車掌の席【オクターヴ視点】
夜の緑の、席の埋まり方が変わった。
令嬢たちは、段の前で裾をまとめるようになった。座る前に膝の上で畳み、奥から詰めて座る。入口の脇の席は、籠や道具箱を抱えた客のために空けておく。茶会から何日もたたないうちに、それが夜の緑の決まりになった。
十二人掛けの乗合は、また十二人を座らせるようになった。
畳まずに乗ってきた令嬢がいると、ほかの令嬢が、扇の陰で目配せをして笑う。笑われた令嬢は、次の停留所に着くまでに、たいてい自分で裾を膝に寄せている。私が四年かけても作れなかった決まりを、クレマンスは一度のお茶会で作った。
モルヴァン侯爵夫人は、乗合には乗らないと言い張っているそうだ。屋敷の帰りにバルナベがそう報せてきた。
「侯爵家の御者が、門番小屋でこぼしていたそうです。奥様が、乗合の話が出るたびに、お菓子をお下げになると」
家令のアンセルムからは、別の報せがあった。ベルクール伯爵家が、冬の前に箱馬車と二頭の馬を手放したという。それでも払いに足りず、客間の調度と、伯爵夫人の首飾りもいくつか売ったらしい。
アンセルムは、帳場の数字を読むように言った。私も、そのとおりに聞いた。クレマンスには、聞かれたら話すことにした。
そのクレマンスは、毎朝、二階の窓辺に立っている。
朝の緑が坂を上ってきて、門の前の停留所に止まる。下働きが何人降り、何人乗ったか。籠を持っているのは誰か。窓の内側で、指を折って数えているのが、庭から見上げると分かる。
私が四年、緑の一番奥でしてきたことと、同じことだった。
声をかけると、クレマンスは振り向いて、少し赤くなった。
「朝の便は、夜の便より下働きの方が多いのですね。洗濯場の方が、大きな包みを抱えて乗っていきます」
「洗濯場の女たちは、川沿いの洗い場へ通っている」
「入口の脇の席が、いつも足りないわ」
そういうことを、彼女は朝食の前に言う。
◇
茶会の晩、緑を降りて門をくぐるとき、クレマンスが一つだけ私に頼みごとをした。
「ジョスさんは、四年、一度も座っていないのではありませんか」
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
乗合を始めてから、私は席を数えてきた。誰がどこで乗り、何人が座れずに立ったか。楡通りの令嬢の家の馬車に、席がいくつあるか。数えることなら、誰にも負けないと思っていた。
けれど、後ろの段の上に立っている一人を、私は数えたことがなかった。
誰にでも席がある馬車を作ったつもりで、車掌の席だけが、どこにもなかった。
◇
次の朝、東の市場の車庫へ行った。
車大工のポランは、私の話を最後まで聞いてから、鉋を置いた。
「車掌の腰掛けですかい」
「後ろの段の脇に、畳めるものを付けたい。停留所の手前では畳んで立ち、走っているあいだは座れるように」
「車掌が座って、鈴が鳴らせますかい」
「停留所の前で立てばいい。鈴は、立って鳴らすものだ」
ポランは、しばらく後ろの段を眺めていた。それから、巻き尺を出して、段の脇の幅を測りはじめた。
「ジョスの爺さんは、御者台にいた頃から、座れと言ったって座らない男でしたよ。腰掛けを付けても、座らせるのは骨ですぜ」
「座らせる者は、いる」
ポランは巻き尺を巻き取りながら、私の顔を見て、にやりとした。
「噴水広場から公爵邸前までの坂は、乗合でいちばん長い区間でしょう。あそこで座れりゃ、膝も楽になる」
ポランは、三本の路線のすべての車に、冬のうちに付けると言った。それから、私が別に頼んでいた緑の新しい車は、春までには仕上げる、とも言った。
◇
腰掛けを付けた最初の晩、ジョスは座らなかった。
公爵邸前で乗ってきた私とクレマンスに、段の上から鈴を鳴らしてみせ、畳んだ腰掛けを、手のひらで軽く叩いた。
「旦那。せっかくですが、わしが座ったら、客が立つ車だと思われます」
クレマンスは、一番奥へは進まなかった。段のそばに立ったまま、ジョスを見上げた。
「ジョスさん。座ってくださらないと、私も座りません」
車内の令嬢たちが、顔を見合わせた。何人かが、腰を浮かせかけた。公爵の婚約者が立っているのに、自分たちが座っていていいのか、と思ったのだろう。
ジョスは、車内を見回して、それから天井を仰いだ。
「……お嬢さんには、かないませんな」
腰掛けを下ろして、ジョスはそこに腰を落とした。片手で膝をさすって、長い息を吐いた。
「坊ちゃん、これは――」
言いかけて、ジョスは口を閉じた。咳払いをして、言い直した。
「旦那。これは、いいもんですな」
クレマンスは、それを見届けてから、一番奥の私の隣に座った。裾を、膝の上で畳んで。
◇
王宮から、冬の夜会の招きが届いた。社交の季節が、そこで一区切りになる。
母は、その夜も公爵家の馬車で行くと言った。
「わたくしが乗ったら、席が一つ減るでしょう」
いつもの言い方だった。それから母は、私の顔を見て、扇の陰で目を細めた。
「あなた、その晩、あの子に何か言うつもりね」
私は答えなかった。答えなくても、母には分かっていた。
その晩、最終便の後ろの段で、ジョスは腰掛けに座ったまま、門の灯りの上の空を見上げていた。
「旦那。今年は、雪が早うございますよ」




