第十七話 温かいもの
血の跡は、村外れで消えていた。
土が乾いていて、点が薄くなり、そのうち分からなくなった。霙はそのあたりで立ち止まり、周りを見た。
道から少し外れたところに、小屋があった。
昔は道具を置いていたのだろう。屋根の半分が落ちて、戸は外れたまま立てかけてある。灯りはない。
霙は近づいた。
「鴉さん」
返事はなかった。
もう一度呼んで、それから戸のあいだから中を覗いた。
いた。壁を背にして座っている。膝を立てて、腕を膝に置いて、目を開けていた。眠っていない。霙が近づいてくるあいだ、ずっと聞いていたのだろう。
「入るか」
「はい」
霙は入った。中は外より暗かった。目が慣れるまで、しばらく動けなかった。
土の上に、藁が少し敷いてある。誰かが昔ここで寝たのだろう。その上に鴉の荷が置いてあった。開けられていない。
屋根の落ちた側から、風がまっすぐ入ってくる。そちら側の土は湿っていた。藁が敷いてあるのは、乾いているほうの隅だった。壁に釘が一本残っていて、縄の切れ端が下がっている。何を吊るしていたのかは分からない。
「火は」
「いらない」
霙は鴉の向かいに座った。腕が見えた。袖が裂けて、そこから下が黒く汚れている。
「手当てを」
「いらない」
「化膿します」
「しない」
霙は懐から布を出した。家を出るとき、上着と一緒に取ってきたものだった。何に使うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
鴉は動かなかった。断りもしなかったので、霙は膝を進めて、袖をめくった。
傷は長かった。二の腕の外側を、斜めに走っている。血は止まりかけていた。暗くて縁がよく見えず、霙は顔を近づけた。
その上に、もっと古い傷があった。細いものが何本も、腕の内側まで続いている。霙は数えはじめて、途中でやめた。数えられるほどの数ではなかった。見なかったことにして、布を裂いた。
布は一枚しかない。裂けば二本になる。二本では足りないかもしれなかった。霙は一本だけ裂いて、残りは膝の上に置いた。
巻くには腕を持ち上げてもらう必要があったが、言う前に鴉が持ち上げた。
巻くとき、鴉の腕は硬くならなかった。人は痛いところに触られると、体が引く。それがなかった。
結び終えて、霙は手を止めた。
「痛くないんですか」
「痛くない」
「……傷が浅いから」
「そうじゃない」
鴉はそれきり言わなかった。霙は続きを待って、来ないことが分かって、座り直した。
「家を出てきました」
「そうか」
「追い出されたんじゃありません。母は、いつでも帰っておいでと言いました。戸は開けておくと」
霙は膝の上で紙を握っていた。握りしめすぎて、端が破れかけていた。
「四百人の話をしました。そうしたら、四百でも三百でも同じだって言うんです。みんなあそこにいるんだから、同じだって」
鴉が顔を上げた。
「そう言ったのか」
「はい」
「あそこに、いる、と」
「いる、と言いました。ずっとそうです。この領の人は、みんなそう言います。役所の代官さまも、井戸の人たちも。五十年前の人でも、四十年前の人でも、いる、と言うんです」
鴉はしばらく黙っていた。
それから、右手を上げて、手のひらを霙に見せた。
「昨夜、あれに触った」
「塔に」
「壁に手を当てた。温かかった」
霙の息が止まった。
「石は夜に冷える。あれは冷えない。押すと沈む。離すと戻る」
「それは」
「動いている。ひとつじゃない。あちこちで別々に動いている。耳を当てると音がする。何の音かは分からない。重なっている。数えられないほど重なっている」
「何の音なのかも、分からないんですか」
「分からない」
「でも、音はするんですよね」
「する」
鴉はそれ以上言わなかった。
鴉は手を下ろした。
「刃を当てた。血が出た。傷は塞がった」
霙は口を押さえた。押さえた手が震えていた。
「あれは石じゃない。生き物だ」
「じゃあ」
霙の声がかすれた。
「じゃあ、中の人は、生きているんですか。霰は」
「分からない」
「でも、温かいって」
「温かいものが、生きているとは限らない」
鴉は霙を見ていた。暗くて表情は見えなかった。
「死んだものは冷たい。あれは冷たくない。分かるのはそれだけだ」
霙は膝の上を見た。紙が握りつぶされて、皺だらけになっている。開いて、伸ばそうとして、うまくいかなかった。
「生きていたら」
霙が言った。
「生きていたら、出してあげられます。まだ間に合います。まだ八日しか経っていません」
鴉は答えなかった。
「四百人います。四百人、生きているんです。だったら」
「娘」
鴉が言った。
「生きているほうが、悪いこともある」
霙は顔を上げた。
鴉は壁に背を戻して、目を閉じていた。それ以上は何も言わなかった。
霙は紙を伸ばし続けた。皺は伸びなかった。伸びないまま、何度も指でこすった。
外で風が鳴った。屋根の落ちたところから、空が見えた。塔はここからでは見えない。それでも霙は、そちらの方角が分かった。この領で育てば、目をつぶっていても分かる。
あそこに、四百人いる。
温かいものが、あそこにある。
霙はその夜、眠らなかった。




