朝の楡通り
まだ暗いうちに、公爵邸前の停留所に立った。
門灯の下で、マルトが私の外套の襟を立て直した。少し離れた塀の陰には、帽子の職人さん――バルナベさんが、雪をかぶった植え込みに背中を預けて、居眠りのふりをしていた。名前を教えてもらってからも、あの人は居眠りのふりをやめない。
坂の上から、下りの朝の緑が来た。
段の上の車掌さんは、昼の便の若い人だった。私の顔を見て、今度は固まらずに、鋏をかちりと鳴らした。
「楡通りまでですね、お嬢さん」
「ええ。楡通りの角で、降ります」
車内には、王宮の夜番を終えた人たちが、眠そうに肩を寄せ合って座っていた。噴水広場で何人かが降り、楡通りの角に着いたときには、空が東のほうから灰色に変わりはじめていた。
楡通りの停留所に降りるのは、公爵家に移ってから初めてだった。
角の街灯の下に、雪が踏み固められていた。三年、私が立っていた場所だ。
見上げると、通りの屋敷はどれもまだ窓を閉ざしていた。ベルクール家の門も、モルヴァン家の高い鉄の門も、雪をのせたまま黙っている。
それから少しして、坂の下から鈴の音が上ってきた。
上りの朝の緑だった。川沿いと東の市場のほうから来る便だ。
「楡通りー」
車掌さんの鈴が、静かな通りに響いた。夜の便で聞くのとは、まるで違う音だった。屋敷の石の壁に当たって、跳ね返って、もう一度聞こえた。
(これは、たしかに、目が覚めるわ)
段から、人が降りてきた。
一人、二人ではなかった。大きな包みを背負った女の人たち。前掛けの上に外套を着た小僧さん。庭番らしい、鋤を担いだおじいさん。薪の束を抱えた若い男の人。雪を蹴りながら、みんな、それぞれの屋敷の裏木戸のほうへ散っていく。
その中の一人が、私の前で足を止めた。
「あ……」
赤い手で、洗濯物の包みを胸に抱えた若い女の人だった。私の顔をまじまじと見て、目を丸くした。
「公爵様のお嬢さん、ですよね。緑で、何度かお見かけしました」
「ええ。クレマンスです」
「ジョルジェットと申します。モルヴァン様のお屋敷の、洗濯場におります」
ジョルジェットさんは、雪の上で小さく膝を折った。包みが重そうだった。
「毎朝、この便で?」
「はい。川沿いから。母と住んでおりますので、住み込みにはなれなくて」
聞けば、楡通りのお屋敷の下働きは、住み込みより通いのほうが多いのだという。朝いちばんにお湯を沸かす人も、洗濯の水を汲む人も、厨房の竈に火を入れる人も、この停留所で降りる。
「お屋敷の窓に灯りが点くのは、私たちが着いてからです」
ジョルジェットさんは、言ってから頬を赤くして、モルヴァン家の裏木戸のほうへ駆けていった。
私は、窓辺でしているのと同じように、降りた人を指で数えてみた。上りの便が一台着くたびに、両手の指では足りなかった。
見ていると、本当にそうだった。下働きの人たちが裏木戸に消えてしばらくすると、通りの屋敷の窓に、一つ、また一つと灯りが入っていく。煙突から、煙が上りはじめる。
願いの写しに名を並べていた屋敷の主たちは、今ごろ、あの窓の内側で、温かいお湯で顔を洗うのだろう。そのお湯を沸かした人が、どの停留所で降りたのかを知らずに。
「お嬢様」
マルトが、低い声で言った。
ベルクール家の裏木戸から、若い女中が一人、駆け出してきたところだった。あの晩、私に「おめでとうございます」と言ってくれた女中だ。私に気づいて、雪の上で立ち止まった。
「お嬢様……! どうして、ここに」
「停留所を、見に来たの。あなたも、通いになったの?」
「はい。住み込みのお給金が、払えなくなりまして。今は、お屋敷の者の半分が通いでございます」
女中は、言ってしまってから口を押さえた。伯爵家の今を、外で話してはいけないと言われているのだろう。私は、聞かなかった顔をした。
女中が裏木戸へ戻っていったあと、次の下りの緑を待つ人が、停留所に並びはじめた。夜番明けの人、市場へ買い出しに行く人。
その列の後ろに、外套の襟を高く立てた男の人が加わった。
灰色の混じった黒髪と、口ひげ。
父だった。
父は列の後ろに並んでから、前に立っている私に気づいた。一瞬、足が後ろへ引きかけた。けれど、そこで下りの緑の鈴が鳴った。
父は、私から目をそらした。私も、何も言わなかった。
緑が止まり、列が段を上がっていく。父も、帽子のつばを下げて段を上がった。車内はもう人で埋まっていて、空いているのは、一番奥の席だけだった。
父は、仕方なさそうにそこへ進み、腰を下ろした。
鈴が鳴り、緑が動き出した。窓の向こうで、父の外套の背中が、一番奥の席に小さく収まっていた。
縁結びの席、と令嬢たちが呼ぶ席に。




