【最終章 春、もう一度】 第四十話 約束の桜
血月城での戦いから、二週間が過ぎた。
京には、穏やかな春が訪れていた。
あれほど恐ろしかった赤い月は、もう夜空に現れない。
人々は何も知らない。
千年にわたって続いていた吸血鬼との戦いも。
九条羅刹という王が存在していたことも。
そして、一人の少女が千年の憎しみを終わらせたことも。
京の人々にとっては、いつもと変わらない春だった。
店先には桜餅が並び、子供たちが通りを駆け回る。
川面には花びらが流れ、鳥の声が聞こえる。
平和だった。
それは、新選組にとって何よりも尊いものだった。
「咲いたぞ!」
朝早く、屯所の庭から永倉新八の大声が響いた。
「うるせぇな……」
土方歳三が障子を開ける。
「朝っぱらから何を騒いでやがる」
「桜だよ、桜!」
永倉が庭を指差した。
一本の桜の木。
昨日まで固い蕾だった枝に、淡い色の花が咲いている。
「ほら、見ろ!」
「見りゃ分かる」
土方は呆れたように言った。
原田左之助が笑う。
「いいじゃねぇか。戦いが終わって初めての春なんだ」
「そうだな」
近藤勇も庭へ出てきた。
桜を見上げる。
「……綺麗だ」
土方も空を見上げた。
赤い月はない。
そこにあるのは、青い空と柔らかな朝日だけだった。
「本当に終わったんだな」
近藤が呟く。
「ああ」
土方は答えた。
「終わった」
その時。
「土方さん!」
縁側から声がした。
沖田総司だった。
その隣には、月夜がいる。
「桜、咲きましたよ!」
「だから見えてるって言ってんだろ」
「一緒に見ませんか?」
「俺は忙しい」
土方は即答した。
「嘘ですね」
沖田が笑う。
「今日の仕事、ありませんよね?」
「……お前は本当に生意気になったな」
近藤が笑い声を上げる。
「歳、たまにはいいじゃないか」
「近藤さんまで……」
結局、土方も縁側へ腰を下ろした。
永倉、原田、斎藤も集まる。
満開にはまだ早い。
それでも、誰もが嬉しそうだった。
月夜は桜を見上げていた。
その横顔を、沖田は静かに見つめている。
「月夜さん」
「はい?」
「嬉しそうですね」
「はい」
月夜は笑った。
「こうしてみんなで桜を見るのが、夢だったんです」
「夢?」
「はい」
月夜は桜を見つめる。
「千年前には、こういう光景があったのかもしれません」
人間と吸血鬼が共に生きていた時代。
争いも憎しみもなかった頃。
「でも、もう過去です」
月夜は小さく笑った。
「今は今ですから」
沖田も頷いた。
「そうですね」
だが。
月夜は気づいていた。
沖田の顔色が以前より悪いことに。
あの戦いから、沖田の身体は少しずつ弱っていた。
傷そのものは治っている。
刀も握れる。
歩くこともできる。
それでも、時折激しく咳き込む。
月夜は怖かった。
だから、なるべく考えないようにしていた。
けれど。
「月夜さん」
「はい」
「少し歩きませんか?」
沖田が立ち上がった。
「はい」
二人は屯所を出た。
桜並木をゆっくり歩く。
風が吹き、花びらが二人の間を舞っていく。
「綺麗ですね」
「はい」
「来年も見たいですね」
「……来年も?」
月夜が足を止める。
沖田は笑った。
「はい」
「約束しましたから」
月夜は俯いた。
「沖田さん」
「はい?」
「身体のこと……隠してませんか?」
沖田の笑顔が止まった。
しばらく沈黙する。
「……先生から聞きました」
「何を?」
「身体が、以前のようには戻らないと」
月夜の指が震える。
「どれくらい……?」
「分かりません」
「一年?」
「もっと短いかもしれません」
「……そんな」
月夜の瞳から涙がこぼれた。
「だから、来年の桜なんて……」
「見ますよ」
沖田は優しく言った。
「絶対に」
「どうして、そんなことが言えるんですか!」
月夜が初めて声を荒らげた。
「約束したからです!」
沖田は黙って月夜を見る。
「私は……あなたを失いたくない」
月夜の声が震える。
「せっかく全部終わったのに」
「千年の戦いも終わったのに」
「どうして今度は……あなたなんですか」
沖田はしばらく何も言わなかった。
そして。
月夜の手をそっと握った。
「僕も、死にたくありません」
月夜が顔を上げる。
「もっと生きたいです」
「みんなと笑いたい」
「桜も見たい」
「月夜さんとも、もっと一緒にいたい」
沖田は笑った。
「だから、生きるつもりです」
「約束を守るために」
月夜は涙を拭った。
「……絶対ですよ」
「はい」
「絶対に、来年も一緒に桜を見る」
「約束です」
二人は小指を絡めた。
その夜。
屯所の縁側で、土方は一人月を見上げていた。
そこへ沖田がやってくる。
「土方さん」
「総司か」
「少し話してもいいですか?」
「珍しいな」
沖田が隣に座る。
「僕……長くないかもしれません」
土方は黙っていた。
「医者から聞いた」
「そうですか」
「だから何だ」
「……え?」
「死ぬつもりなのか」
沖田は苦笑した。
「そんなつもりはありません」
「なら生きろ」
土方は沖田を見る。
「何が何でもだ」
「はい」
「お前は新選組の一番隊組長だ」
「勝手にいなくなるな」
沖田は笑った。
「分かりました」
そして立ち上がる。
「来年も桜を見ます」
「当たり前だ」
沖田が去っていく。
土方は、その背中をしばらく見つめていた。
「……総司」
小さく呟く。
「約束は守れよ」
その頃。
