第6話 数えてみれば
披露会の翌々日、リンドグレン子爵夫人が屋敷を訪れるという報せが届いた。
使いの者の口上は短く、儀礼的なものだった。
それだけに、かえって用件の重さが透けて見えた。
グレースはその報せを受け取った瞬間から、悪い予感を拭えずにいる。
披露会からのこの二日、屋敷には来客の一つも訪れていなかった。
その静けさが、かえって不穏なものに感じられた。
朝から屋敷じゅうの空気が、いつもより張り詰めていた。
使用人たちの足音まで、心なしか控えめに聞こえる。
応接間には、すでに冷めかけた茶が二つ並んでいる。
湯気の立たなくなった茶器を、誰も口にしようとはしなかった。
ノラは朝からずっと落ち着かず、何度も窓の外を確かめていた。
「お母様、リンドグレン様は、何のご用件かしら」
「ただのご挨拶でしょう。心配することはないわ」
グレースはそう答えながらも、自分の声がいつもより硬いことに気づいていた。
ノラはそれ以上尋ねてこなかったが、指先で茶器の縁を何度もなぞっている。
窓の外で馬車の音がするたび、ノラの肩がびくりと揺れる。
やがて、本当にリンドグレン子爵夫人が案内されて入ってきた。
供も連れず、必要な儀礼だけを済ませに来たという佇まいをしている。
グレースは急いで立ち上がり、精一杯の笑みを作った。
「本日は、突然のご無礼をお許しください」
「いいえ、いつでも歓迎いたしますわ」
グレースは努めて明るく応じたが、夫人の表情は最初から動かなかった。
社交辞令にすら応じる素振りを見せない、それ自体が答えのようなものだった。
腰掛けることも勧めぬまま、夫人は用件だけを口にする構えでいる。
「先日の披露会での一件、耳に入っております」
夫人は前置きもそこそこに、本題へ入った。
グレースは何か弁解を口にしかけたが、言葉になる前に遮られた。
「お針の腕前だけで良いご縁とは参りませんもの。今回のお話は、なかったことにさせてくださいませ」
その声には、怒りも嘲りも含まれていない。
ただ、家として当然の判断を告げるだけの、静かな響きだった。
「あの、わたしの腕は、当日は少し調子が悪かっただけで、いつもは」
ノラが震える声で言い募ろうとしたが、夫人はそれを遮らずに、ただ黙って聞いていた。
聞き終えても、答えは変わらない。
その静かさが、かえって取り付く島のなさを物語っていた。
「今後のご縁につきましては、また別の形でお探しになるのがよろしいかと」
それだけ言うと、夫人は丁寧に一礼し、長居せずに腰を上げた。
グレースは玄関先まで見送ったが、かけるべき言葉は一つも見つからない。
見送りの間、二人とも一言も交わさなかった。
馬車が門を出ていくのを、ノラは応接間の窓から見つめていた。
「お母様、これでもう、リンドグレン様とは」
「そのことは、後で話しましょう」
グレースはそう言うのが精一杯だった。
ノラの目に涙が浮かんでいるのを見ても、かける言葉が出てこない。
いつもなら、こういうときすぐに慰めの言葉が浮かんだはずだった。
今日はそれさえも、うまく出てこなかった。
その日の午後、家令が沈んだ顔で報告に来た。
いつもは淡々と用件だけを告げる家令が、今日は言葉を選んでいる。
取引先の商会から、来季の織物の注文を見合わせたいという文が届いたという。
続けて、慈善事業の役員会からも、次の集まりへの出欠を改めて伺うという遠回しな文が届いた。
夜会への誘いも、これまでより明らかに数が減っている。
普段なら机の上に積み上がるはずの文が、今週はほとんど届いていなかった。
一つひとつは小さな変化だったが、積み重なると無視できない重さになった。
これまで当たり前に受け取っていたものが、音もなく手のひらからこぼれ落ちていくようだった。
グレースはそれらの報せを、応接間の長椅子に座ったまま、ただ黙って聞いている。
家令が退室したあとも、しばらく立ち上がる気になれない。
夕刻、グレースは自室に一人でいた。
窓の外はすでに薄暗く、蝋燭の灯りだけが卓を照らしている。
卓の上には、書きかけの手紙が一枚だけ置かれている。
宛先は、まだ書いていない。
これまで、屋敷の中で何が回っていたのかを、グレースは初めて一つずつ数えてみることにした。
披露会の縁飾りだけではない。
去年の慈善バザーの品も、その前の刺繍会の品も、すべて同じ手が支えてきた。
親族への贈り物に添える一言も、季節ごとの家計の帳尻も、いつも同じ手を経ていた。
使用人への指示書きも、屋敷の献立の割り振りも、誰かに任せていたわけではなく、いつのまにか任せきりになっている。
来客への礼状の文面も、季節ごとの衣装の見立ても、思い返せばすべて同じ手が整えていた。
体調を崩した使用人の見舞いに立ったのも、遠縁からの無心をやんわりと断る文を書いたのも、いつもエルシーだ。
グレース自身が「うちはこうしている」と胸を張って語ってきたことの、その大半に、名前のない誰かの手が入っていた。
礼を言った覚えは、数えるほどしかない。
対価を払った覚えは、一度もなかった。
当然だと思っていた日々の中に、これほど多くの見落としがあったとは、これまで考えたこともない。
「……あの子の手が、うちの信用そのものだったのね」
声に出してみて初めて、その重みがはっきりと形になった。
これまで、家族として当然だと思ってきたことの多くが、実は誰か一人の手によって支えられていたのだと、グレースはようやく理解する。
その手が動くのをやめただけで、これほどまで簡単に、積み上げてきたものが崩れていく。
数え終えてもなお、指折り数え直したくなるほどの量だった。
数えれば数えるほど、自分がこれまで何も見ていなかったことだけがはっきりしていく。
グレースは震える手でペンを取り、エルシーへ宛てて短い言葉を書き始めた。
何度か書いては消し、消してはまた書き直した。
言葉を選ぶたびに、これまでの自分の態度が思い出されて手が止まる。
助けてほしい、とは書けない。
代わりに、一度話がしたい、とだけ記す。
書き終えた手紙を封じながらも、それが届くかどうかは分からなかった。
蝋燭の火を見つめながら、グレースはしばらく動けずにいた。
外はすっかり暗くなり、屋敷の廊下からは物音一つ聞こえてこない。
使用人たちも、今夜だけは、気配を殺しているようだった。
燃え尽きかけた蝋燭を見つめながら、グレースはノラのために守ってきたはずのものが、もう何もないことに気づいた。




