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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第十六話 元気にしている

 母は、霙(ミゾレ)が帰ってくるのを待っていた。


 夕餉ができていた。二人ぶんある。汁と、麦と、干した菜。霙が座ると、母は椀をこちらへ押した。


「食べなさい」


 霙は箸を取った。


 汁の実が多かった。菜も、芋も、いつもより厚く切ってある。温め直したものだった。二度目か、三度目か、芋の角が煮崩れている。この幾日、母は毎晩こうして二人ぶん作っていたのだろう。霙が帰らない晩も、作って、片付けていた。


「役所へ行ったんだってね」


「はい」


「代官さまを困らせたって聞いたよ」


「困らせてはいません」


「そう」


 母は自分の椀に手をつけなかった。霙が食べるのを見ていた。


「宿の女の人は、追い出されたそうだね。腕を斬られて、それでも歩いていったって。子どもがみんなその話をしてる」


 霙の箸が止まった。


「怪我をしたんですか」


「腕をね。でも平気だったって。血が出ているのに、平気な顔で歩いていったって」


 母は少しだけ身を乗り出した。


「あんた、あの人と関わっているんだろう」


 霙は答えなかった。


「怒っているんじゃないよ」


 母は言った。本当に怒っていない声だった。


「怖いんだよ。あんたが、ああいう人と一緒にいるのが」


「おっかさん」


 霙は箸を置いた。


「四百人います」


 母が霙を見た。


「塔の高さを測ったそうです。一人入るごとに膝ひとつぶん伸びるから、高さを膝で割ると四百と少しになるって。三百年で年に一人なら三百のはずなのに、百多いんです。誰かが、数えられていないんです」


 母は聞いていた。


 聞きながら、箸を取って、霙の椀の縁へ寄っていた菜を真ん中へ寄せた。それだけのことに、ずいぶん手をかけた。それから箸を置いた。


 最後まで聞いて、それから頷いた。


「そうかい」


「そうかい、って」


「四百でも三百でも、同じことだろう」


「同じじゃありません」


「同じだよ」


 母は椀を持った。ようやく食べはじめた。ゆっくり食べた。


「多くたって少なくたって、みんなあそこにいるんだから。同じことだよ」


 霙は母の顔を見た。


 嘘をついている顔ではなかった。誤魔化している顔でもない。当たり前のことを言っている顔だった。


「……あそこに、いるんですか」


「いるよ」


「どうして分かるんですか」


「どうしてって」


 母は箸を止めた。分からないことを聞かれた顔だった。


「そういうものだからだよ」


「見た人がいるんですか。誰か、中を見た人が」


「見なくたって」


「見なくたって、なんですか」


 母は答えなかった。困っていた。責められて困っているのではなく、説明できないことを説明しろと言われて困っていた。


 箸を置いて、それから膝の上で手を重ねた。何度か重ね直した。


「うちの母も、そう言ってたよ」


 母は言った。


「母の母も、そう言ってたそうだ。あんたのおばあさんだね。あの人も、そのまた前の人から聞いたんだろう」


「誰が最初に言ったんですか」


「そんなことは、誰も言わないよ」


 母は霙を見た。困った顔のままだった。


「昔から、そう言われてるんだよ」


 それが答えだった。


 霙は汁を見ていた。菜が沈んでいる。もう冷めていた。


「霰(アラレ)は」


 と、母が言った。


「霰は、元気にしているよ」


 霙の手が震えた。


 棚に櫛があった。霰のものだった。今朝も拭いたのだろう。歯のあいだに埃がない。


「なんで、そんな」


「元気にしてる」


 母は繰り返した。優しい声だった。


「あんたが心配するようなことは、何もないんだよ。あの子はちゃんとしてる。あんたのほうがよっぽど心配だよ。ごらん、痩せたじゃないか。ちゃんと食べてないだろう」


 母は霙の手を取った。手首を握って、細さを確かめるように握った。母の指は冷たかった。水仕事のあとの指だった。


「霰が心配するよ」


 霙は手を引いた。


 勢いよく引いてしまって、椀が倒れた。汁が板の間に広がった。母が布を取りに立って、戻ってきて、拭いた。何も言わずに拭いた。拭き終えてから、また座った。


 板の目に沿って、汁の跡がうっすら残った。母はそれを見なかった。


「ごめんなさい」


「いいんだよ」


 霙は立ち上がった。


 棚から紙を取った。七つの名前を書いた紙だけを取った。筆は取らなかった。取れば、母が気づく。


 それから上着を一枚。


 板の間の隅に、三つ目の寝床が敷いたままになっている。あの日から畳まれていない。


「どこへ行くんだい」


「分かりません」


「そう」


 止められると思っていた。腕を掴まれるか、泣かれるか、そのどちらかだと思っていた。言い返す言葉も、途中まで用意していた。


 母は座ったまま、霙を見上げた。止めなかった。手を伸ばしもしなかった。


「戸は開けておくからね」


 霙は下を向いた。顔を見せずに、土間へ下りた。


「いつでも帰っておいで。ここはあんたの家なんだから」


 霙は草履を履いた。履くのに手間取った。指が言うことを聞かなかった。


 外へ出た。


 夜だった。灰の色の空に、塔の上のほうだけが白く見えている。この家からは、いつもそう見えた。子どものころからそうだった。


 霙は歩き出した。


 行くあてはひとつしかなかった。血の跡が西へ続いていたと、子どもたちが話していた。


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