第十二話 四百と三百
軒下で、霙は紙を差し出した。
「集めました」
鴉は受け取って、暗がりで目を落とした。字は読めた。墨が薄い。摺りが足りないまま書いたのだろう。名前が三つ、あとの四つは名前のかわりに、どこの家の誰の姉、というような書き方をしてある。
「七つです」
霙が言った。
「五軒回って、それだけでした。皆さん、自分の家の人は覚えているんです。名前も、年も。でも、その前の人は誰も知りません」
鴉は紙を返した。
「四百と少しある」
霙の顔が上がった。
「え」
「塔の高さを測った。膝ひとつで一人だ。四百と、幾つか」
霙は口を開けたまま動かなかった。
「年に一人なら、三百年で三百だ。百多い」
「百」
「雲に入っている上のほうは、数えていない」
霙は紙を持ったままだった。持ったまま、指が震えはじめた。押さえようとして、両手で持ち直した。
「三百年で、三百なら」
言いかけて、口を閉じた。紙の下のほうを見ている。七つのぶんだけ字があって、あとは白い。その白いところに百がどう入るのかを、数えようとしている顔だった。
「言うつもりはなかった」
鴉が言った。
「あんたが自分で数えたから、言った」
霙は何も言えなかった。しばらくして、頭を下げて、帰っていった。走らなかった。行きは走ってきたはずだった。
翌朝、宿に代官が来た。
表の戸が開く音で分かった。鴉が廊下へ出ると、巳戸は土間で待っていた。宿の主人は奥へ引っ込んでいる。話を聞かせない配慮というより、聞きたくないという顔だった。
供はいない。手にも何も持っていなかった。帳面も、書付も、筆も持たずに来ている。この話は、どこにも残らない。
「昨夜のこと、伺いました」
巳戸が言った。
「怪我をした者が三人おります。指を折った者が一人、肩を痛めた者が一人、あとの一人は転んだ拍子に」
「そうか」
「死んだ者はおりません」
巳戸はそこで少し間を置いた。鴉が何か言うのを待ったらしい。何も来なかった。
「刀をお使いにならなかったそうですね」
「使う理由がない」
「……なるほど」
巳戸は上がり框に腰を下ろした。座ってから、袖を整えた。座る前に框を手で払っていた。埃があったわけではないだろう。そういう順序が体に入っている男だった。
「お聞きになりたいことがおありのようだ。塔が何年ぶんあるか、と」
「聞いた」
「お答えします」
巳戸は顔を上げた。
「三百年です。三百年で、三百人。年に一人ですから、そういうことになります」
鴉は壁に背を預けたまま動かなかった。
「四百ある」
巳戸が瞬きをした。
「塔の影から高さを出した。膝の高さで割った。四百と幾つかだ。雲の上は数えていない」
土間が静かになった。
巳戸の顔は変わらなかった。表情という点では、まったく変わらなかった。ただ、袖の中で手が動いた。前と同じ動きだった。指を折ろうとして、途中で止まる動き。
「……お測りになった」
「した」
「そのような測り方は」
巳戸はそこで言葉を切った。何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなったようだった。
長い間があった。
外で鶏が鳴いた。宿の裏で誰かが水を使う音がした。竈に火を入れる音もした。宿の主人が朝の支度をしている。この土間で何が話されていようと、朝は同じ順序で来る。
「銭をお渡しします」
巳戸が言った。声の調子が戻っていた。
懐へ手をやりかけて、やめた。持ってきていない。渡すつもりで来たのではなかった。申し出て、断られる。その順序を踏みにきた男の手つきだった。
「路銀と、峠までの馬を。三日ぶんの食料も付けます。峠が塞がる前に発たれるのがよろしい」
「いらない」
「宿代はこちらで持ちます」
「いらない」
巳戸は膝の上で手を合わせた。合わせてから、離した。
「では、何をお望みですか」
鴉は答えなかった。
「わたくしには分かりません」
巳戸が言った。今度は少し早口だった。
「銭もいらぬ、礼もいらぬ、あの娘から何も受け取っていないと聞きました。それで塔へ入ろうとなさる。何のためです」
鴉は答えない。
「あなたは、ここで何かを壊して、行ってしまわれる」
巳戸の声が低くなった。
「壊れたあとに残るのは、わたくしどもです。あの娘も残ります。あの娘の母御も残る。昨夜、指を折られた男にも、家族がおります。あの男は畑を持っております。右手が利かねば、来年の作付けができません」
鴉は壁から背を離した。
「三百と言った」
「はい」
「四百ある。あんたはそれを知らなかった」
巳戸は答えなかった。
「知らないものを、あんたは三百年守ってきたわけだ」
巳戸が立ち上がった。上がり框の埃を払う。丁寧に払った。時間をかけて払った。座る前にも払っていた場所だった。
「これより先は、代官としてお相手いたします」
そう言って、外へ出た。
戸が閉まる音は静かだった。乱暴に閉めるような男ではなかった。




