第7話 もう戻す必要はありません
披露会の翌朝、エルシーは家令に帳簿の写しと使用人への指示書きを返し、以後は屋敷の家務を一切引き受けないと告げた。
染め道具と下絵の束だけを持ち、セオドアの商会が仲介した空き工房へ移り住んで以来、屋敷には一度も戻っていない。
手紙を送って十日が過ぎても、返事は届かなかった。
その間、エルシーは特に待つ様子も見せず、いつも通りに工房へ通い続けていた。
工房の仕事は変わらず続き、注文の帳面は日ごとに厚みを増していく。
季節の変わり目で、染めの色見本を求める客も増えていた。
日々の忙しさが、余計なことを考える隙を埋めてくれていた。
代わりに、遠縁の伯母を名乗る女性が工房を訪ねてきて、グレースとの仲を取り持ちたいと申し出た。
丁寧な物腰の裏に、あくまで頼まれ役としての気配が見え隠れしている。
エルシーはその申し出も、丁寧に、しかしきっぱりと断る。
要件だけを聞き、茶を出す間もなく、その場で答えを返す。
伯母は落胆した様子もなく、形だけの役目を終えたというふうに帰っていった。
それから三日後の午後、工房の扉が控えめに叩かれる。
「エルシー・ダグラス様のお店は、こちらでしょうか」
セオドアの取引先で、ダグラス家との取引を見合わせた商会の一人が、そう告げに来た。
その声には、多少の戸惑いも混じっていた。
「表に、グレース様とノラ様がいらしています」
その一言で、工房の空気が変わるのが分かった。
エルシーは針を置き、しばらく手元を見つめてから立ち上がる。
針を置いてもなお、指先には糸の感触が残っている。
工房の奥では、雇い入れたばかりの弟子たちが数人、作業の手を止めてこちらを窺っている。
戸口に立ったままの商会の男も、帰るきっかけを失ったように、その場に残っていた。
セオドアも、ちょうど納品の相談に来ていた。
彼は帳面を閉じたが、帰る様子は見せない。
工房を出ていくという選択肢も、彼にはあったはずだった。
「お会いになりますか」
セオドアは静かにそう尋ねた。
「はい。ここで構いません」
その返事に、迷いは一切なかった。
会わない、という選択肢もあったはずだ。
けれどエルシーは、うやむやにしたまま終わらせるつもりはない。
工房の入り口へ向かう足取りに、迷いはなかった。
戸口の向こうに、待つ二人の気配がすでに伝わってくる。
扉が開き、グレースとノラが入ってくる。
以前より、二人とも顔色がすぐれない。
グレースの装いも、以前ほど手をかけられていないのが分かった。
装いだけでなく、立ち姿そのものに、これまでにない疲れがにじんでいる。
ノラは俯いたまま、母の後ろに半歩下がって立っていた。
その姿は、以前の華やかさをほとんど残していない。
工房の壁には、染め上がったばかりの絹糸が何連も吊るされ、静かに乾いている最中だった。
「エルシー」
グレースの声は、これまでにない弱さを帯びていた。
以前のような、有無を言わせぬ強さはどこにも残っていない。
「突然に押しかけて、ごめんなさい。手紙にも、返事をもらえなかったから」
「お忙しいだろうとは思いましたけれど」
グレースの言葉尻には、以前のような迷いのなさは残っていない。
エルシーは黙って、二人の言葉を最後まで聞いていた。
急かすことも、遮ることもしない。
工房の弟子たちは、手を止めたまま、けれど顔を上げすぎないよう気を配っていた。
「披露会のこと、それに続くいろいろなこと、全部、あなたがいなくなってから分かったの。今さらだと分かっているけれど」
グレースの声が、そこで一度詰まる。
言葉を継ごうとするたびに、喉の途中で止まってしまうようだった。
「お願い。少しでいいから、また力を貸してもらえないかしら」
その言葉には、これまでにない実感がこもっていた。
聞いているだけの弟子たちの間にも、かすかな緊張が走る。
作業の音が、すっかり止んでいた。
エルシーは一つ、静かに息を吸った。
その一拍を、グレースは望みの兆しと受け取ったらしい。
わずかな沈黙にすら、意味を見出そうとする必死さがあった。
グレースの目には、わずかな期待が浮かんでいた。
沈黙が続くほど、その期待は膨らんでいくようだった。
工房の中の誰もが、次の一言を待っている。
窓から差す光の中で、埃の粒だけがゆっくりと漂っていた。
