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継母が私の刺繍を義妹の作品だと偽って披露会に出した結果、真実が明らかになりました  作者: 九葉(くずは)


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8/8

第8話 わたしの名前で

それから数か月後の朝、工房の入り口に、新しい看板が掲げられた。


「エルシー・ダグラス意匠工房」


木地に彫られた文字は、まだ塗料の匂いを残している。


朝の光の中で、金の縁取りが静かに輝いていた。


昨日までは何もなかった場所に、今日は確かな名前が刻まれている。


看板職人に文字の書体を選ぶよう頼まれたとき、エルシーは迷わず、飾らない書体を選んだ。


派手さより、読みやすさを取りたかった。


誰の目にも、迷いなく読める名前にしたかった。


セオドアが商会の伝手を使い、客への声かけを整えてくれていた。


染織を扱う商人、王都の仕立て屋、かつての取引先の何人か。


声をかけた相手に、貴族の家名は一つも含まれていない。


それは、あえて外したというより、自然とそうなった結果だった。


けれど、集まった顔ぶれは、以前の披露会よりもずっと確かな目利きばかりだった。


工房の壁には、これまで手がけてきた意匠の数々が並べられている。


蔦の縁飾り、葉脈の細工、季節ごとに染め分けた絹糸の見本。


どれも、これまでは誰か別の名前の陰に隠れていたものだった。


日の光の下で見ると、それぞれの意匠がまるで初めて見るように鮮やかだった。


一枚ずつ壁に留めていく間、エルシーはこれまでの年月の重さを腕の中に感じていた。


十四の年に描いた最初の下絵も、隅の方に小さく飾られている。


線の拙さを隠すことなく、あえてそのまま並べることにした。


未熟だったころの自分を、今日はもう恥じる必要がなかった。


「エルシー様、こちらの緑の糸は、他ではとても見かけない色ですね」


来客の一人が、染め上がった絹糸の束を手に取って尋ねてくる。


その手つきには、値踏みではなく、純粋な興味だけが見えた。


「うちの工房だけの配合です。これからは、この色を目印にしていただければ」


「以前、どこかで似た色を見た覚えがあるのですが」


「おそらく、以前の披露会でご覧になったものかと。あれも、この工房の染めです」


来客は少し驚いた様子で、もう一度絹糸を見つめ直した。


その驚きの中には、非難の色は見当たらない。


むしろ、ようやく答えが分かったというような、納得の表情だった。


エルシーはそう答えながら、自分の言葉に迷いがないことに気づいていた。


以前なら、これほど堂々と名乗ることに、どこか気後れがあったはずだ。


今はもう、その気後れがどこにもない。


自分の仕事に、自分の名前をつけて差し出すことが、こんなにも軽やかだとは知らなかった。


軽やかであると同時に、それだけの重みも伴う実感だった。


工房の一角には、古い針箱が飾られていた。


亡き母の形見の箱は、これまで引き出しの奥にしまい込まれていたものだ。


母もまた、嫁いでからの手仕事を誰にも名乗れないまま、静かに終えた人だった。


母の指も、これと同じ針箱の中身を、幾度となく手にしてきたはずだった。


その母の道具が、今日は誰の目にも触れる場所に置かれている。


隠す理由は、もうどこにもなかった。


「これは、お母様の」


セオドアが針箱に目を留めて尋ねる。


その声には、詮索するような響きはなかった。


「はい。母の形見です。誰にも見せずにきましたが、今日はここに置くことにしました」


「良い場所だと思います」


セオドアはそれだけ言うと、それ以上は踏み込まなかった。


その一言だけで、十分に気持ちが伝わってくる。


母がこの場を見たら何と言うだろうか、とエルシーは少しだけ考えた。


答えは分からないが、少なくとも咎める顔ではないだろうと思えた。


今なら分かる。母が最後まで名乗れなかったものを、自分は名乗ることができている。


その違いだけで、十分に報われた気がした。


会場の一角では、工房の弟子たちが忙しく立ち働いている。


数ヶ月前まで見習いだった娘が、今では客に堂々と技法の説明をしていた。


その姿を見るたび、エルシーは小さな充足を覚える。


かつての自分も、こうして誰かに見守られていたのだろうかと、考えることがあった。


自分が誰かに教えたものが、また別の誰かの誇りになっていく。


そうした流れが、この工房には確かに生まれ始めていた。


かつて自分がノラに教えていたときとは、まるで違う手応えだった。


