馬車にあなたの席はないわ
本作は、短編「『馬車にあなたの席はないわ』と継母が言うので、乗合馬車で夜会へ。隣に座ったのは公爵閣下でした」の連載版です。第1〜9話は短編版をもとに加筆し、公爵と車掌の視点の回を足しています。第10話から短編の先へ進み、公爵家に移ったクレマンスと緑の乗合のお話になります。
「馬車にあなたの席はないわ。アンブルのドレスは裾が広いの」
段の上から振り返りもせずにそう言って、継母は私の鼻先で馬車の扉を閉めた。
ベルクール家の箱馬車に座れるのは、四人までだ。硝子窓の向こうに、父と継母、それに義妹のアンブルが並んでいる。アンブルが着ている薄桃色のドレスは、裾の下に何枚も重ねた張り布で大きくふくらみ、向かいの座席の半分まで流れ込んでいた。残った隙間に収まっているのは、予備のドレスを詰めた白い箱だった。
窓が下りて、アンブルが手を振った。
「お姉様のショール、私の箱に入れておいたわ。あとで返すわね」
その肩越しに、父がのぞいた。
「アンブルはまだこの家に慣れていないんだ。クレマンス、お前はどうにでもなるだろう」
御者の鞭が鳴った。馬車は門を抜け、楡の並木の向こうへ遠ざかった。
手首の手提げの口を開けて、私は厚紙の綴りを取り出した。鋏の穴がずらりと並んで、空いている升目はもう少ない。数えると、三回分だった。
「緑でございますね」
振り向くと、侍女のマルトが、私の灰色の外套を広げて待っていた。私が階段を下りてきたときには、もう抱えていたのだろう。
「ええ。今夜も、楡通りの角から」
(三年経っても慣れないのなら、あと何年かかるのかしら)
母が亡くなった翌年の夏に、父は再婚した。継母はもとは子爵家に嫁いでいた人で、前の夫を亡くしてから、娘のアンブルを連れてこの家に来た。その年のうちに、母の使っていた小さな馬車は売られた。それからは、家の馬車に私の座る場所があったためしはない。
家のことで、父が私に何かを望んだことも、たぶんない。この国では、伯爵の位は男の血筋にしか渡らない。私が婿を迎えても婿は伯爵になれないから、家はいずれ父の甥が継ぐ。父にとって私は、よそへ嫁がせれば片づく娘だった。
最初に置いていかれたのは、同じ年の秋の市の日だ。閉まった門の前で、私は声を上げて泣いた。泣いているうちに、通りの向こうから、腹に緑の帯を巻いたような大きな馬車がやってきた。王都を走り始めて、まだ一年にもならない乗合馬車だった。停まる場所でもないのに、後ろの段の白い口ひげの車掌が、こちらを見て鈴を振った。
「空いてますよ、お嬢さん。乗合には、いつでも席がありますから」
あの日から、席がないと言われたら、私は乗合馬車で行く。
継母の決めた小遣いで辻馬車を雇えば、一晩待たせただけで何か月分も飛んでいく。乗合は、端から端まで乗っても銅貨二枚で済む。まとめ買いの回数券も、もう三冊目に入った。マルトの運賃は、マルトが自分で払う。私が出すと言うたびに、黙って首を横に振る。
それなら家にいればいい、と継母は思っているのだろう。けれど招きの手紙はいつも「ベルクール伯爵ご一家様」宛てで、私もその一家に入っている。夜会に顔を出さない娘には、縁談の話が来ない。継母の狙いは、たぶんそこにある。それに私は、踊るのが嫌いではなかった。
私は外套に袖を通して、マルトと門を出た。
* * *
楡通りの角に立って少しすると、時刻のとおりに緑の乗合が曲がってきた。
屋根の付いた、細長い馬車だ。中には、左右の壁に長い腰掛けが一本ずつ、向かい合わせに据えてある。御者台の側の端を奥、後ろの乗り降りの段の側を入口と呼ぶ。その段の上で、車掌のジョスさんが鈴を振った。
「楡通りー。おや、今夜は王宮ですかい、お嬢さん」
「ええ。開きの舞踏会なの」
差し出した回数券に、ジョスさんが鋏で穴を一つ開け、片目をつぶってみせた。あの秋の日に、門の前で鈴を振ってくれたのがこの人だ。夜の便の段には、たいていジョスさんがいる。
段を上がる前に、私は裾を両手でまとめた。夜の緑には、一日の仕事を終えた人と、これから夜の仕事に出る人が乗っている。夜会のドレスの裾を、その人たちの膝や籠に掛けるわけにはいかない。
「まあ、うちのお嬢さん! 今夜もきれいだこと」
籠を膝に抱えたドニーズさんが、入口の脇の席から身を乗り出した。東の市場のパン屋のおかみさんで、毎晩この便で、王宮の厩番や門番に夜食を届けに行く。籠が大きいので、いつも段にいちばん近い席に座る。その隣に並んだ看護婦さんたちは、これから病院の夜勤に入るところで、私の若草色を見て、音を立てずに拍手のまねをしてくれた。
空いている席は、二つあった。
一つは入口の脇で、マルトがそこに腰を下ろした。隣では、帽子を目深にかぶった職人さんが一人、腕を組んで居眠りをしている。もう一つは一番奥で、くすんだ灰色の外套の男の人が、膝に本を広げている、その隣だった。
その人を、私はよく見かけていた。夜会の晩に緑に乗ると、決まって一番奥に座っていて、本から目を上げて小さく頭を下げる。私も頭を下げ返す。社交界に出てからの二年で、交わしたのはそれだけだ。帰りの便では、決まって公爵邸前で降りていく。だからマルトと私は、公爵家の書記さんか何かだろうと話していた。名前を知らないので、二人だけのときは「本の人」と呼んでいる。
「失礼いたします」
腰を下ろす前に、裾を膝の上で畳んだ。それでも一番奥の席は狭くて、若草色の端が本の人の膝までこぼれた。本の人は黙って本を閉じ、壁のほうへ体をずらしてくれた。
灰色の外套の合わせ目に、白い襟飾りが見えた。今夜は礼装で乗っているらしい。書記さんも、王宮へ行くのだろうか。
「今夜は、王宮前まで?」
本の人が言った。
初めて聞いたその声は、低くて、静かだった。
お読みいただきありがとうございます。短編版をもとに、公爵や車掌の目も足しながら、クレマンスが公爵家へ移ったその先まで書いていきます。ブックマークと、下の☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




