君の席は、ここだ
王宮の冬の夜会の日、先代公爵夫人は、新しいドレスを仕立てましょうと言ってくださった。
私は、お断りした。
「緑には、これで乗りたいのです」
若草色のドレスは、二年前に仕立てたものだ。マルトが毎年手直しをしてくれて、今年の秋も裾を少しだけ下ろしてある。先代公爵夫人は、扇の陰でしばらく私を眺めてから、「それなら、髪飾りだけはわたくしのを」と言って、小さな真珠の櫛を挿してくださった。
夕方、先代公爵夫人は、公爵家の馬車で先に出た。玄関の段の上で振り返って、「わたくしの席は、馬車のほうに取ってありますからね」と言い残していった。
支度を終えて部屋を出ると、マルトが私の後ろにしゃがんで、裾の折り返しを指でなぞった。
「今年の直しは、これで持ちます」
「来年は?」
「来年は、婚礼のドレスでございましょう」
マルトはそれだけ言って立ち上がり、私の外套を広げた。
◇
オクターヴ様と並んで、門の前の停留所に立った。
もう、楡通りの角ではない。公爵邸前だ。灰色の外套を羽織ったオクターヴ様の肩に、白いものが一つ、ふわりと落ちて消えた。見上げると、門の灯りの上で、細かな雪が舞いはじめていた。
「楡通りのお屋敷は、馬車を手放したそうですね」
私が言うと、オクターヴ様が、少しだけこちらを見た。
「ドニーズさんから聞きました。客間の調度も、お継母様の首飾りも、と」
「聞かれたら話すつもりでいた」
「はい。ですから、聞きました」
オクターヴ様の白い息が、ふっと短く途切れた。笑ったのだと分かった。
「では、父も、これからは乗合に乗るのでしょうか」
「乗るなら、乗合には席がある」
坂の下から、緑の灯りが上ってきた。
「公爵邸前ー」
後ろの段の腰掛けから、ジョスさんが立ち上がって、鈴を鳴らした。
「おや、今夜もお二人ですかい」
段の上に、また腰掛けが下りていた。私が段を上がるとき、ジョスさんは鋏で回数券に穴を開けながら、片目をつぶってみせた。
「今夜は、膝がちっとも鳴りません。雪の晩だってのに。座ってるからですかね」
入口の脇では、帽子の職人さんが、今夜も腕を組んで居眠りをしていた。隣の令嬢が、自分の裾をその人の膝から遠ざけるように、そっと畳み直した。職人さんの帽子のつばが、気のせいかと思うくらい、わずかに下がった。
◇
段を上がると、車内は暖かかった。
左右の腰掛けに、夜会のドレスの令嬢たちが、裾を膝の上で畳んで並んでいる。入口の脇には、籠を膝に抱えたドニーズさんが座っていた。その向かいでは、ブノワさんが石の粉の付いた上着のまま、令嬢の一人と並んで座っている。令嬢は、ブノワさんの側へ流れそうになる裾を、ときどき指で押さえていた。
「お嬢さん」
ブノワさんが、上着の粉を払うふりをしながら、私に顎をしゃくった。
「今夜は、俺も座れてますよ」
「よかったわ。粉は、払えば落ちるそうよ」
「ドニーズのおかみの言い草だ」
入口の脇で、ドニーズさんが籠を抱えたまま胸を張った。
看護婦さんたちが、いつもの歌を小さな声で歌っていた。私たちが乗ってきたのに気づくと、歌の途中で、音を立てずに手を叩いてくれた。ドニーズさんが、籠の上から大きく手を振った。
奥のほうで、令嬢の一人が、隣の看護婦さんのために裾を寄せて、席を少し詰めていた。茶会の帰りに「今夜、畳んで乗ってみます」と言った、あの人だった。
マルトは、いつものように入口の脇に腰を下ろした。
十二の席のうち、空いているのは、一番奥の二つだけだった。
オクターヴ様が、先に奥へ進んで、座った。それから、隣の席を手で示した。
「君の席は、ここだ」
私は、若草色の裾を膝の上で畳んだ。
三年のあいだ、家の馬車の扉は、いつも私の目の前で閉まった。乗合の後ろの段には、そもそも扉がない。段を上がれば、誰でも乗れる。
私は、その席に座った。
窓の外を、雪の粒が斜めに流れていく。乗合が動き出すと、ジョスさんがまた腰掛けに腰を下ろして、膝の上に鈴を置いた。
「春の婚礼の日も――」
オクターヴ様が、窓の雪を見ながら切り出した。
「はい」
私は、言い終わる前に答えた。
オクターヴ様は、こちらを向いて、一度まばたきをした。それから、喉の奥で何かがはじけたような音を立てて、肩を揺らしはじめた。看護婦さんたちが歌をやめ、ドニーズさんが籠の上から身を乗り出し、令嬢たちが扇の陰で顔を見合わせた。
「まだ、何も言っていない」
「緑で教会へ参りましょう、とおっしゃるのでしょう」
オクターヴ様は、とうとう額に手を当てて、王宮前に着くまで笑いが止まらなかった。
◇
「王宮前ー、終点でございます」
降りると、雪は本降りになっていた。王宮の門の前の敷石が、うっすらと白くなりはじめている。紋章の馬車の列の脇に、緑は今夜も止まった。
段の上で、ジョスさんが腰掛けを畳みながら、空を見上げた。
「最終便の後に雪だと、困る人が出ますな」
オクターヴ様は、その言葉に何も返さなかった。
けれど、私の手を腕に載せて門のほうへ歩き出しながら、一度だけ、坂の下の暗い街並みを振り返った。最終便の後にはもう乗合の走らない、雪の降る王都を。




