第十三話 数えるな
役所の板の間で、霙はずいぶん待たされた。
書役が二度、茶を持ってきた。二度目のときに「お帰りになってもよろしいのですよ」と言われた。霙は座ったままでいた。
板の間からは、壁際の箱が見えた。年が墨で書いてある。いちばん左が去年で、右へ行くほど古くなる。端まで数えると、十ほどしかなかった。それより古い箱の置き場所には、何も置かれていない。埃も少ない。何かがあった跡ではなく、初めから何もない場所に見えた。
昼を過ぎてから、巳戸が出てきた。
「お待たせしました」
霙の前に座る。膝を揃えて、背を伸ばして座る座り方だった。
「お母さまはお変わりありませんか」
「変わりありません」
「あの日から、四日になりますか」
「五日です」
巳戸が少し笑った。笑うところではないと霙は思った。
「よく数えておられる」
「伺いたいことがあります」
霙は膝の上で手を握った。
「塔に入った人の名簿を、見せていただきたいんです」
巳戸の顔は動かなかった。
「そういったものは、ございません」
「昔はあったと聞きました」
「焼けました。火事で」
「いつですか」
「わたくしが勤める前のことです」
「何年前ですか」
巳戸は茶碗に手を伸ばした。伸ばして、持ち上げずに、指だけ縁に触れさせた。
「霙さん」
名前を呼ばれたのは初めてだった。
「お疲れなのだと思います。妹御を出されたばかりです。よくあることなのですよ、こういうときに、いろいろと考えてしまわれるのは」
「よくあることなんですか」
「ええ。何年かに一度は」
「それは、何人ですか」
巳戸の指が茶碗から離れた。
霙は続けた。自分でも声が固くなっているのが分かった。
「よくあることだとおっしゃるなら、これまでに何人おられたんですか。妹を出して、いろいろ考えてしまった人が。十人ですか。五十人ですか」
答えがなかった。
「三百年で、何人ですか」
巳戸は黙っていた。
その黙り方が、霙には妙だった。答えたくないから黙っているのとは違う。答えを探して見つからない人の黙り方だった。
「四百人います」
霙が言った。
「あの人が測りました。塔の高さを、影から出して、膝の高さで割ったそうです。一人入るごとに膝ひとつぶん伸びるから、四百と少し。年に一人なら三百のはずなのに、百多いんです」
巳戸は動かなかった。
「代官さま、百多いんです。誰かが、余分に」
「表へ出ましょうか」
巳戸が立ち上がった。
庭へ回された。
裏庭は狭かった。物置と、井戸と、あとは何もない土間のような場所だった。物置の戸が半分開いていて、中に薪が積んである。よく乾いた薪だった。
その隅に、黒い地面があった。
四角い形に、土が黒く焼けている。三つ並んでいた。ひとつは草が縁から入り込み、ひとつは半分ほど入り込み、いちばん端のものは、まだ土がむき出しだった。
霙はそれを見た。見ているあいだ、巳戸は何も言わなかった。
「ここで、何を燃やされたんですか」
「落ち葉です」
「三度もですか」
「毎年、落ち葉は出ます」
「落ち葉なら、一箇所でよくありませんか」
巳戸は答えなかった。井戸のほうを向いていた。
「霙さん、そちらのお持ちのものを、見せていただけますか」
霙は懐に手を当てた。紙を持ってきていた。持ってきたことを、この人はどうして知っているのだろうと思った。
出さないわけにもいかなかった。
巳戸は紙を受け取って、開いた。
七つの名前を、上から順に読んでいるのが分かった。目が下まで行って、それから白いところで止まった。長いこと、その白いところを見ていた。
紙を持つ手が、少し下がった。
「四軒目のお宅で、伺いました」
霙が言った。
「代官さまのお宅も、ずいぶん昔に、と。そこで話が変わってしまって、それきりです」
巳戸は紙から目を上げなかった。
「何年前ですか」
風が吹いた。黒い地面の上を、砂が薄く流れた。
「代官さま」
「……三十年です」
声が小さかった。
「三十年前です」
それだけ言うと、巳戸は紙を差し出した。霙は受け取った。
「焼いたほうがよろしい」
「え」
「そういうものは、残すものではありません」
巳戸は霙を見ていなかった。黒い四角のほうを見ていた。
「数えても、一人も戻りません。一人もです。数えられるようになるだけです。数えられるようになると、もう、数えないでいることはできない」
霙は紙を握った。握りしめて、皺が寄った。
「お帰りなさい」
巳戸が言った。
役所を出て、道を歩きながら、霙は気づいた。
名前は、聞かなかった。三十年前としか言わなかった。それなのに、あの人は妹だと一度も言っていないのに、わたしはさっきから妹のことだと思って歩いている。
誰が、そう言ったのだったか。




