第1話 夜に哭くもの
陽が落ちると、都は静かになる。
――いや。
本当は、その逆だ。
夜半を過ぎた頃より、都は騒がしくなる。
誰もいない路地から聞こえる笑い声。
閉ざした障子を叩く音。
橋の下から響く、女の泣き声。
人々は夜を恐れた。
だから都の者たちは、陽が沈む前に戸を閉ざす。
見ぬふりをするために。
聞かぬふりをするために。
“人ならざるもの”から、目を逸らすために。
だが。
そんな夜を、ひとり歩く者がいた。
月だけが照らす朱雀大路。
黒衣の少年が、静かに橋へ向かっていた。
風に揺れる黒髪。
月光を映す淡い瞳。
その名を、月影 夜半という。
「……ここか」
橋のたもとで、夜半は足を止めた。
最近、この橋では奇妙な噂が絶えない。
夜ごと、女の泣き声が聞こえる。
“子を返して”と叫びながら、橋を彷徨っている――と。
夜半は静かに川面を見下ろした。
春の終わり。
散った桜が、水の上をゆっくり流れていく。
その時だった。
『……かえして』
声がした。
女の声。
湿ったような、掠れた声。
『わたしの、子を……』
ぼこり、と。
川の中央が揺れる。
次いで、水面から白い腕が現れた。
細い腕。
痩せた肩。
長い黒髪を濡らした女が、水を滴らせながらゆっくりと這い上がってくる。
その姿に、生者の温もりはない。
けれど。
女は、何も抱いていなかった。
本来なら腕の中にいるはずの赤子は、どこにもいない。
空っぽの腕を抱きしめたまま、女は泣いていた。
『かえしてぇ……』
夜風が、びゅうと橋を抜ける。
普通の陰陽師なら、札を切っていただろう。
あるいは呪を唱え、すぐに祓っていた。
だが夜半は違った。
しばらく女を見つめたあと、静かに目を伏せる。
「……泣いているのだな」
女が、ぴたりと動きを止めた。
その瞬間。
裂けた口の奥より先に、夜半の目に映ったのは。
子を失った、ひとりの母の悲しみだった。
『……あぁ』
女の顔が歪む。
『わたしの子が……いないの……』
川の水が激しく波立つ。
怨嗟が膨れ上がる。
女の姿が歪み、黒い影が橋へ這い上がった。
その先には、酒に酔った男がいた。
「ひっ……!?」
男が悲鳴を上げる。
女が腕を伸ばした。
夜半は静かに刀へ手を添える。
するり、と。
刃が月光を滑った。
一歩。
ただ一歩だけ踏み込む。
次の瞬間。
白銀の軌跡が、夜を裂いた。
――ざん。
風が遅れて吹き抜ける。
女の動きが止まった。
散った桜が、はらはらと舞う。
『ぁ……』
女の頬を、一筋の涙が流れた。
夜半は刀を下ろす。
「もう、探さなくていい」
低い声が、静かに夜へ溶けた。
「お前は、充分に泣いた」
女の姿が、少しずつ薄れていく。
苦しげだった顔が、ほんのわずかに緩んだ。
まるで。
ようやく眠れる子供のように。
桜が舞う。
月が滲む。
そして女は、夜の中へ消えていった。
あとには、静かな川音だけが残る。
夜半はしばらく橋の上に立ち尽くしていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……独りで泣くには、夜は長すぎる」
その声を聞く者は、誰もいなかった。
都の夜は、今日も騒がしい。




