直った。声が、蜂蜜を垂らしたように甘くなった。
「閣下、お恥ずかしいところをお目にかけまして。この子は少し変わっておりますの。家の馬車を嫌がって、勝手に乗合などに乗りますのよ。本当に、家の恥ですわ」
公爵閣下は、首をかしげた。
「乗合馬車は、私の事業だが?」
近くの白髪の紳士が、ぶふっと妙な音を立てた。咳払いで取り繕おうとしたけれど、連れの夫人のほうは扇で顔の半分を隠して、肩を小刻みに震わせている。
継母の頬から、紅だけを残して色が引いた。
「そ、そうでございましたわね……」
「それに」
公爵閣下は、声の大きさを少しも変えなかった。
「彼女が家の馬車を嫌がっていたようには、見えなかった。去年の秋の雨の夜、楡通りの停留所で、伯爵家の紋の馬車が彼女の前を通り過ぎるのを、私は乗合の窓から見た」
継母の後ろから、父が出てきた。額に汗が光っている。
「閣下、あれは……アンブルのドレスが、嵩張りまして」
(それは、言い訳になっているのかしら)
「まあ、オクターヴ」
横合いから、よく通る声がかかった。銀に近い白髪を高く結った、すらりと背の高い年配の婦人が、杖も持たずにこちらへ来る。広間の人たちが、潮が引くように道を空けた。
「あなたが女性の手を引いているなんて。明日は雪かしら」
「母上」
先代のアルドワン公爵夫人だった。王都の社交界でこの方に逆らえる女主人はいないと言われ、この方の舞踏会の招待状が届くかどうかで、その年の令嬢の縁談の数が変わるとまで噂される。私は、遠くからお顔を拝見したことしかない。
先代公爵夫人は扇を閉じたまま、その先で父を指した。
「伯爵。いま聞こえたのだけれど。四人乗りの馬車に、お三方とドレスの箱で、上のお嬢さんの席がないの?」
父は口を開き、何も出てこないまま、また閉じた。
扇の陰の声が、さっきよりはっきりと聞こえてくる。
「乗合で、お一人で?」
「下のお嬢さんの箱に、席を取られたんですって」
「もう何年もですって」
父は、助けを求めるように継母を見た。継母は、扇の向こうで唇を噛んでいた。
アンブルは、ふくらんだ裾を持て余したまま壁際に立っていた。一曲目の申し込みは、とうとうアンブルのところへは来なかった。
◇
楽団が円舞曲を始めると、公爵閣下は私に手を差し出した。
「一曲、いいか」
手を預けると、広間の真ん中まで連れていかれた。いつも緑の隅で背を丸めて本をめくっていた人が、こんなふうに踊るとは思わなかった。足運びに迷いがなく、私の裾の重さまで勘定に入れて回してくれる。
「怒らないのか」
くるりと回る合間に、公爵閣下が言った。
「家の馬車のことでしたら、少しは」
「少しか」
「乗合が好きなのです」
ドニーズさんの甥御さんが、今年の春にパン職人の試験に受かったこと。雨が来る前の晩には、ジョスさんの膝が決まって痛みだすこと。夜勤へ向かう便の看護婦さんたちが、毎晩同じ歌を口ずさんでいること。回りながら、私はそういうことを話した。
「家の馬車に乗っていたら、どれも知らないままでした」
公爵閣下は相槌も打たずに聞いていた。最後の小節に入ったころ、低い声で言った。
「私が乗合を始めたのは、それが聞きたかったからだ」
「それ、とおっしゃいますと」
「馬車を持たない人が、銅貨二枚でどこへでも行けて、隣に座った人と話す。そういう馬車が、王都に欲しかった。……乗合のことを、そういうふうに話す人には、初めて会った」
曲がやんだ。公爵閣下の手は、それからもしばらく、私の手を放さなかった。
「ひとつ、お尋ねしても?」
「何だ」
「乗合で、いつも何を読んでいらしたのですか」
「時刻表の直しだ。表紙だけ、詩集にしてある」
(書記さんだと思われるわけだわ)
「……ときどき、本当に詩も読む」
付け足した声が、少しだけ早口だった。
壁際に戻ると、若い令嬢たちが扇を閉じて集まってきた。
「あの、乗合って、どうやって乗るの?」
「停留所で待っていて、来たら手を上げるだけです。運賃は銅貨二枚で、後ろの段の車掌さんに渡します。それから、座る前に裾を畳みます」
「裾を?」
「そんなに安いの?」
「私、銅貨って触ったことがないわ」
令嬢たちはくすくす笑いながら、今度、侍女と乗ってみようかしら、とささやき合った。その輪の外では、継母がアンブルの腕を取って、公爵閣下のそばへ寄ろうとしていた。けれど寄るたびに別の誰かが先に話しかけてしまい、二人はなかなか近づけなかった。
壁の大時計が、そろそろの時刻を指していた。私は公爵閣下に向き直って、裾をつまんで礼をした。
「そろそろ、失礼いたします。最終便が九時四十分ですので」
輪の中の令嬢の一人が、「最終便?」と目を丸くした。
公爵閣下の肩が、また揺れた。けれど今度は、すぐに収まった。
「送ろう。私も、最終便で帰る」




