【第二章 動乱編】 第十四話 夜羽の秘密
北山村から壬生屯所へ戻ったのは、夜明けを迎える頃だった。
隊士たちは疲労の色を隠せない。
それでも誰一人欠けることなく帰還できたことに、土方は小さく息をついた。
「よく戻った。」
その一言だけだった。
だが、その短い言葉に隊士たちは救われる。
鬼の副長は、決して多くを語らない。
だからこそ、その一言に重みがあった。
朔夜は刀を納めると、縁側へ腰を下ろした。
空は白み始め、東の空には朝焼けが広がっている。
「疲れましたか?」
聞き慣れた声だった。
振り向くと、夜羽が湯呑みを二つ持って立っていた。
「お茶です。」
「ありがとう。」
二人は縁側へ並んで座る。
しばらくは何も話さなかった。
朝風だけが静かに吹き抜ける。
その沈黙は、不思議と心地よかった。
「綺麗ですね。」
夜羽が空を見上げる。
「朝日って。」
「吸血鬼なのに?」
思わず口にした朔夜は、慌てて頭を下げた。
「あ、ごめん!」
「いや、その……。」
夜羽は小さく吹き出した。
「ふふ。」
「吸血鬼だから朝日が嫌いだと、誰が決めたんですか?」
「え?」
「私たちは太陽で灰になるわけではありません。」
「弱るだけです。」
朔夜は目を丸くした。
「そうだったの?」
「人間が作った物語は、少しだけ大げさなんです。」
二人は顔を見合わせて笑った。
戦いばかりだった日々で、初めて心から笑えた気がした。
「朔夜。」
夜羽が珍しく名前で呼んだ。
その声には、どこか迷いがあった。
「少し……歩きませんか?」
二人は屯所を出て、まだ人通りの少ない鴨川へ向かった。
朝霧が川面を覆い、水鳥が静かに羽を休めている。
夜羽は橋の欄干へ手を添えた。
「私は。」
少しだけ間を置く。
「吸血鬼の王の娘なんです。」
朔夜は驚かなかった。
「やっぱり。」
「気付いていましたか。」
「何となく。」
十三将たちが夜羽を「姫」と呼んでいた。
あの態度を見れば、普通の吸血鬼ではないと分かる。
夜羽は寂しそうに微笑んだ。
「私の父は、人間と吸血鬼は共に生きられないと言いました。」
「でも私は。」
遠くを見る。
「母が人間だったんです。」
朔夜は息を呑む。
「半分、人間……?」
夜羽は静かに頷いた。
「だから私は、どちらにもなれませんでした。」
吸血鬼からは裏切り者。
人間からは化け物。
居場所など、どこにもなかった。
「小さい頃は。」
夜羽は懐かしそうに笑う。
「人間の村へよく遊びに行っていました。」
「友達もいました。」
「でも。」
その笑顔が消える。
「ある日、十三将が村を襲ったんです。」
握った拳が震える。
「私のせいでした。」
「違う!」
朔夜は思わず声を上げる。
夜羽は首を振る。
「父は言いました。」
『人間を愛する者は、人間ごと滅ぼせばいい。』
「私は。」
「何もできませんでした。」
声が震えていた。
何百年も胸にしまい込んできた後悔。
初めて誰かに話している。
朔夜はゆっくり立ち上がる。
そして夜羽の隣へ並んだ。
「俺も。」
「え?」
「助けられなかった人がいる。」
母でも父でもない。
現代で助けられなかった人々。
未来が見えても、救えなかった命。
「だから分かる。」
「後悔って、消えない。」
夜羽は黙って聞いていた。
「でも。」
朔夜は朝日に目を細める。
「一人じゃ抱えなくていい。」
「これからは。」
「俺も一緒に背負う。」
夜羽は大きく目を見開いた。
「そんなこと……。」
「できる。」
朔夜は笑う。
「だって。」
「仲間だから。」
その一言だった。
夜羽の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
何百年もの間、誰にも言われなかった言葉。
仲間。
その響きが胸へ沁み込んでいく。
夜羽は涙を拭いながら、小さく笑った。
「ありがとうございます。」
その笑顔は、これまでで一番優しかった。
しかし――。
その穏やかな時間を切り裂くように、朔夜の右目が熱く疼く。
ドクン。
神速眼が映し出したのは、一枚の旗。
菊の御紋。
炎。
砲声。
そして京都御所を包む黒煙。
さらに。
炎の中で倒れる一人の男。
