第3話 お姉様がいなくても
仕立て屋から戻ってきた縁飾りは、すでに正装の裾にしっかりと縫いつけられていた。
ノラは姿見の前で、その裾をゆっくりと持ち上げてみる。
蔦の意匠は、灯りの角度を変えるたびに違う顔を見せる。
窓からの光が布地に当たると、糸の色がかすかに変わって見えた。
朝からずっと落ち着かず、着替えを何度も鏡の前でやり直していた。
侍女が背中の紐を整えながら、控えめに褒め言葉を添える。
「お嬢様、とてもよくお似合いです」
ノラはそれに小さく頷いただけで、鏡から目を離さなかった。
「よく似合っているじゃないの、本当に」
今度はグレースが、部屋の入り口から声をかけてくる。
「お母様から見て、去年の分と比べてどうかしら」
「今年の方がずっと立派よ。あなたも腕を上げたということね」
ノラは鏡の中の自分をもう一度、じっと見た。
蔦の先端のあたりだけが、物足りない気がする。
どこがどう物足りないのかは、自分でもうまく言葉にできない。
針を持つ手つきなら、誰にも負けないつもりでいた。
そのはずだった。
去年の作品と見比べれば、たしかに大きさも意匠の複雑さも増している。
けれど、大きさや複雑さとは別のところで、何かが足りていない気がしてならなかった。
「披露会には、リンドグレン家の方々もいらっしゃるそうよ」
グレースは近づいてきて、鏡越しにノラの髪を軽く整えながら続けた。
「あちらのご子息が、あなたの噂を聞いて興味を持っていらっしゃるとか」
「まあ、そうなの」
「良い縁になるかもしれないわ。だからこそ、今回の出来映えは大事にしたいの」
「わたしの刺繍を、そんなによく見てくださっているの」
「もちろんよ。あなたの評判は、社交界でもちゃんと届いているもの」
ノラは頬が少し熱くなるのを感じた。
胸の内が、ほのかに浮き立つ。
縁談の話は、まだ実感が湧かない。
けれど、悪い気はしなかった。
社交界に出てからというもの、自分の名前がどう扱われるかを、これほど意識したことはなかった。
自分の腕がどう評価されるかで、これから会う相手の心証まで変わるのだと思うと、裾を持つ手にも力がこもる。
「お母様、正直に言ってくださっていいのだけれど」
ノラは裾を持ったまま、もう一度鏡に向き直った。
「これ、本当に大丈夫かしら。いつもよりわたし一人で仕上げた分が多いから」
「大丈夫に決まっているでしょう」
グレースは即座に、そして軽やかに答えた。
「今まで通りで大丈夫よ。あなたはちゃんとやれる子だもの」
その言葉には、迷いも根拠も同じくらい薄い。
けれどノラには、それを疑う理由も見当たらなかった。
物心ついたころから、母はいつもそう言ってくれた。
そしてこれまでは、その通りになってきた。
「お姉様に、一度だけでも見ていただけたら」
小さくこぼした声に、グレースは軽く笑って首を振る。
「エルシーは今、体調が優れないのですって。無理を言うものではないわ」
「そう、よね」
ノラはそれ以上、姉の名前を出さなかった。
グレースが部屋を出ていったあと、ノラはしばらく一人で鏡の前に立っていた。
考えてみれば、ここしばらく、エルシーが自分の部屋を覗きに来ることがなくなっていた。
夜遅くまで一緒に針を動かしていたことも、今回はほとんどない。
以前は、糸が絡んだだけで隣の部屋から様子を見に来てくれた。
蔦の葉先の角度で迷ったときも、黙って手元を覗き込み、二、三針だけ手直ししてくれたものだった。
そのときの姉の指の動きを、ノラはよく覚えている。
早くも遅くもなく、迷いのない動きだった。
自分の指がそれをそのまま真似できたことは、一度もなかった。
いつからそうなったのか、はっきりとは思い出せない。
思い立って、ノラは廊下を挟んだエルシーの部屋まで行ってみることにした。
扉の前に立つと、いつもより静かな気配だけが伝わってくる。
扉を軽く叩いても、返事はすぐには返ってこない。
しばらくして、扉越しに静かな声だけが届いた。
「今は少し休んでいますので、また後ほど」
普段の姉なら、扉を開けてくれたはずだった。
それだけ聞いて、ノラは扉から離れる。
忙しいのだろう、とノラは考えることにした。
姉は昔から、頼まなくても手を貸してくれる人だった。
だから今回だけ手を貸さないのは、よほど具合が悪いからに違いない。
それ以上、深く考える必要はないはずだった。
自室に戻り、姿見の前にもう一度立つ。
窓の外はすでに夕暮れに近く、部屋の中の影が少し長くなっていた。
姿見の中の自分は、確かによく仕立てられた装いをしている。
裾から続く蔦の縁取りも、遠目には申し分なく見えた。
けれど間近で見るほど、どこかの糸の運びが、いつもより硬い気がしてならない。
指先でそっと触れてみても、どこが違うのかまでは分からなかった。
分からないまま、披露会の日は近づいてくる。
指折り数えれば、もう半月ほどしか残っていなかった。
ノラは鏡の中の刺繍を見つめ、なぜか胸の奥がざわつくのを覚えた。




