第十四話 石ではない
二日、鴉は何もしなかった。
宿から出ず、道にも立たなかった。宿の主人は朝と夕に戸の外を通ったが、声はかけなかった。膳も運ばなくなった。断られることを覚えたのだろう。
窓は開けたままにしていた。塔はそこから見える。伸びるところが見えるわけでもない、と主人は言っていた。二日見ていて、鴉にも見えなかった。
三日目の昼に一度だけ外へ出て、領を一周した。
歩きながら見ていたのは塔ではなく、人だった。
見張りは道の側にしかいない。塔を囲む石の列は輪になっているのに、人が立つのは領から塔へ向かう道の一点だけだった。裏側には家がない。畑もない。行く理由のない土地には、誰も行かない。
交代の刻限も分かった。日の入りに三人、夜半にもう三人。夜半の組は、前の組が来るまで待たずに座る。そのあいだ、火の前に誰もいない時間が少しある。
その夜、鴉は領の外を大きく回った。
畑の縁を伝い、林を抜けて、塔の裏へ出た。半刻ではきかなかった。途中で二度、道を横切る者を避けた。石の列に着いたときには、月が中天を過ぎていた。
人はいない。
鴉は石を跨いだ。
内側の土は柔らかい。足跡が残る。三十歩で壁に着いた。
近くで見ると、白灰色は一色ではなかった。うっすらと濃淡がある。雲を見上げたときのような、境目のない濃淡だった。継ぎ目はどこにもない。
鴉は手を伸ばした。
触れた。
温かい。
石ではなかった。石は夜になれば冷える。ここへ来るまでに跨いだ石の列も、手をついたときは冷えていた。この壁は、生き物の腹に手を当てたときの温さだった。
押した。沈んだ。指の分だけ沈んで、離すとゆっくり戻った。戻り方が遅い。押した跡が、しばらく残っていた。
鴉は掌を平らに当てて、そのまま動かずにいた。
動いている。
脈のようなものではなかった。もっと不規則で、あちらとこちらで別々に動いていた。壁の一尺左で何かが動き、しばらくしてから右下で別の何かが動く。ひとつの生き物の鼓動ではない。ひとつの中に、たくさんの動きが入っている。
鴉は手を横へずらした。
三歩ぶん移動して、また当てた。同じだった。さらに三歩。同じだった。どこに当てても、そこだけが別々に動いている。
鴉は耳を当てた。
音があった。
遠い。厚いものを隔てた向こう側の音だった。何の音かは分からない。規則がない。重なっている。
鴉は数えようとした。
ひとつを選んで、それだけを追う。追っているあいだに、別のものが上へ被さる。被さったほうを追うと、最初のものがどこへ行ったか分からなくなる。三つまでは分けられた。四つ目で崩れた。
やり直した。今度は二つで崩れた。
数えられないほど重なっている。
しばらく聞いてから、鴉は耳を離した。
顔を上げる。壁は上へ続いていた。首を反らしても終わりが見えない。四百と幾つか、と鴉は思った。四百の膝が、この上に積まれている。
鴉は刀を抜いた。
柄を短く持って、壁に刃を当てる。深くは入れなかった。皮を裂く程度に、横へ引いた。
抵抗があった。石なら刃が滑る。木なら食い込む。この壁は、どちらでもない引き方をした。刃が入って、閉じようとして、閉じきれずに開いた。
黒いものが滲んできた。
月の下では黒く見えたが、黒ではないだろうと鴉は思った。滲んで、膨らんで、垂れた。壁を伝って落ちていく。
鴉は指で受けた。
温い。粘りがある。触れた指のあたりが、少しずつ痺れてきた。痺れは腕へ上がってこない。指先で止まった。
親指と擦り合わせた。血なら、そのうち乾きはじめる。これは乾かなかった。粘りが強くなっただけだった。
匂いは分からなかった。
鴉はその指を見ていた。それから壁を見た。傷は閉じかけていた。ゆっくりと、両側から寄って、線だけを残して塞がった。
残った線を指でなぞる。窪んでいる。塞がったが、元には戻っていない。
滴が地面に落ちていた。
三つ、四つ。落ちたところの土が、色を変えていた。黒く、湿ったふうに見えるが、水を吸った黒さではない。落ちた点を中心にして、そこだけ土が死んでいた。
鴉はしゃがんで、その土を見た。
草が短いのは、踏まれているからではなかった。
この石の内側の土は、三百年、これを浴び続けている。
鴉は立ち上がった。指についたものを、袴で拭った。拭ってから、もう一度手を壁に当てた。
温かい。動いている。
塔ではない。
これは、積み上がっているのだ。四百と幾つか、まだここにある。
鴉は手を離した。
石の列を跨いで外へ出て、来た道を戻りかけて、途中で足を止めた。
振り返らなかった。西のほうを見た。
領の外れ。宿の主人が、あちらへは行くなと言った方角だった。塔の血が地面を殺すのなら、それが地の下を通って、どこかで外へ出ていないとは限らない。
子どもの時分から行くなと言われて育つ場所。理由は聞かない。聞くものではない。
鴉は西を見ていた。
月が傾いていた。塔の影が、さっきより長く伸びている。