現代。
一人の青年が夜の街を歩いていた。
神代朔夜。
彼は、長い旅を終えていた。
高層ビル。
走る車。
スマートフォンを手に歩く人々。
コンビニの明かり。
すべてが見慣れた現代の風景だった。
「……戻ってきたのか」
朔夜は足を止める。
幕末で過ごした時間が、夢だったように思える。
土方。
近藤。
沖田。
月夜。
血月城。
九条羅刹。
すべてが、あまりにも遠い。
「静かすぎるな」
朔夜は空を見上げた。
そこには、赤くない月が浮かんでいる。
すると。
――ひらり。
一枚の桜の花びらが舞ってきた。
「……桜?」
朔夜は花びらを手に取った。
その瞬間。
あの日の光景が蘇る。
血月が消えた朝。
月夜の笑顔。
沖田の声。
新選組の仲間たち。
「……そうか」
朔夜は静かに笑った。
「お前たちは、ちゃんと生きているんだな」
その時。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
知らない番号から、一通のメッセージが届いていた。
『――ありがとう』
送り主の名前はない。
朔夜は眉をひそめる。
添付されていた写真を開く。
そこには、満開の桜。
そして。
桜の木の下で笑っている月夜。
隣には沖田。
その後ろには、近藤、土方、斎藤、永倉、原田。
新選組の全員が写っていた。
朔夜は息を呑む。
「……月夜」
写真の中の彼女は、幸せそうに笑っていた。
朔夜は画面をそっと撫でる。
「約束……守ったんだな」
目を閉じる。
もう戻る必要はない。
あの時代には、あの時代の未来がある。
自分には、自分の未来がある。
「じゃあな」
朔夜は夜空へ向かって呟いた。
「俺は、こっちで生きていく」
「お前たちは――そっちで生きろ」
春風が吹く。
桜の花びらが舞う。
朔夜は振り返らなかった。
ただ、胸の中にある記憶だけは決して捨てなかった。
千年の約束は終わった。
けれど。
人と人が交わした約束は、時代を越えて残り続ける。
翌朝。
京。
満開の桜の下。
月夜と沖田は並んで歩いていた。
「来年も見ましょうね」
月夜が言う。
「はい」
沖田が答える。
「必ず」
二人は笑った。
遠くでは新選組の仲間たちが待っている。
近藤が手を振る。
永倉が何か叫んでいる。
原田が笑っている。
斎藤はいつものように静かに立っている。
そして土方が怒鳴った。
「総司! 月夜! 早く来い!」
「今行きます!」
沖田が笑う。
月夜も走り出す。
桜が舞う。
その光景を、朝日が優しく照らしていた。
千年続いた憎しみは終わった。
血月も消えた。
そして今。
新しい約束が始まった。
――来年も、また桜を見よう。
未来がどうなるかなんて、誰にも分からない。
それでも、人は明日を信じる。
大切な誰かと、もう一度笑うために。
そのために、今日を生きる。
神代朔夜は現代で。
月夜と沖田は幕末で。
それぞれの場所で、新しい人生を歩き始める。
時代は違う。
世界も違う。
それでも。
あの日交わした約束だけは、決して消えない。
――桜が咲くたび。
きっと、誰かが思い出す。
血月の夜を。
共に戦った仲間を。
そして。
最後まで守り抜いた――千年の約束を
ここまで『血月の新選組 ――人を斬れない最強剣士と吸血鬼の姫――』をお読みいただき、本当にありがとうございました。
最初は、幕末の新選組と吸血鬼という、一見すると交わるはずのない二つの世界を組み合わせたところから始まった物語でした。
人を斬れない剣士。
吸血鬼でありながら、人間を信じようとする少女。
そして、歴史の陰に隠れていた千年の因縁。
物語を書き進める中で、月夜や沖田、土方、近藤、斎藤、永倉、原田、そして神代朔夜たちが、まるで自分の意志を持って動いているように感じる瞬間が何度もありました。
特に最後の「また来年も桜を見よう」という約束には、この作品で描きたかったものを込めました。
未来がどうなるかは、誰にも分かりません。
大切な人と、ずっと一緒にいられる保証もありません。
それでも、人は誰かと約束する。
「また会おう」
「また笑おう」
「また桜を見よう」
そんな小さな約束が、明日を生きる理由になるのだと思います。
そして、神代朔夜を現代へ戻したのも、この物語が過去だけで終わる物語ではないことを示したかったからです。
幕末で生きた人々にも未来があり、現代を生きる私たちにも未来がある。
時代が変わっても、人が誰かを想う気持ちは変わらない。
それが、この物語で最後に伝えたかったことです。
ここまで読んでくださった皆様。
途中からでも、この物語を見つけてくださった皆様。
そして、月夜たちの旅を最後まで見届けてくださった皆様。
本当に、本当にありがとうございました。
もし少しでも、
「読んでよかった」
と思っていただけたなら、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
最後に――。
血月は消えました。
千年の憎しみも終わりました。
けれど、物語の中で交わされた約束は、これからも残り続けます。
桜が咲くたびに。
夜空に月が浮かぶたびに。
きっと、どこかで彼らは笑っている。
そう願っています。
『血月の新選組』――完。
そして、またいつか。
別の物語でお会いできることを願って。
最後まで本当にありがとうございました。




