最終便の後に
夜半を過ぎたころ、廊下を走る足音で目が覚めた。
窓の外は、真っ白だった。門灯の明かりの中を、雪が斜めに降りしきっている。停留所の屋根も、塀も、植え込みも、ひと続きの白に埋もれかけていた。
扉を叩いて、マルトが入ってきた。もう外套を着ていた。
「お嬢様。乗合の車庫から、馬丁の子が来ております」
階段を下りると、通用口の土間に、雪だるまのようになった男の子が立っていた。東の市場の車庫に泊まりこんでいる、若い馬丁だ。乗合の馬の背に裸のまま跨がって、坂を駆け上がってきたのだという。
オクターヴ様が、寝間着の上に外套を羽織って、男の子の前にしゃがんでいた。
「ジョスさんからの、言づてです」
男の子は、歯を鳴らしながら言った。
川沿いに住む洗濯女の母親が、夜になって熱を出し、ひきつけを起こした。娘は施療院へ運びたくて、辻馬車の溜まり場まで走った。けれど、この雪の夜半に出せる馬車はないと言われた。一人だけ出すと言った御者は、娘の給金のふた月分を言った。
娘は、車庫のそばのジョスさんの家を知っていた。緑の常連だからだ。
「ジョスさんが、緑を出すって。箱馬車の細い車輪じゃ、この雪には取られる。乗合の車輪なら通れるからって。御者台には、ジョスさんが自分で」
男の子は、そこで息を継いだ。
「それで、旦那にお願いがあるって。施療院の夜の門は、お医者の書き付けか、施療院の後ろ盾の家の名前がないと開かないから」
施療院の後ろ盾の一つは、アルドワン公爵家だ。先代の公爵様の頃から、そうなのだと聞いていた。
「洗濯女の名は」
オクターヴ様が聞いた。
「ジョルジェット、です。モルヴァン様のお屋敷の」
私は、息をのんだ。朝の楡通りで、赤い手で包みを抱えていた人だ。
オクターヴ様は、もう立ち上がっていた。
「施療院へ行く。門を開けさせる」
「私も参ります」
オクターヴ様が振り向いた。
「病人は、女の方です。娘さん一人では、心細いでしょう。それに、看護婦さんたちから、夜の入り口は広場の裏だと聞いています。表の門を叩いても、誰も出てきません」
オクターヴ様は、私の顔を見た。それから、マルトが腕に掛けていた私の外套を取って、私の肩に掛けた。
◇
公爵家の箱馬車は、門を出たところで、車輪を雪に取られた。
御者が鞭を当てても、馬が足を滑らせるばかりだった。ジョスさんの言ったとおりだった。
「歩く」
オクターヴ様が、馬車の扉を開けた。
噴水広場までは、緑でいちばん長い区間の、下り坂だ。バルナベさんがカンテラを掲げて先に立ち、オクターヴ様が私の手を取り、マルトが後ろから私の裾を持ち上げた。膝まで沈む雪の中を、四人で、一歩ずつ下りた。
噴水広場の裏手の、施療院の夜の入り口には、小さな灯りが一つだけ点いていた。
オクターヴ様が門を叩き、名を言った。のぞき窓が開き、門番の目が丸くなり、閂が外れる音がした。
奥の廊下から、白い前掛けの看護婦さんたちが、灯りを持って駆けてきた。その先頭の顔に、見覚えがあった。
「お嬢さん!?」
夜の緑で、いつも同じ歌を歌っている人たちだった。
「公爵様まで! いったい、何が」
「病人が来ます。緑で」
私がそう言ったとき、広場の向こうの雪の中から、鈴の音が聞こえた。
誰もいない夜の通りに、緑の灯りが揺れていた。御者台に、白い口ひげのジョスさんが座っている。後ろの段には、誰も立っていなかった。車掌が御者台に上がってしまったから、鈴を鳴らす人がいなかったのだ。ジョスさんは、手綱を片手に持ったまま、もう片方の手で、自分で鈴を振っていた。
◇
緑が止まると、私は真っ先に段を上がった。
車内には、十二の席に、三人しかいなかった。腰掛けの上に、毛布にくるまれた女の人が横たえられていて、その頭のそばにジョルジェットさんが、足のそばに近所のおかみさんが座っていた。母親の顔は赤く、息が荒かった。
「ジョルジェットさん」
ジョルジェットさんが顔を上げた。私だと分かったとたん、唇が震えて、そのまま泣き出した。
「もう大丈夫。施療院の門は、開いているわ」
看護婦さんたちが担架を持って段に上がり、母親を運び出した。オクターヴ様とバルナベさんが、担架の端を支えた。ジョルジェットさんは、母親の手を握ったまま、施療院の廊下へ一緒に入っていった。
私は、その後ろ姿を見送った。
夜番のお医者が、廊下の奥から出てきて、母親の顔を見た。それから、看護婦さんに何か言いつけた。年かさの看護婦さんが、振り返って私に言った。
「間に合いましたよ、お嬢さん。今夜のうちに熱を下げれば、大丈夫」
◇
帰りは、緑だった。
「お屋敷までお送りしますよ。坂は、乗合の車輪なら上れます」
ジョスさんがそう言って、御者台に戻った。オクターヴ様は、後ろの段に上がった。車掌の立つ場所だ。
私は、空っぽの車内の一番奥に座った。マルトは入口の脇に、バルナベさんはその隣に。雪に濡れた裾が、膝の上で重かった。
緑が坂を上りはじめた。後ろの段から、オクターヴ様の声がした。
「クレマンス。鈴を」
差し出された手の鈴を、私は受け取った。
坂の上に、公爵邸前の停留所が見えてきた。もちろん、誰も待っていなかった。雪をかぶった屋根の下に、門灯が一つ灯っているだけだった。
それでも私は、鈴を鳴らした。三年、乗合に乗ってきた癖だった。
「公爵邸前ー」
自分の声が、雪の中に吸いこまれていった。
緑が止まった。段の上で、オクターヴ様が、降りてくる私に手を差し出した。その手は冷えきっていたのに、握る力だけは強かった。
「最終便の後にも」
オクターヴ様が、雪の降る坂の下を振り返って言った。
「席が要る」




