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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第十話 七つの名

 霰(アラレ)の櫛が、まだ棚にあった。


 三日経っても、母はそれを片付けなかった。霙(ミゾレ)が手に取ると、母は台所から見ていて、何も言わずに目を戻した。片付けるなとも、片付けろとも言わない。


 霙は櫛を元の場所に戻した。


 戻してから、おかしなことに気づいた。


 霰が持っていったのは、着ていた白い着物だけだった。櫛も、帯も、木の椀も、全部この家にある。


 どこかへ行くのなら、何か持たせるはずだった。三日ぶんの握り飯でも、替えの草履でも。母は何も持たせなかった。誰もそうしろとは言わなかったし、母もそうしようとしなかった。


 そして、あちらからも何も返ってこない。


 着物が戻ってきてもよさそうなものだった。あるいは髪でも、爪でも、そういうものが。


 霙は隣の家へ行った。


 ばあさまは縁側で豆を選っていた。霙が座ると、少しだけ場所を空けてくれた。笊の中で、虫の食った豆だけが横へ寄せられていく。手つきが速い。目より先に指が選んでいた。


「お子さんのことを、伺ってもいいですか」


「うちの子」


「十六だったと」


 ばあさまの手が止まった。それから、また動きはじめた。


「よく覚えていますね」


「祝いの日に、伺いました」


「そう」


 豆が笊に落ちる音がしばらく続いた。


「お名前は、なんとおっしゃったんですか」


「楸(ひさぎ)」


 ばあさまは即座に答えた。


「楸といいます。丈が高くてね、着物の裾が足りなかった」


「その、あとで、何か戻ってきましたか」


「戻る」


「着物とか、そういうものです」


 ばあさまは笊を見たまま言った。


「戻りませんよ。そういうものじゃありませんから」


「でも」


「お受けいただいたんです。返してくださいと言うのは、いけません」


 その言い方が、母の「順番だから」と同じだった。答えているようで、何も答えていない。


「楸さんの前は、どなたが」


 ばあさまが顔を上げた。


「前」


「その前の年に入られた方です」


 ばあさまはしばらく考えていた。皺の中で目が動いている。


「……さあ。うちの筋ではありませんでしたから」


「どこのお宅かも」


「覚えていませんね」


 ばあさまは豆に戻った。


 二軒目は、道を挟んだ向かいの家だった。


 三年前に父親を出したという。名を教えてくれた。字は分からないと言われたので、霙は音だけ覚えた。その前の年のことを聞くと、主人は首を振った。


「うちのことは覚えておりますが」


 それだけだった。悪気はなかった。本当に覚えていないのだった。


 三軒目では、家の者が出てこなかった。戸の隙間から、誰かが見ているのは分かった。霙は用件を言わずに帰った。噂は回っている。


 四軒目は、井戸の近くの家だった。


 出てきたのは、母と同じくらいの年の女だった。霙の顔を見て、少し困った顔をした。それでも上がれと言ってくれた。


 茶を出されて、霙は聞いた。


「昔のことを、伺いたくて」


「昔」


「塔に入られた方のことです。この領で、これまでに」


 女は茶を注ぐ手を止めなかった。


「うちは、四十年ほど前に一人。祖母の弟です。会ったことはありません」


「お名前は」


「聞いておりません。父も知らなかったと思います」


 女は湯呑を置いた。


「そういうものです。うちの筋でも、そのくらいです」


 霙は湯呑を両手で持った。温かかった。


「代官さまのお宅は」


 と、女がふいに言った。


「代官さまのお宅も、ずいぶん昔に」


 霙は顔を上げた。


 女は自分が言ったことに気づいた顔をしていた。湯呑を持ち上げて、飲まずに置いた。


「あの、いつ頃ですか」


「さあ。わたしが子どもの時分に、そう聞いただけです」


「どなたが」


「そこまでは」


 女は立ち上がって、鍋のほうへ行った。


「今年は麦がよく出ましたね。おたくは、どうでしたか」


 話が変わっていた。霙が聞き返す前に、女は蓋を開けて中を見ていた。戻ってこないと分かる背中だった。


 五軒目を出たとき、日が傾いていた。


 塔の影が伸びてきている。家の屋根を渡って、道を渡って、霙の足元まで来た。影に入ると急に寒くなる。子どものころは、この影が来ると家へ帰る合図だった。


 霙はすぐには帰らなかった。


 日が落ちてから家へ戻り、板の間に座って、反故紙を出した。母の使いさしの筆を借りて、墨を摺る。摺りながら、自分が何をしようとしているのか、うまく言葉にできなかった。ただ、書いておかないと消えると思った。


 霰。八つ。今年。


 楸。十六。何年前かは聞けなかった。


 三年前の人。名前を聞いた。字が分からないので、仮名で書いた。


 書けたのは、七つだった。


 名前が分かるのが三つ。あとの四つは「四軒目の家の、祖母の弟」というような書き方しかできなかった。年も分からない。


 宿の主人の息子は、書かなかった。


 去年入ったことは知っている。名前は知らない。あの人に聞いていないからだった。聞かないまま、去年の人、とだけ書くのは違う気がした。


 七つ。


 霙は紙を見た。


 この領には家が六十以上ある。三百年、毎年一人ずつ入ったのなら、三百人いるはずだった。


 残っているのは、七つ。


 誰も忘れようとしたわけではない。ばあさまは楸の名を即座に言った。母は霰の櫛を片付けない。みんな、自分の家の一人は覚えている。


 覚えていて、そのほかは知らない。


 それは忘れたということなのだろうか、と霙は思った。初めから、覚えるつもりがなかったのではないか。自分の家の一人だけを覚えて、あとは数に入れない。そうやって三百年、この領は同じことを続けてきた。


 筆を置いた。


 紙の下のほうが、まだ白い。二百九十いくつぶん、白い。


 その白さを見ていると、息が浅くなった。霙は紙を裏返して、その上に手を置いた。


 外はもう暗い。塔は見えないが、そこにあることは分かっていた。


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