第9話 宵の果て
都が、燃えていた。
朱に染まった空の下、黒煙が静かにたなびいている。
けれど。
もう誰も、悲鳴を上げなかった。
夜が来れば、人が消える。
路地裏で。
橋の下で。
名もなき屋敷の奥で。
それが、当たり前になってしまったからだ。
牛車の残骸の傍らを、夜半は静かに歩く。
黒衣の袖が、灰を払った。
遠くで、赤子の泣き声が聞こえた気がした。
だが振り返った先には、誰もいない。
怪異だけが、いた。
「……間に合わなかった」
小さく落ちた声は、夜に溶けた。
都を覆う瘴気は、もう陰陽寮の結界ですら抑えきれないところまで来ていた。
百鬼夜行。
その中心で嗤う“総大将”の気配を、夜半は確かに感じていた。
ぬらりひょん。
あれが現れてから、都は壊れ始めた。
いや。
もっと前から。
ずっと、静かに狂っていたのかもしれない。
「夜半」
背後から声がした。
振り返ると、朔が立っていた。
白い髪が夜風に揺れている。
いつものような気怠げな笑みはない。
「……清継は」
「生きてる。死にかけだけどな」
朔は肩をすくめる。
「陰陽寮も半壊だ。結界は今夜までもたない」
「そうか」
夜半はそれだけ答えた。
驚きはなかった。
もう、終わりが近いことを知っていたからだ。
沈黙が落ちる。
遠くで、鐘の音が響いた。
朔はしばらく夜半を見つめ、
やがて静かに口を開く。
「……九尾を止める方法がある」
夜半は目を細めた。
「月守と、月影の力を使う」
その言葉に、
冷たい風が吹き抜けた気がした。
「封印の核が必要だ」
「…………」
「核になった者は、戻れない」
静かな声だった。
まるで、ずっと前から知っていたことを、
今ようやく告げるような声音。
夜半は何も言わなかった。
ただ静かに、月を見る。
赤い月だった。
「お前は昔からそうだ」
朔が言う。
「誰かのためなら、自分を捨てる」
夜半は微かに眉を寄せた。
「……だから嫌だった」
朔の声が、少しだけ震える。
「また、お前を失うのが」
その言葉に。
夜半は初めて、朔を見た。
けれど。
問いはしなかった。
聞いてしまえば、
もう戻れない気がしたからだ。
「朔」
「なんだよ」
「……ありがとう」
朔は顔を歪めた。
「そういう顔して礼言うな」
まるで泣きそうな顔で。
そんな顔で笑うな、と。
そう言いたげに。
◇
陰陽寮は、血と灰の匂いに満ちていた。
崩れた柱の傍で、
九条清継が壁にもたれて座っている。
白い狩衣は赤く染まっていた。
「まだ生きていたか」
清継は鼻で笑う。
「貴様こそ」
夜半は近づく。
清継はその姿を見上げ、
小さく目を細めた。
「都は終わる」
「ああ」
「怪異は滅ぼすべきだ。今も考えは変わらん」
「だろうな」
短い沈黙。
やがて清継は、
静かに息を吐いた。
「だが――」
血の滲む指で、刀を握る。
「人も怪異も救うなど、綺麗事だ」
立ち上がる。
ふらつきながらも、
その目だけは折れていなかった。
「だが私は」
清継は夜半を見る。
「その愚かさを、嫌いではない」
夜半は少しだけ目を見開き、
やがて静かに笑った。
それはほんの一瞬、
少年らしい顔だった。
◇
「……行くんですね」
白妙は、泣きそうな声で言った。
月明かりの差す廊下。
夜半は立ち止まる。
「どうして、一人で決めるんですか……!」
白妙の声が震える。
「夜半様は、いつもそうです……!」
握った袖が、小さく揺れた。
「守るばかりで……」
「誰かに守られようとしない……!」
初めてだった。
白妙が、こんなふうに感情をぶつけるのは。
夜半は静かに目を伏せる。
「……白妙」
「嫌です」
即座に返された。
「行かないでください……!」
声が、掠れる。
「ようやく……ようやく会えたのに……」
涙が落ちる。
白妙は唇を噛み、
震える声で言った。
「私は……夜半様に、生きていてほしい……」
夜半は、何も答えなかった。
答えれば、
きっと決意が揺らぐからだ。
代わりに。
そっと白妙の頭へ触れる。
「……大丈夫」
静かな声だった。
「今度は、救うから」
誰を。
何を。
その言葉は、月の下へ溶けていく。
夜風が吹いた。
黒衣が揺れる。
夜半は振り返らない。
ただ静かに、
百鬼夜行の待つ闇へ歩き出す。
「夜半様――!!」
白妙の叫びが、
夜の都へ響いた。
けれど。
黒衣の背は、
もう止まらなかった。
赤い月だけが、
静かに彼を照らしていた。




