第十一話 夜の石
夜半に、鴉は宿を出た。
月はまだない。塔だけが、暗い中に白く立っている。道に人はいなかった。
石の列の手前まで来て、鴉は足を止めた。
焚き火があった。
三人いる。石の外側に筵を敷いて、火を挟んで座っていた。昼の七人とは違う顔だった。交代で見ているらしい。話し声はない。眠っている者もいない。
火の脇に、鍋と椀が置いてある。夜通しここにいる支度だった。誰かが命じたのではないだろう。命じられて来る顔ではなかった。
鴉は歩いた。隠れずに歩いた。
最初に気づいた男が立ち上がり、二人目が火の中の棒を掴んだ。三人目は走り出した。領のほうへ、声を上げながら走っていく。
「来るな」
立ち上がった男が言った。声が震えていた。
鴉は止まらなかった。
男が両手を広げて立ち塞がる。鴉はその横を通ろうとした。男が掴みかかってきた。袖を掴んで、引く。鴉は引かれるままに一歩ずれて、それから男の手首を取った。
捻らなかった。指を一本ずつ外した。外し終えてから、男を押した。強くはない。尻もちをつく程度の力だった。
男は座ったまま、自分の手を見ていた。何をされたのか分かっていない顔だった。
鴉は石の列を跨いだ。
内側の土は、外より柔らかかった。踏まれていない土だった。足跡が残る。
背後で音がした。振り向く前に、肩に何かが当たった。焚き火の棒だった。二人目の男が振り下ろしたらしい。先が焦げていて、火の粉が散った。
鴉は振り向かなかった。歩き続けた。
二度目が背中に当たった。三度目が腰に来た。
男の息が上がっていた。三度打って、相手が振り向きもしないことに、男のほうが怯えていた。四度目は振り下ろされなかった。棒を持ったまま、その場に立っていた。
塔は近い。石の列から塔の壁まで、あと三十歩ほどだった。
そこへ、人が来た。
声が先に来た。それから足音。領のほうから、道を埋めて人が走ってくる。手に持っているものは、鍬、棒、鎌、なにも持たない者もいる。二十人ではきかなかった。夜着のままの者もいる。履物を片方しか履いていない女がいた。
鴉は歩みを止めなかった。
最初の一団が正面に立った。塔と鴉のあいだに、体を並べる。
鴉は刀に手をかけなかった。
肩から入って、前の男をずらした。次の男が腕を掴む。掴んだ腕ごと引き寄せて、体をぶつけて外した。誰かが背中に飛びついた。振り落とさずに、そのまま二歩進んで、壁際で剥がした。剥がすときに相手の指が折れる音がした。
鴉は止まって、その男を見た。
男は右手を抱えて座り込んでいる。折れているが、それだけだった。息はある。
鴉は歩き出した。
二十歩。
鍬が来た。避けなかった。刃ではなく柄が肩に入り、鎖骨のあたりで鈍い音がした。鴉は振り向いて、鍬を持った男の手からそれを取り上げ、地面に置いた。投げ捨てはしなかった。
置かれた鍬を、誰も拾わなかった。
十五歩。
人が増えている。前が厚くなった。押しても押しても、後ろから体が補われる。誰も鴉を殴りに来ていない。ただ、あいだに入ろうとしている。
顔が見えた。昼に道で会った老人がいる。井戸で水を汲んでいた女がいる。子どもを抱いたまま来た者がいて、その子どもが泣いていた。
女が一人、鴉の前で転んだ。
転んだところへ、後ろから人が押してきた。踏まれかけて、悲鳴が上がった。
鴉は止まった。
立ち止まって、女が起き上がるのを待った。周りの人間も止まった。誰も鴉に触れなかった。触れられないまま、二十人が息を切らして立っている。
女が引き起こされ、後ろへ運ばれていった。運ばれながら、まだ鴉のほうを見ていた。
そのとき、鴉の足に何かが触れた。
老人だった。膝をついて、鴉の袴の裾を両手で掴んでいる。顔を上げていた。泣いていた。
「行かんでください」
老人が言った。
「あそこには、うちの娘がいるんです」
鴉は老人を見下ろした。
周りの誰も、その言葉をおかしいとは思わなかった。頷いた者さえいた。
「五十年前です。あそこにいるんです。何もせんでください。お願いします」
老人の手は震えていた。力は入っていない。掴んでいるというより、縋りついているだけだった。振りほどくのに力は要らなかった。
鴉はしばらく動かなかった。
それから、老人の手をほどいた。ほどくときは、さっきの男の指のようにはしなかった。ゆっくり外して、老人の手を地面に置いた。
鴉は背を向けた。
石の列を跨いで、外へ出る。誰も追ってこなかった。追ってこないまま、二十人がその場に立って、鴉が遠ざかるのを見ていた。
道の途中で、鴉は肩を回した。骨は鳴らなかった。折れてはいない。打たれた場所は分かっている。当たった感じは残っていた。
痛みだけがなかった。
宿の軒下まで戻ったとき、暗がりに人が立っていた。
霙だった。走ってきたのだろう、息が上がっている。手に紙を持っていた。