教えた分だけ、相手の名前として積み上がっていく。


奪われることのない教え方が、ここにはあった。


そうであるべき当たり前のことに、ようやく気づけた気がした。


セオドアが隣に立ち、客への応対の合間に、静かに声をかけてきた。


「今日から、正式にこの工房の名で契約を結ばせていただきます」


「よろしくお願いいたします、セオドア様」


その呼び方に、セオドアが小さく笑みを浮かべる。


「様、はもう要らないのでは」


「では、セオドアさん」


「それで結構です」


短いやり取りの中に、これまでの積み重ねが自然と滲んでいた。


商談の相手としてだけでなく、互いの仕事ぶりを見てきた者同士の呼吸だった。


二人の間に流れる空気は、これまでのどんな商談とも違っていた。


対等な立場で、互いの仕事を認め合う者同士の静かな信頼がある。


急かず、押しつけず、それでいて確かに寄り添う距離だった。


「契約書には、工房の名だけでなく、あなたの名前も明記させてください」


「わたしの名前を、ですか」


「意匠の権利は、あなた個人のものとして残しておくべきです」


その言葉には、これ以上ない誠実さが込められていた。


エルシーはその申し出に、しばらく黙って考えた。


これまで、自分の名前が契約書に載ることなど、想像したこともない。


名前が世に出るということが、これほど自然なことだとは、これまで思ってもみない。


「ありがとうございます。お願いいたします」


それだけ答えるのに、思ったよりも時間がかかる。


会場の奥から、看板の文字を見上げていた年配の商人が、声を漏らす。


「エルシー・ダグラス、か。どこかで聞いた名だと思ったが」


「披露会で名の挙がっていた、あの家の娘さんですよ」


連れの商人が、小声でそう応じる。


「なるほど、あの意匠は、最初からこの方の手だったわけだ」


披露会の審査部が、後日エルシーの下絵とセオドアの証言を照合し、過去の意匠の作者を正式にエルシーと認めたという話も、すでに商人たちの間には伝わっていた。


その一言に、周りにいた何人かが小さく頷いていた。


エルシーの耳にも、その会話の断片は届いている。


けれど、それに心を動かされることは、もうなかった。


その日、工房の看板に刻まれた名前を見て、誰もがようやく真実を知った。


噂は驚きよりも、静かな納得として広がっていくようだった。


誰かを貶めるための噂ではなく、遅ればせながらの、当然の答え合わせだ。


領地から戻った父が、帳簿の乱れと縁談の破談を聞きつけ、一度だけ面会を申し入れてきた。


エルシーはその申し出も、丁重に、しかし変わらぬ調子で辞退した。


夕刻、客がすべて帰り、工房に静けさが戻ってくる。


窓の外は茜色に染まり、看板の文字にも柔らかな光が差していた。


弟子たちも後片付けを終え、それぞれの帰路についている。


工房に残ったのは、エルシーとセオドアの二人だけだった。


外の喧騒はすでに遠く、静かな時間だけが流れていた。


エルシーは看板の下に立ち、彫られた自分の名前をゆっくりと指でなぞった。


木地の彫りは、まだ指先に引っかかるほど新しい。


セオドアが隣に並び、同じように看板を見上げている。


「これから、忙しくなりますね」


「はい。今度は、誰かの代わりではなく、わたし自身として」


言い切った声には、迷いも気負いもなかった。


「披露会の前とは、まるで違う顔をしていますね」


セオドアがそう言って、静かに微笑んだ。


「そうでしょうか」


「ええ。あの頃は、いつも何かに耐えているような顔をしていました」


思えば、初めて糸の見本を見せた日から、彼はそう感じていたのかもしれない。


エルシーはその言葉に、少しだけ考え込んだ。


耐えているつもりはなかったが、そう見えていたのなら、きっとそうだったのだろう。


自分では気づかないまま、ずいぶん長い間、気を張っていたのかもしれない。


「今は、耐える必要のないことばかりです」


「それは何よりです」


セオドアの声に、安堵にも似た響きが混じっていた。


短いやり取りの後、二人はしばらく黙って看板を見上げていた。


夕暮れの風が、染め上がったばかりの絹糸を、かすかに揺らしている。


その揺れる糸の色を、二人はしばらく並んで眺めていた。


いつまでもそうしていられそうな、穏やかな時間だった。


染料の匂いも、糸の感触も、もうすべてが自分だけのものだ。


看板の下で、エルシーは自分の名前だけを掲げて笑った。

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