誰も身じろぎ一つしないまま、時間だけが引き延ばされていく。
「何度いらしても、お答えは変わりません。わたしの手は、もう別のところで必要とされていますので」
工房に、短い静けさが落ちる。
グレースの顔からは、何を思っているのかもう読み取れなかった。
セオドアは何も言わず、ただ静かにこちらを見ていた。
弟子の一人が、手にした布を握る指に、わずかに力をこめる。
その小さな動きだけが、この場の全員の気持ちを代弁していた。
外を走る荷馬車の音が、やけに大きく響いて聞こえた。
「昔のように、とまでは言わないの。ただ、月に一度でも」
「一度でも、二度でも、同じことです」
グレースの表情が、初めて崩れかける。
「エルシー、家族でしょう」
グレースの声には、すがるような響きが混じっていた。
「家族という言葉を、これまでどんな意味で使ってこられたか、お義母様が一番よくご存じかと思います」
グレースの顔から、血の気が引くのが見て取れた。
反論の言葉を探しているのは明らかだったが、それらしいものは何一つ出てこなかった。
グレースは何か言い返そうとしたが、言葉にならない。
代わりに、これまでの功績はすべて二人で作ってきたのだと、かすかに言い募ろうとする。
その言い分は、以前のグレースなら、もっと堂々と口にできたはずのものだった。
エルシーは机の引き出しから、古い下絵の束をそっと取り出し、卓の上に置いた。
三年前の下絵、去年の下絵、季節ごとの試し縫い。
一枚めくるごとに、線の拙さが少しずつ確かなものへ変わっていくのが分かる。
すべてに、同じ手の癖が残っている。
誰の目にも、それがどこの誰の手によるものかは明らかだった。
言葉を重ねるまでもなく、それだけで十分だった。
グレースはその束にしばらく目を落とし、それ以上は何も言わなかった。
反論できる余地は、もうどこにも残されていない。
「お母様」
それまで俯いていたノラが、初めて口を開いた。
「わたし、分かっていたの。針を持つたび、お姉様の手がなければ、いつも同じところで止まってしまうこと」
ノラの声は、震えながらも、これまでより落ち着いていた。
うつむいた横顔に、これまで見たことのない硬さが浮かんでいる。
「気づかないふりをしていただけ。お姉様が手伝ってくれるのを、当たり前だと思っていた」
「ノラ」
「お母様も、悪気があったわけじゃないと思うの。ただ、誰も数えようとしなかっただけで」
「今さら言っても、遅いのは分かっているの」
ノラはそれだけ言うと、唇を結んで俯く。
工房の誰も、その言葉に相槌を打とうとはしなかった。
同情でも冷たさでもない、ただ事実を見届ける沈黙だけがそこにあった。
ノラ自身も、その沈黙の重さを分かっているようだった。
グレースはノラの肩に手を添えたが、かける言葉を持たないようだ。
工房の空気は、責めるでも慰めるでもなく、ただ静かに二人を見届けている。
しばらくして、グレースは深く一礼した。
「お邪魔しました、本当に」
それ以上は何も付け加えず、二人は工房を出ていく。
引き止める声も、名残を惜しむ仕草も、そこには何もなかった。
見送りには、誰も立たなかった。
工房の全員が、ただ自分の持ち場に留まったままだった。
扉の向こうで、車輪の音が遠ざかっていくのが聞こえる。
その音が完全に消えるまで、誰も口を開かなかった。
長い静寂のあとで、ようやく工房の空気が動き始める。
弟子の一人が、詰めていた息をようやく吐き出すのが聞こえた。
エルシーは肩の力が抜けていくのを感じながら、机の下絵をゆっくりと束ね直した。
指先から、これまでの張りつめた感覚がゆっくりとほどけていく。
久しぶりに、深く息を吸い込めた気がした。
セオドアが小さく頷き、それだけで十分だというように、また帳面を開いた。
「良い判断だったと思います」
セオドアはそれだけ言うと、それ以上は踏み込まなかった。
普段の彼なら、もう少し言葉を重ねてもおかしくない場面だ。
その控えめさが、かえって信頼の重みを伝えている。
弟子たちも一人、また一人と作業へ戻っていく。
針を持つ手の動きが、少しずつ工房の中に満ちていった。
窓の外では、午後の光がゆっくりと角度を変えている。
染め上がった絹糸が、その光を受けて静かに色を深めていた。
扉が静かに閉まり、工房には針を運ぶ音だけが戻ってきた。




