黙っていれば済む【ティボー視点】
黙っていれば、たいていのことは済む。
今朝、楡通りの停留所に、上の娘の姿があった。灰色の外套の襟を立てて、侍女と並んで、通りの屋敷の窓を見上げていた。私に気づいて、まっすぐこちらを見た。
私は目をそらした。何か言えば、何か言い返される。言い返されれば、また何か言わなければならない。黙っていれば、緑の鈴が鳴って、それで終わる。
実際、そのとおりになった。
空いていたのは一番奥の席だけで、私はそこに座った。後になって、それが近ごろの令嬢たちの言う「縁結びの席」だと知った。五十を前にした男が座る席ではない。けれど、立って揺られるよりはましだった。
◇
箱馬車と馬を売ってから、朝は緑で東の市場へ通っている。
市場の裏通りに、金貸しの店がある。仕立て屋と宝石商への払いは、馬車と調度と妻の首飾りでも足りなかった。残りを金貸しから借り、その利息の相談に、毎朝通う。伯爵が金貸しに頭を下げに乗合で通うなど、去年の私が聞いたら笑っただろう。
今朝も、金貸しは帳面から顔を上げて、私の外套の雪を見た。
「伯爵様、今朝も乗合でお越しで」
声は丁寧だった。目は笑っていた。去年までは、通りで会えば、この男のほうが先に帽子を取ったものだ。私は笑い返して、利息の話をした。笑い返しておけば、話は早く済む。
妻は、私がどこへ通っているかを知らない。知らないふりをしているのかもしれない。
十日ほど前、妻はモルヴァン侯爵夫人に頼まれて、楡通りの停留所を外せという願いに名を書いた。居間の机でそれを書くのを、私は横で見ていた。口は挟まなかった。挟めば揉める。
私が毎日、その停留所から乗っていることも、言わなかった。
◇
妻には、頭が上がらない。
前の妻の病は、長かった。医者代が嵩み、その上に不作の年が二度重なって、領地の借りが膨らんだ。再婚の話が来たとき、相手の子爵家の寡婦は、亡き夫の財産を持っていた。その財産で、私は借りをきれいにした。
それからは、妻の言うことに逆らえなくなった。
アンブルは、妻の連れ子で、私の子ではない。それでも、アンブルが泣けば妻が怒り、妻が怒れば家の中が冷える。泣く者と声の大きい者の言うとおりにしていれば、家は静かだった。
上の娘は、泣かなかった。
泣かない子は、放っておいても静かだった。だから、放っておいた。お前はどうにでもなるだろう、と言えば、あの子は本当に、どうにかしてきた。
◇
夕方、市場の停留所で緑を待った。
雪が強くなっていた。市場から西へ帰る夕方の便は、西の丘の屋敷へ夜の仕事に向かう職人や、病院へ向かう看護婦で混む。始発の停留所なのに、緑は私の前に並んでいた客で、たちまち埋まった。
車掌が段の上から、私に頭を下げた。
「すまんねえ、旦那。次の便に」
鈴が鳴り、緑は私を乗せずに出ていった。
席のある馬車が、雪の中に立つ私を置いて行ってしまった。
次の便まで、雪の中で待った。外套の肩に雪が積もり、足先の感覚がなくなっていった。待ちながら、何かを思い出しかけた。
雨の晩だった。箱馬車の窓の外の、停留所。傘を一本――
私は、思い出すのをやめた。
◇
「空いてますよ、旦那」
次の便の段の上から、白い口ひげの車掌が鈴を鳴らした。
その言い方を、どこかで聞いた気がした。
車内はまた混んでいて、空いているのは一番奥だけだった。私は今朝と同じ席に座り、帽子のつばを下げた。
車内の反対の端、入口の脇で、籠を抱えたパン屋のおかみらしい女が、看護婦たちと話していた。
「うちのお嬢さんがね、ここに座ってたのよ。三年。雨の晩も、雪の晩も」
「裾をこう、膝で畳んでね。籠の人には、いつも入口を空けてくれたわ」
「去年の秋なんか、楡通りで、家の馬車がお嬢さんの前を素通りしたのよ。傘一本でね、侍女さんと二人で、肩を濡らして」
「ひどい親もいたものね」
「いたものね、じゃないわよ。まだいるのよ、楡通りに」
おかみは私の顔を知らないらしかった。看護婦たちも、知らないらしかった。
後ろの段の車掌だけが、私の顔を覚えていた。覚えていて、黙っていた。ただ一度、段の上から車内を振り返って、一番奥の私を見た。
私は、帽子のつばをさらに下げた。
娘がここに座っていた。三年。私の知らない人たちに囲まれて、裾を畳んで。
「楡通りー」
鈴が、通りの屋敷の窓に跳ね返った。
私は段を降りた。停留所の街灯の下に、踏み固められた雪があった。三年、娘はここに立っていた。私の乗った箱馬車が、ここを通り過ぎていった。
思い出すのを、今度はやめられなかった。
屋敷へ歩きながら、私は娘に手紙を書こうかと思った。最初の一行が浮かばなかったので、書かなかった。




