第九話 百の差
役所は、領の中ほどにあった。
塔の側ではない。塔から離れた道沿いに、板葺きの平屋がひとつ。役所というより、少し大きな民家だった。門もなく、番の者もいない。誰でも入れる。入る用のある者が、めったにいないのだろう。
書役の男は、鴉を見て腰を浮かせた。
「記録を見る」
鴉が言った。
「記録、と申されますと」
「これまで塔に入った者の名だ」
男は座り直した。座り直すのに時間をかけた。
「……そういったものは、ございません」
「あった」
「昔はあったと聞いております。ですが、焼けました」
「いつ」
「さあ。わたしが勤めるより前のことで」
鴉は部屋を見た。
文書を入れる箱が壁際に積んである。年貢の帳面、道の普請の記録、婚姻の届け。箱の側面には墨で年が書いてあった。いちばん古いもので、十年ほど前。それより古いものが、ひとつもない。
箱の並び方は丁寧だった。埃も少ない。管理されている。管理されていて、十年より前がない。
「焼けた場所を見る」
書役は困った顔をしたが、断る理由も思いつかなかったらしい。裏へ回って、庭の隅を指した。
黒い地面があった。
草が生えていない。四角い形に、土が黒く焼けている。その隣にも同じ形の黒があった。少し離れて、もうひとつ。
三つある。
同じ大きさだった。同じ向きに、同じ間隔で並んでいる。火が広がったのなら、こうはならない。焼く場所を決めて、そこで焼いたということだった。
いちばん古いものは草が縁から入り込んでいて、いちばん新しいものはまだ縁が立っていた。数年と経っていない。
「火事だそうです」
書役が言った。
「ずいぶん、たびたび起きる」
書役は答えなかった。答えないというより、そういう考え方をしたことがない顔だった。
鴉は役所を出た。
午後になって、日が傾いた。
塔の影が伸びはじめる。この領で影といえば、それは塔の影のことだった。日が西へ回るにつれ、白い柱の影が家々の上を渡っていく。影が来ると、家の中が暗くなる。それが夕方の合図らしかった。
道を歩く者が、影に入ると足を速めた。速めた自覚もない速め方だった。
鴉は影の中を歩いた。
塔の根元から、影の先端まで。歩幅を変えずに数える。途中で畑を横切り、水路を跨ぎ、家の裏を抜けた。犬が吠えた。数を間違えないように、吠え声のあいだも数え続けた。
四百二十歩。
数え終えて振り返ると、先端はもう少し先にあった。歩いているあいだにも日は動く。そのぶん増える。増えるぶんは切り捨てた。少なく見積もるほうがいい。
自分の歩幅を測り、影の長さを出した。
次に、道端に落ちていた棒を拾った。腰までの高さで、片方の端が折れている。地面へ突き立てようとしたが、土が硬くて入らなかった。踵で穴をつけ、そこへ差し込んで、手を離す。倒れた。もう一度立てて、根元に土を寄せた。
棒の影を測る。歩幅では短すぎるので、指を開いて数えた。
棒の高さと影の長さの比を取り、同じ比を塔の影に当てる。
塔の高さが出た。
鴉はその場にしゃがんだ。指の腹では跡がつかないので、爪の先で書いた。数が四つ並んだ。
次に、自分の膝の高さを測った。地面から膝頭まで。ここでも指を開いて数えた。二度と、その半分ほどだった。
塔の高さを、膝の高さで割る。
書いて、消して、また書いた。土の上では途中の数が残らない。三度やって、三度とも同じところへ来た。
指が止まった。
四百と、幾つか。
鴉は書いた数を見ていた。風が来て、地面の字が少し崩れた。指で書き直しはしなかった。
年に一人。それがこの領の決まりだと、番人も宿の主人も言った。祝いに七軒から人が来る、年に一度の日。
三百年で三百人。
四百と幾つか、ある。
百多い。
鴉は立ち上がった。塔を見上げる。上のほうは雲に入っていて、どこで終わっているのか見えなかった。見えないぶんは数に入れていない。入れれば、もっと増える。
考えられることは、いくつかある。
三百年という言い伝えが短いのかもしれない。四百年、あるいはそれ以上かもしれない。領の者は誰も、三百という数の出どころを知らなかった。
あるいは、年に一人ではない年があった。飢饉か、疫か、そういう年に、二人、三人と入った。
どちらであっても、この領は、自分たちが差し出した数を知らない。
知らないのではない。
鴉は役所の庭の、三つの黒い四角を思い出した。同じ大きさ、同じ向き、同じ間隔。いちばん新しいものは、縁がまだ立っていた。
火事はたびたび起きる。同じ場所で、同じ大きさで、三度。
誰かが、数えさせまいとしている。
日が沈みかけていた。塔の影が長く伸びきって、領の端まで届いている。影の中では、どの家も同じ色に見えた。屋根も、道も、畑も、すべて灰の色になる。
その中で、塔だけが白かった。
鴉は地面に書いた数を、足で消した。
棒はそのままにした。倒れないように土を寄せてあるので、しばらくは立っているだろう。
宿へ向かって歩き出した。娘には、まだ言わないことにした。言えば、あの娘は数えはじめる。
数えはじめた者が、この領でどうなるかを、鴉はまだ知らなかった。




