第7話 救えなかった人
雨の匂いがした。
夜半はひとり、縁側へ腰を下ろしていた。
都は静かだった。
いや。
静かすぎた。
それが逆に、不気味だった。
百鬼夜行。
九尾。
怪異の暴走。
そして、都の闇。
あまりにも多くの異変が重なり始めている。
ここ数日、夜半はほとんど眠っていなかった。
怪異討伐。
結界の巡回。
帝からの密命。
清継との衝突。
白妙の護衛。
終わらない。
夜は、どこまでも続いていた。
「……少しだけ」
夜半は目を閉じる。
それが、よくなかった。
意識が沈む。
深く。
静かに。
そして。
懐かしい声が聞こえた。
『夜半!』
振り返る。
春の日差し。
青空。
幼い自分が、そこにいた。
まだ小さな少年。
今よりずっと柔らかな顔で、楽しそうに笑っている。
『はやく!』
その先には、父と母がいた。
優しい目をした父。
花のように笑う母。
「夜半、転ばぬようにな」
「今日は桜を見に行きましょう」
穏やかな声。
暖かな手。
幸せだった。
あの頃は。
怪異など遠いものだと思っていた。
夜は怖くなかった。
月は綺麗だった。
幼い夜半は、よく笑う子供だった。
だが。
夢は、そこで終わらない。
空気が変わる。
冷たい風。
花弁が舞う。
母の笑顔が止まる。
『……あなた』
父が振り返る。
そこにいた。
黒い影。
異様に長い腕。
裂けた口。
怪異。
瞬間。
血が飛んだ。
母の悲鳴。
父の怒号。
幼い夜半は、動けなかった。
何が起きたのかわからない。
ただ。
目の前で、両親が壊されていく。
『逃げろ、夜半!!』
父が叫ぶ。
だが足が動かない。
怖かった。
涙すら出なかった。
ただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。
怪異が、こちらを見る。
濁った目。
裂けた口。
腕が伸びる。
その時。
「夜半!!」
誰かが飛び込んできた。
兄だった。
夜半を庇うように抱き寄せる。
次の瞬間。
――ざしゅ。
鈍い音。
赤い血。
兄の顔を、怪異の爪が深く裂いた。
「っ……!」
幼い夜半の目が見開かれる。
兄は痛みに顔を歪めながら、それでも夜半を抱えていた。
「大丈夫だ……!」
震える声。
「お前は、絶対に守るから……!」
血が落ちる。
ぽたり。
ぽたり、と。
兄の頬を裂いた傷は、深かった。
だが兄は、夜半を離さなかった。
その時だった。
月光が落ちる。
白銀の刃。
誰かが怪異を斬った。
断末魔。
瘴気。
崩れる異形。
そして。
幼い夜半は、その場へ崩れ落ちた。
救えなかった。
父も。
母も。
笑っていた日々も。
何ひとつ。
守れなかった。
――そこで夢は終わる。
夜半は、はっと目を覚ました。
呼吸が荒い。
額には汗。
障子の向こうでは、まだ雨が降っている。
「……また、か」
低い声が零れる。
夜半は静かに顔へ手を当てた。
今でも覚えている。
兄の血の温度。
あの日の悲鳴。
そして。
何もできなかった、自分。
「だからお前は、怪異を憎みきれないのか」
声がした。
振り返る。
そこには、いつの間にか清継が立っていた。
夜半は目を細める。
「……盗み聞きとは趣味が悪いな」
「聞こえたんだよ」
清継は壁へ寄りかかる。
少し沈黙してから、ぽつりと言った。
「俺も昔、弟を亡くしてる」
夜半の目が揺れる。
清継は笑わない。
「怪異に喰われた」
雨音だけが響く。
「だから俺は全部滅ぼす」
その声には怒りがあった。
悲しみがあった。
夜半は静かに目を伏せる。
「……そうか」
「お前は優しすぎる」
「お前は憎みすぎる」
沈黙。
やがて清継は、小さく笑った。
「ほんと気に食わねぇな、お前」
「同感だ」
だが。
その声は、どこか少しだけ穏やかだった。
外では雨が降り続いている。
都の夜は、まだ終わらない。