浅葱色の羽織。
その背中を見た瞬間、朔夜は叫んだ。
「沖田さん!!」
映像はそこで途切れる。
夜羽の表情が凍りつく。
「朔夜……?」
朔夜は震える手で右目を押さえた。
ついに歴史が、大きく動き始める。
禁門の変。
そして、沖田総司の運命が――。
朔夜は荒い息を吐きながら右目を押さえた。
「沖田さんが……。」
映像はほんの一瞬だった。
炎に包まれた京都。
御所へ向かって進軍する軍勢。
その最前線で、沖田総司が膝をついていた。
胸元を赤く染めながら。
「朔夜。」
夜羽が静かに肩へ手を置く。
「落ち着いて。」
その温もりに、荒れていた鼓動が少しずつ落ち着いていく。
「神速眼は……。」
夜羽は川面を見つめた。
「未来だけを見る力ではありません。」
「え?」
「感情が強く揺れた時。」
「運命そのものを映します。」
朔夜は驚いた。
「運命……?」
「あなたが見たのは、ただの未来ではない。」
夜羽の横顔はどこか悲しかった。
「歴史が最も大きく揺れる瞬間。」
「神速眼は、その断片を見せるの。」
だから未来は曖昧だった。
だから羅刹だけは見えなかった。
神速眼は万能ではない。
"変えられる未来"しか映さないのだ。
「もう一つ。」
夜羽は静かに続けた。
「あなたに黙っていたことがあります。」
朔夜は息を呑む。
「私たちの契約。」
「実は、命だけじゃありません。」
「え?」
夜羽は自分の胸元へ手を当てる。
淡く紅い紋章が浮かび上がった。
それは朔夜の右手にも同じように現れる。
「契約した者同士は。」
「寿命を分け合う。」
時間が止まった。
「……今、何て。」
「私は吸血鬼。」
「人間よりずっと長く生きる。」
「でも。」
夜羽は少しだけ笑った。
「あなたへ寿命を分けています。」
朔夜は言葉を失う。
「じゃあ……。」
「夜羽が弱っているのは。」
「契約のせい?」
夜羽は何も答えない。
それが答えだった。
朔夜は拳を握る。
「どうして言わなかった!」
「あなたは。」
夜羽は優しく微笑む。
「誰かを助けるためなら、自分を犠牲にする人だから。」
「だから言えなかった。」
その言葉が胸に刺さる。
その時だった。
壬生屯所の方角から鐘の音が鳴り響く。
ゴォォォン――。
一度。
二度。
三度。
緊急招集の鐘。
「副長だ!」
町人が叫ぶ。
「何かあった!」
朔夜と夜羽は顔を見合わせ、一気に駆け出した。
壬生屯所。
庭には隊士たちが整列している。
土方歳三の表情は険しかった。
「今しがた会津藩から急使が来た。」
全員が息を呑む。
「長州藩が動く。」
ざわめきが広がる。
「御所を狙う。」
近藤勇が静かに続ける。
「京は戦になる。」
禁門の変。
歴史が動く。
朔夜の右目が疼く。
ドクン。
また映像。
今度はさらに鮮明だった。
炎。
砲撃。
燃え上がる町家。
泣き叫ぶ子ども。
逃げ惑う町人。
そして。
黒煙の中を歩く羅刹。
その背後には十三将全員が並んでいた。
彼らの目的は戦ではない。
混乱に乗じて――
血月の封印を解くこと。
「しまった……!」
朔夜は思わず叫んだ。
「狙いは御所じゃない!」
隊士たちが一斉に振り向く。
土方が鋭く問う。
「どういうことだ。」
「奴らは戦を利用する気です!」
「京都中が火に包まれれば、人間は戦うことで精一杯になる!」
「その間に封印を――!」
夜羽も青ざめた。
「血月王……。」
近藤がゆっくり頷く。
「つまり。」
「俺たちは長州だけじゃなく。」
「吸血鬼とも戦わねばならんということか。」
土方は刀へ手を添えた。
「面白ぇ。」
鬼の副長が不敵に笑う。
「敵が何人いようが。」
「京は守る。」
その言葉に隊士たちが刀を抜いた。
「誠!」
浅葱色の羽織が風を受ける。
その姿を見つめながら、朔夜は心の中で誓った。
(今度こそ。)
(沖田さんも。)
(夜羽も。)
(京都も。)
(全部守る。)
しかし、その決意を嘲笑うように。
京の空へ。
赤黒い月がゆっくりと昇り始めていた。
血月――。
その夜。
誰にも知られぬまま、京都の地下深くで巨大な石棺に一本の亀裂が走る。
――パキン。
封印が、音を立てて崩れ始める。




