第十五話 まだ赤い
朝、宿の前に人が集まっていた。
日が出たばかりだった。道に霜が降りていて、人の立っているところだけが黒くなっている。しばらく前から待っていたのだろう。
三十人ほどいた。昨夜の見張りの顔もあれば、井戸端で会ったような顔もある。女もいた。誰も刃物を持っていない。鍬さえ持っていなかった。手ぶらで来ることが、この人たちにとっては正しい作法らしかった。
鴉が戸を開けると、前列が半歩下がった。
下がってから、下がったことを恥じたように、また戻った。
「今日じゅうに、領をお出ください」
前に立った男が言った。四十がらみで、日に焼けている。声は落ち着いていた。何度か練習してきたのだろう。
「代官さまの言いつけではありません。わたしどもの願いです」
「出ない」
男の口が少し開いた。理由を言われると思っていたらしい。
「昨夜、お灰さまに近づかれたそうですね」
「近づいた」
「傷をつけられたと」
鴉は答えなかった。
男の後ろで、女が一人、口を押さえた。
「なぜです」
男が言った。声が少し高くなった。
「あそこには、わたしどもの身内がおります。あなたに何をされたのか、わたしどもには分かりません。分からないということが、いちばん恐ろしい」
鴉は男を見ていた。
「わたしの兄も、あそこにおります」
男は続けた。
「もう四十年になりますが、おります。あなたが刃を当てられたところに、兄がいたかもしれない」
三十人が頷いた。誰もその言い方をおかしいと思わなかった。
「荷を出せ」
誰かが言った。
二人が宿の中へ入っていった。宿の主人は土間の隅に立っていた。止めなかった。加わりもしなかった。ただ立って、自分の家の中を人が歩いていくのを見ていた。
荷が外へ出された。鴉の荷は少ない。振り分けの袋がひとつ。それが道に置かれた。
そのあとから、もうひとつ何かが転がり出た。
木彫りの鳥だった。荷と一緒に払われたらしい。首のところで削り損なったものが、土の上に転がった。
人の動きが止まった。
宿の主人が走り出てきた。
膝をついて、両手で拾った。土を払って、袖で拭いて、それから胸に抱えた。誰も何も言わなかった。主人は立ち上がって、鴉を見た。目が合った。何か言おうとして、言わずに、家の中へ戻っていった。
荷を出した二人が、決まりの悪い顔をしていた。
道に置かれた袋を、誰も跨がなかった。避けて立っている。出しはしたが、触れていたくはないらしかった。
「お出ください」
男が言った。
鴉は歩き出した。荷のほうへではない。人のほうへ歩いた。
前列が固まった。道を空けるべきか、塞ぐべきか、決めていなかったらしい。決めないうちに鴉が来た。
肩から入った。男が一人ずれた。次の男の腕が伸びてきて、鴉の襟を掴んだ。掴んだまま引かれて、二人ぶん進んだ。三人目が腰に組みついた。四人目が足を取ろうとした。
鴉は歩き続けた。
人が乗ってきた。背中に、腕に、腰に。五人。六人。それでも足が止まらない。一歩が短くなっただけだった。
誰かが叫んだ。悲鳴に近い声だった。
止まらないということが、この人たちを怖がらせている。鴉は三十人を退けようとしていない。ただ、前へ進んでいる。それだけのことが、押している側には通じなかった。
右から光が来た。
鎌だった。誰が持ってきたのか、いつ抜いたのか、鴉には見えていなかった。振られたものが、左の二の腕に入った。
布が裂けて、その下も裂けた。
鴉は避けなかった。振り向きもしなかった。
鎌を持った男が固まった。腕から血が出ているのに、女は歩き続けている。顔も動かさない。斬られた側を見もしない。
男は鎌を落とした。落としてから、後ずさった。
組みついていた者たちが、次々に離れた。誰も鴉に触っていなくなった。
鴉は道の真ん中に立っていた。
左腕から血が落ちている。袖の先から、指を伝って、土に落ちていた。
三十人が黙って見ていた。誰かが息を吸う音がした。それ以外の音がなかった。
鴉は自分の腕を見た。
布をめくって、傷を確かめる。深くはない。骨まで行っていない。血が出ている。
赤かった。
指で受けた。昨夜と同じようにした。親指と擦り合わせる。指の腹がすぐに乾いて、ざらついた。
血はそうなる。
塔の壁から滲んだものは、月の下で黒く見えた。指についたそれは、粘って、乾かなかった。痺れが残った。
こちらは赤い。まだ赤い。
鴉は布を戻して、押さえもせずに歩いた。
歩きながら、左手を二度開いて閉じた。動く。指も曲がる。切れていてはいけないものは切れていない。深さは、そうやって確かめるしかなかった。
誰も追わなかった。荷を拾ってから、領の道を西へ向かった。宿へは戻らなかった。
血の跡が、道に点々と残った。子どもがそれを見ていた。母親に手を引かれて、それでも振り返って見ていた。母親は子どもの顔を前へ向け直させて、それから自分も一度だけ振り返った。




