箱が、二つでしたので
「はい。あなたも、今夜は終点まで?」
「仕事で」
返ってきたのは、それだけだった。乗合は楡通りを離れ、噴水広場へ下る大通りに入った。窓の外を、ガス灯の明かりが一つずつ後ろへ送られていく。
本の人はしばらく窓に顔を向けていたが、やがて私のほうへ向き直った。
「失礼だが、伯爵家の方だろう。なぜ、いつも乗合で」
「家の馬車に、私の席がございませんので」
「三年ですよ、三年!」
入口の脇から、ドニーズさんの声が飛んできた。籠を抱えたまま、腰を浮かせている。
「こんなにきれいに支度したお嬢さんを、置いて行くんですよ。下のお嬢さんのドレスの箱は乗せるのに!」
「ドニーズさん、声が」
「いいんですよ、言わせてくださいな」
看護婦さんたちが、口をそろえてそうだそうだと言った。本の人は入口のほうを一度見て、それから私に目を戻した。
「知っている」
「え?」
「去年の秋、雨の夜だった。楡通りの停留所に、ドレスのご令嬢が立っていた。その前を、紋の付いた箱馬車が、止まらずに通り過ぎていった。私はこの窓から見ていた」
あの晩のことは、よく覚えている。雨が強くて、私とマルトは一本の傘を裾のほうへ傾け、二人とも肩を濡らしながら緑を待った。家の馬車の車輪が水たまりを跳ね上げていったのも、覚えている。
あの晩、乗合の窓の内側に、この人がいたのだ。
「あの夜は、予備のドレスの箱が二つでしたので」
本の人の目が、一度だけ瞬いた。
それから、喉の奥で何かがはじけたような音がした。肩が揺れ、揺れが止まらなくなって声になり、膝の本を押さえたまま、本の人は笑い続けた。小声で歌っていた看護婦さんたちが口を閉じ、後ろの段のジョスさんが、何事かと車内へ首を突き入れた。入口の脇の職人さんまで、帽子の下で肩を揺らした気がした。
「すまない。……箱が、二つ」
「はい。片方は帽子の箱でした」
本の人は額に手を当てて、また肩を震わせた。
(書記さんが、こんなふうに笑う人だとは思わなかった)
噴水広場を過ぎ、乗合は西の丘への上り坂にかかった。
「公爵邸前ー」
鈴が鳴り、灯りの並ぶ大きな門の前で乗合が止まった。入口の近くに座っていた、お仕着せの上に外套を羽織った女の人が二人、そこで段を降りた。公爵家の下働きの人たちだろう。降りぎわに奥のほうを振り返り、そろって膝を折りかけた。本の人が小さく首を横に振ると、二人は慌てて門の中へ駆けこんでいった。
(公爵家の書記さんは、ずいぶん敬われているのね)
そう思ったものの、聞くのはやめておいた。本の人が、また本を開いたからだ。開いたまま、一枚もめくらなかった。
「王宮前ー、終点でございます」
ジョスさんの鈴が鳴った。
王宮の門の前には、着いたばかりの箱馬車が連なっていて、どの扉にも紋章が光っていた。扉が開くたびに、絹の裾と黒い礼装が灯りの中へ降りてくる。その列から少し離れた敷石の上に、緑の乗合は止まった。
本の人は先に段を降りると、外套の釦を外した。灰色の下から現れたのは、仕立ての良い黒の礼装だった。
門の衛兵がこちらに顔を向けた。それから槍をまっすぐに立て直し、背筋を伸ばした。
「アルドワン公爵閣下!」
(閣下?)
本の人は衛兵に軽くうなずき、灰色の外套を腕の上で畳んで、後ろの段へ差し出した。
「帰りの便で受け取る」
「へい、承知しました、旦那」
ジョスさんは、眉一つ動かさなかった。居眠りをしていた職人さんも、いつのまにか段を降りていて、帽子のつばを下げたまま、門の柱のそばに立っている。
本の人は、私に向き直った。
「名乗るのが遅れた。オクターヴ・アルドワンだ。この乗合を走らせている者だ」
アルドワン家といえば、王都の公爵家の中でもいちばん古い家だ。その当主が王家に願い出て、乗合馬車を始めた。私が初めて緑に乗った、少し前のことだったはずだ。社交界には、それを面白がって、陰で「乗合公爵」と呼ぶ人たちがいる。
書記さん、どころではなかった。後から段を降りてきたマルトと、目が合った。マルトの片方の眉が、わずかに持ち上がっていた。公爵邸前のお仕着せの人たちが膝を折りかけたわけも、ジョスさんが少しも驚かないわけも、これで分かった。
頭の中で、言うべきことがいくつも渋滞した。けれど口から出てきたのは、いちばん正直な言葉だった。
「クレマンス・ベルクールでございます。いつも、お世話になっております」
公爵閣下は真顔のまま、胸に手を当てた。
「こちらこそ。ご乗車、ありがとうございます」
マルトが小さく咳をした。笑いをのみこんだ咳だと思う。
それから公爵閣下は、私のほうへ肘を曲げてみせた。
「同じ乗合で来た者どうしだ。一緒に入らないか」
マルトは一礼して、門の脇の供の控えの間へ歩いていった。私は、黒い袖の上にそっと手を載せた。
* * *
王宮の回廊は長い。公爵閣下は、私の裾がもつれない速さに歩みを落として、黙って歩いた。回廊の窓から、門の前に並ぶ紋章の馬車の列が見えた。どこかにベルクール家の馬車もあるはずだった。
回廊の先で、大広間の扉は開け放たれていた。
扉の脇に立つ取次は、私たちの組み合わせに一瞬だけ言葉を探した。それから胸を張り、広間の隅まで届く声で告げた。
「アルドワン公爵閣下、ならびに、ベルクール伯爵家、クレマンス嬢」
天井から下がる大燭台の下で、数えきれない顔が、いっせいにこちらを向いた。




